第二部 第四章「女神の雫」(8)

※ご注意


今回の話は(7)(8)の2本立てで一挙投稿しています。

ブックマークからここに飛ばれた方は、前話(7)からお読みくださいませ。






「まじかよ……」


 ドン・トスカーニは首が両断された若者の死体を見下ろして呆然とつぶやくと、若者の血の滴る軍刀サーベルを、まるで忌まわしいものを拭い去るようにテーブルに放り投げた。


「……本当に、おっ死んじまいやがった……」

「ドン……」


 信じられないという風に後ろを振り返ったボスに、部下たちはなんと返していいかわからなかった。

 いかなる時でも動揺を見せないドン・トスカーニのこれほど動揺した姿を見るのは、彼らにとって初めてのことだった。


「なぜだ?! なぜなんだよ!? この野郎はエスパダのために死んでやる必要なんて、まったくなかったじゃねぇか!」


 ドン・トスカーニは、感情の行き場がわからないように部下に怒鳴った。


「カタギにしとくのはもったいねぇような、潔い野郎でしたね」

「潔よすぎんだよ……。胸糞悪い」


 苛立たしげにそう言ってから、ドン・トスカーニは、テーブルの上の灰皿を手元に引き寄せた。


 灰皿の中にある葉巻は、二本。

 片方は、若者が吸っていたものだ。


「モンテ・クリスタニアかよ。へっ、ガキのくせに生意気なモン吸いやがって……」


 若者の命の炎はとうに消えてしまったが、彼が吸っていた葉巻の火種は未だ消えずにくすぶっている。


 ドン・トスカーニはその火が消えるのを惜しむように葉巻を取ると、目をつむり、黙祷を捧げるように深く葉巻を吸った。


「巡り合わせ次第によっちゃ……、おめぇと、なんぞ悪巧みでもするような目があったのかもしれねぇなぁ……。そうは思わねぇか? ドン・エルニーニョよう」

  

 トスカーニの言葉に、部下たちは息を飲んだ。

 マフィアの帝王であるドン・トスカーニは、これまで他のどんな大物マフィアに対してでさえ「ドン」と呼ぶことはなかったのだ。


「……悪ぃな、ドン。本当はおめぇのために立派な墓を作ってやりてぇんだが、俺たちみてぇな人間にゃ、墓碑銘はねぇんだよ」


 若者が吸っていたモンテ・クリスタニアをふかしながら、ドン・トスカーニはつぶやいた。


「おめぇら、せめてコイツの死体だけは、キレイにしてやってくれ。二階に立て籠もっている奴らは……ええと、どうすっかな……」


 そこまで言ってから、ドン・トスカーニは異変に気づいた。

 長年培ってきた経験が教えてくれる、強烈な危険信号。

 ドン・トスカーニは敵対マフィアとの抗争で妻と子を失ってから、その信号に逆らったことは一度もない。


 若者がデメトリオ議員たちを罪科に問わないと言ったことを部下のリットンから聞かされた瞬間に、エスパダ警察に紛れ込ませた部下たちを即応させたのも、その危険信号を察知したからだった。


「お、おめぇら……」


 自分の後ろに控えていた部下たちが全員、昏倒していた。

 いや、よく見ると、目は開いているし、指先もわずかに動いている。


「ド……ドン……に、逃……」


 部下の一人がそれだけ言うと、口をわずかに痙攣けいれんさせて、そのまま動かなくなった。


「チィッ!!」


 ドン・トスカーニは若者が愛用していた、テーブルの上に放り投げた軍刀サーベルに手を伸ばす。

 ……いや、伸ばそうとした。


「くっ……、身体が……う、うごかねぇ……」


 急速に脱力感が全身に広がり、ドン・トスカーニは部下たちのいる入口側を向いたまま、椅子から動けなくなっていた。


 そんなドン・トスカーニの真ん前で、応接室のドアがゆっくりと開いた。


「へっへっへ。……ドン・トスカーニは暗殺を恐れて毎日いろんな毒を少量ずつ飲んで慣らしているってバカみてぇな噂があったんだが、ありゃ本当の話だったんだな。ずいぶん麻痺毒の効きが悪いようだ」


