戦え戦士たち

44 聡司の帰路

 帰りたい、帰りたい、帰りたい。その思いによってただひたすらに聡司は自宅のある城下町へと歩き続けた。限界を超えて、もう歩けないという弱音が口を衝いて出そうになる。けれどその戯言を聞き留める仲間はいない。汚れた肌を不快感が覆う、夏ではなくそれだけが良かった。乾ききった喉からは塩味がせり上がり、食料を求めて道の先を見る。村はまだか。


 夜が訪れて、街の明かりが見えた。行きの行軍で滞在した村だ。あそこはとてもいい村だった。けれど村に立ち寄ることには危険性が伴う。だからこれまで避けてきた。ただ、今はそれにさえ縋りたい。聡司は疲労しきって正常な思考が働かない頭で決意を決めると村へと向かった。


 村の中央の広間には人々の姿はなかった。一番に井戸へと向かう。小さな井戸の傍に寄ると汲み上げようの桶を手に取った。疲労しきった腕で引き上げるのは一苦労で、やっとの思いで水を汲み上げた。桶の端に口づけるとごきゅごきゅと喉を鳴らしながら飲んだ。


「ああ」


 ため息が漏れる。もう一度口づける。砂漠のように乾ききった喉に水が染み込んでいく。


「ああ」


 中の肌着を脱いでそれを桶に浸す。絞り上げるとタオル代わりにして肌を拭った。体を拭き終えて井戸のそばに座り込む。もう、立ち上がれない。一歩たりとも歩けない。冷たい井戸に寄り添って天を見上げるとガラスを撒いたような星空が輝いている。思わずため息が零れる。疲れた頭が澄んだ。自分はこの世界で一体何をやっているのだろう。


 明け方まで井戸の傍で休んで、疲れが少し取れると民家を訪れることにした。行きの旅路でお世話になった老夫婦の家だ。その時老夫婦はとても感じよく、この歳で従軍するのかと聡司を心底心配してくれた。彼らの親切心を当てにするようで気が引けるが、食事の無い生活はもう耐えられなかった。


 ノックすると老爺が顔を出した。カラスが豆鉄砲くらったような顔をしていたが聡司の顔を見ると眉を顰めた。


「あんたはいつかの少年だね。どうしたんだい、従軍は終了したのかい」

「いえ、あの。そうではなくて」


 聡司はここで初めて軍から逃げてきたという事実を告白した。すると老爺は警戒の色を濃くした。


「親切にしていただいたこと覚えてます。図々しいということは承知ですが、少し食料を分けてもらえないでしょうか」


 聡司の言葉を聞いた途端、老爺はかっと口元を開く。


「あんた金持ってるかい」

「持って……ないです」


「知らないようだから教えよう。行軍中の軍隊をもてなすと金銭が降りるんだ。だから親切にするんだよ。それに従軍の責務を放り出して逃げかえった人間にどうして我々が親切にしなくちゃいけない」


 老爺は「あんたみたいな奴がよくこの村に来るんだ」と言い捨てた後、扉を勢いよく締めた。聡司は何だか泣きたくなってその場にしゃがみ込んだ。


 空腹に耐えかねた聡司は施しを諦めて、食料を盗むことにした。家畜小屋に置いてあるキビやトウモロコシなどの家畜の飼料へと手を伸ばす。がりがりと固い食感だが、文句はなかった。食べられるだけで有難い。夢中で食べながら涙を流す。家に帰りたかった。


 木戸が揺れる音がした。振り返ると家畜小屋の入り口で若い男が驚いたように見ていた。


「お前、エサ泥棒だな」


 男は事態が飲み込めたのか、傍にあった鍬を振り上げる。聡司は謝罪するのも忘れ、逃げ出そうと駆けだした。1つしかない入り口を目指して走るが男性の振りかぶった鍬の柄が聡司を捉えた。脇腹に鋭い痛みが走る。痩せた体ではその痛みを受け止めきれず聡司は腹を抱えてうずくまった。


 村の広場で衆人環視の下、聡司は男性から激しい叱責を受ける。激しく殴られ冷水を被せられ、そして軍を抜け出した罪を問われた。ぬくぬくと暮らしている者が他人を責められるのかと、そう思ったが口にすることはしなかった。代わりに懸命に言葉を絞り出す。


「ごめんなさい、ごめんなさい」

 苦しみから逃れたくて必死に声を絞る。口内は切れて、血の味が混ざる。


「軍に突き出すべきではないだろうか」

 老人の提案に青ざめる。


「ごめんなさい、それだけはお願いです」


 軍で脱走して捕まったものを数度みた。それだけは避けたかった。

ようやく殴り終えて満足した男性と村人たちは、聡司に侮蔑をくれると村の方々へと散っていった。


 全身が痛くて、何より心が痛かった。食べた物さえ苦しみで吐いてしまった。もう、この村にはいられない。


 聡司は立ち上がると懸命に歩き始めた。棒になって久しい足を懸命に動かして。もう城下町は近い、辛い旅路が終えようとしている。道筋に迷わなかったこと、それだけが救いかもしれない。


 聡司の頭上を鳥がひゅるると飛んだ。鳴き声に反応して視線を上げると、遠くにレネの城下町が見えた。




 町には種々の音が溢れていた。薄汚れた聡司さえも歓迎するかのように人々の活気が皮膚を包み込む。温かくて、他人のぬくもりが懐かしくて。 道淵でパフォーマンスする大道芸人、こんもりと盛られた花屋の生花、そして人々の笑顔。何と温かな町だろう。町並みに目を這わせながら、自宅を懸命に探す。この世界に来て、即座に連れ出されたため位置が分からないのだ。そもそも自宅はまだあるのだろうか。


 とにかく建物が多すぎて見つからない。そう思いかけた時声が飛んできた。


「聡司!」


 明るく懐かしい母の声だ。背が低くてでもいつでも元気いっぱいで。由美子は駆け寄ってくると聡司を抱きしめた。背の低い母が背伸びした抱擁に心が温かくなる。顔を首元に埋めて呟いた。


「おかえり」


 押し込めていた孤独が溢れ出した。誰も受け止めてくれなかった辛苦ごと由美子は抱きしめてくれた。聡司は安堵すると声を上げて泣いた。

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