 野卑な笑い声を響かせながら、でっぷりと太った男が応接室に入ってきた。

 顔面に大きな馬のひづめの跡があり、鼻が完全に曲がってしまっているが、その男が誰だか、ドン・トスカーニは容易に理解できた。


「クククッ、とうとうオレにもツキが回ってきやがったぜぇ」 

「オルビアンコ……、てめぇ……」

「お初にお目にかかるぜぇ。伝説のマフィア、ドン・トスカーニ。いや、ペロンチョ国家元首とお呼びしたほうがいいのかなぁ? クックック……」


 オルビアンコは手勢の部下を引き連れ、自らこそがマフィアの大物であると言わんばかりに、鷹揚おうようとした足取りで、ドン・トスカーニに近づいた。


「いやぁ、たまたま屋敷の前を通りがかったらよ、サツの奴らが周りを取り囲んでいるじゃねぇか。どうも様子がおかしいと思ったら、あのガキの魔法伝達テレパシーが飛んできて、ドン・トスカーニの正体があんただと言う。オレぁぶったまげたね」

「へっ」

「……おやぁ、何かおかしいんですかい? トスカーニのダンナ。麻痺毒のガスがそろそろ効いて、笑うのも大変でしょうに」


 オルビアンコは、まるで喜劇役者のように右手のステッキを振り回しながら、ドン・トスカーニに尋ねた。

 ステッキの握り手にはレバーのようなスイッチがあり、先端には噴出孔らしき穴がある。


 でっぷりと太ったオルビアンコの膝を支えているステッキは、彼にとって麻痺性の毒ガスを噴出させる護身用の武器でもあった。 


「……」

「あぁん? 聞こえねぇよ。ククッ、もっと大きい声でくっちゃべってくれやせんかねぇ?」


 ドン・トスカーニは何かを言っているようだが、麻痺がひどく、ほとんど聞こえない。

 オルビアンコは鼻が曲がり、大きな蹄の跡ができた醜悪な顔をドン・トスカーニに寄せて、トスカーニの言葉に聞き耳を立てた。


「たまたま通りがかった? フカシやがって。どうせ、ドン・エルニーニョの報復にブルっちまって、部下を引き連れて詫びを入れに来たんだろうが」

「ッ?! テメェッ!!! いつまでも大物ぶってんじゃねぇぞ!!」


 激昂したオルビアンコがドン・トスカーニの顔をステッキで打ち付けた。

 あの伝説のマフィアの顔面を殴打したという衝撃に、オルビアンコの部下たちが思わず互いの顔を見合わせる。


「他の兄弟分たちも呼びに行かせたからよ……。テメェらの麻痺が治まる頃にゃ、エスパダ中の兵隊がコッチにやってくるぜぇ? もうテメェはしまいなんだよ」


 オルビアンコはそう言って、ステッキの先をドン・トスカーニの頬に押し付けた。


「あー、聞こえてんのかあ? オレの言ってることがわかるかあ? 次にエスパダの暗黒街を支配するのは、このオルビアンコ様ってことがよ」

「……っ」

 

 オルビアンコはそこでふいに、ドン・トスカーニに押し付けたステッキを緩めた。

 トスカーニの後方に横たわる、首なしの遺体が目に入ったのだ。


「……ククク、しばらく見ねぇうちに、ずいぶん男前になったじゃねぇか、オイ」


 オルビアンコは、若者の死体の感触を確かめるように、ステッキの先で首のない身体をツンツンとつついた。


「……よせ……」

「あぁん?」


 必死に声を振り絞って制止するドン・トスカーニを、オルビアンコが睨みつけた。 


「そいつは……外国人のくせに……オレたちの国のために殉じた、イカれて誇り高い男だぜ……。そんな野郎の死体をぞんざいに扱うなんざ……、マフィアの仁義に反するとは思わねぇか……」

「カハッ!! テメェら聞いたかよ? 『マフィアの仁義』と来たもんだ!! ブワーッハッハッハ!!!」


 オルビアンコが大笑いをすると、部下たちがそれに合わせるように笑い始めた。


「もうテメェみてぇなマフィアは古いんだよ!! 仁義もへったくれもあるか!! さっさと化石になっちまえ!!」


 オルビアンコはそう言いながら、ステッキをくるくると振り回して、若者の遺体に打ち付けた。


「テメェもいいザマだよなぁ!? さんざんオレをコケにしやがって!! テメェの首とそこのジジイの首を、オレンジと一緒にエル・ブランコの青果店に陳列してやるぜぇ? 嬉しいだろ? ククク、どうしたぁ、なんとか言えよぉ!!」


 部下が目をそむけるほど執拗に、オルビアンコは死体を何度もステッキで殴打する。


「そうと決まれば、首も確保しねぇとなぁ……首はどこに転がったんだぁ? お、あったあった……」


 でっぷりと太った身体で四つん這いになってテーブルの下を覗き込んだオルビアンコがステッキを伸ばして、テーブルの足にあった若者の首を引き寄せようとする。


 その瞬間、猛禽類のような俊敏さでドン・トスカーニがオルビアンコに飛びついて、その首に腕を伸ばした。


「ぐっ?! テ、テメ……ッ」

「ずいぶんと調子くれてんじゃねぇか、オイ……。オレがやめろっつったら一秒以内にやめねぇと消されちまうって、マフィア稼業を始める時に母ちゃんから教わらなかったのか?」

「うぐっ……ぐっ!! テ、テメ……そんな力がどこに……っ」


 オルビアンコが腕に爪を立てて必死にもがこうとするが、ニシキヘビのように首に巻き付いたトスカーニの腕はピクリともしない。


「おめぇみてぇなチンピラ、いつでも消せると思っちゃいたが……、やっぱ、さっさと消しちまうべきだったわ」

「ぐ……ぐ……や、やめ……やめ……」

「あぁん? 聞こえねぇよ。もっと大きい声でくっちゃべってくれやせんかねぇ?」


 オルビアンコの口ぶりを真似て、トスカーニが言った。

 オルビアンコの膨れ上がった顔が赤黒く充血し、その目がぐるん、と上を向いたその時。


「ぐっ!?」


 突然、ドン・トスカーニはオルビアンコから手を離し、椅子に座り込んだ。

 異変を感じて、自分の身体を見下ろす。

 

 左の脇腹から、白い麻のシャツに鮮血がみるみる広がっていく。

 その中心に深々と鋼鉄製の矢が刺さっていた。


「遅くなっちまったな、兄弟」

「ぐっ、ゲホッ……。ゼェ、ゼェ……。助かったぜ、クリマコ」


 荒い息を整えながら、オルビアンコは入室してきた痩せぎすの男に声を掛ける。

 痩せぎすの男は手に持ったクロスボウの矢をつがえ直しながら、


「なぁに、いいってことよ」


 と言ってオルビアンコに笑いかけた。

 オルビアンコはそれには答えず、自分たちの部下の方までのしのしと歩くと、一人一人の顔に向かってステッキを振り下ろした。


「テメェら、なんのためにここに来てやがるんだ!? ああ?!」

「す、すいやせん!!! ドン!!」

「オレがいつ謝れっつったんだ?! オレはなんのために来たかって聞いてんだよ!!」

「ドンをお守りするためです……!!」

「まぁまぁ、兄弟、許してやってくれや。このジジイの動きはヤバかったからよ……。兄弟の痺れ薬が効いてなきゃ、オレも狙いを外して兄弟に当てちまうところだったぜ」


 短気な兄弟分に苦笑しながら、クリマコと呼ばれた痩せぎすの男が言った。


「オレの兵隊も屋敷に待たせてる。コイツらをバラして、さっさとずらかろうや」

「ああ、それもそうだな……」


 そう言いながら、オルビアンコはクリマコに近づき、手を差し出した。


「その得物、ちょいとオレに貸しちゃくんねぇか? ドン・トスカーニはこのオレ、ドン・オルビアンコが仕留めてぇんだ」

「ああ、いいぜ、兄弟」


 オルビアンコはクリマコからクロスボウを受け取ると、それを、椅子に座り込んで脇腹を押さえているドン・トスカーニの眉間に突きつけた。


「これからのエスパダのことはオレたちに任せて、安心して逝っちまいな。トスカーニのダンナ」


 オルビアンコの太い指が、クロスボウの引き金にかかったその時。


 シュパァァァァァァ――ッッ!!!


「えっ?」


 オルビアンコは一瞬、何が起こったのかわからず、ゴトリ、と床に落ちたクリマコのクロスボウと、それを握ったままの自分の右手を呆然と見下ろした。


「ぎゃ、ぎゃああああああああっ!!!! いでぇぇぇぇ!! いでぇぇぇっ!!!」


 次の瞬間に全身を襲う強烈な痛みと共に、手首から先を失った右腕から鮮血が噴き出して、オルビアンコが絶叫を上げる。


 テーブルの上を滑るように移動して軍刀サーベルを掴み、渾身の一閃でオルビアンコの手首を斬り落とした男は、驚いて見上げるドン・トスカーニのシャツで、軍刀サーベルに付いた血をごしごしと拭いた。


 三つ揃えの黒いダークストライプのスーツの上からワインレッドのストールを羽織り、髪をオールバックにした若い男。


「ド……、ドン・エルニーニョ……」


 ドン・トスカーニは、幽霊でも見るように若者を見ると、脇腹に深々と突き刺さった矢のことも、隣でわめいているオルビアンコのことも気にせずに、後ろを振り返った。

 

 そこには、あるはずの首なし死体も飛散した血痕も、まるで最初から存在しなかったかのように跡形もなく消えていた。


「せっかく一人で盛り上がってくれていたのに悪いね。あんたが殺したドン・エルニーニョはだったのさ。……この腕輪のおかげでね」

「い、いや……、ちょっと待て……。思考が追いつかねぇ……」

「そんな時間はないよ。動ける?」

「……いや、ちょっと無理だな。ここで死ぬわ。後のことは任せる」

「やれやれ……。あんたらマフィアって、死ぬ時に潔いのが美徳か何かだと思っているんじゃないの? ……ああ、そういうところは、冒険者も一緒なんだね。僕は違うけど」


 若者は苦笑して、襲撃すべきかどうか迷っているオルビアンコとクリマコの部下の方を見て威嚇すると、右手の人差し指と中指を揃えて動かして、虚空に向かって素早く何かを描き始めた。

 

 その指の動きに合わせて、空間が青白く発光し、やがてそれが六芒星の形に浮かび上がった。


「来い!! イスカンダル!!!」


 若者がそう叫ぶのと同時に、高いいななき声が聞こえたかと思うと、応接室の大窓を突き破って、巨大な何かが応接室に飛び込んできた。


 燃え盛るような、あまりにも鮮やかな真紅に、ドン・オルビアンコが目を細めた。

 若者の前に現れたのは、応接室の天井に届こうかという、巨大な馬だった。

 その突然の登場に驚愕したドン・トスカーニは若者の方を見るが、呼び出したはずの若者は目が飛び出さんばかりに驚いていた。

 

「えええええええええ!!?? お、お馬さん?! な、なんで?! え、え、生き返ったの? 幽霊なの? 幻獣なの? 僕が作り出した夢の存在なの!? 僕がお馬さんのことを考えていたから、よく似た別の馬を呼び出しちゃったの!?」

「お、おい、おめぇが呼び出したんだろうが!!」

「い、いや、そうなんだけど、僕は別の……」

「ひ、ひぃぃぃぃぃぃ!!!」


 燃え盛るような赤い巨馬の登場に、極端に怯えた男がいた。

 オルビアンコだった。


「そ、そんな……っ、てめぇは……てめぇは……っ」


 赤い馬がそれ以上何かを言おうとするオルビアンコの顔に向かって、前脚を高々と振り上げる。


「ひっ、ひぃぃぃっ!! や、やめろっ、や、やめてくれぇぇっ!!! ひぃぃぃぃぃっ!!!!! ぐげぇ!!!」


 馬のひづめの跡が痛ましく残るオルビアンコの顔面に、再び赤い巨馬の馬蹄ひづめがめり込み、そのままオルビアンコは絶命した。


「や、やっべぇ……、セルフで復讐しちゃったよ。あのお馬さんの可能性めっちゃ高いじゃん……。僕、死霊術師ネクロマンサーになっちゃったのか……い、いやいや、あのお馬さんのお兄さんってことにしておこう……、あっ、ちんちんが付いてない!! お姉さんか!! い、いや、待てよ……。あのお馬さんはオスだっけ……、あ、首しか見てないからちんちんがあるかどうかわからん……、ちんちんを探さなきゃ、あ、だめだ、すごい動揺してる」

「お、おい、さっきから何ちんちんを連呼してんだよ! 時間がないんじゃなかったのかよ!!」

「あ、そうだった!」


 若者は少しためらいながら、馬の首に手を掛けると、馬は最初からそうするつもりだったかのように膝を付いて、若者を美しい銀細工で作られた鞍に乗せた。


「ほら、おっさん、早く!」

「国家元首をおっさんって呼ぶんじゃねぇよ!」

「チンピラの親分なんておっさんで十分だよ。ほら、早く!」


 若者は強引にドン・トスカーニを背中に乗せると、手綱を引き寄せた。

 

 一瞬で手首を斬り落とされたオルビアンコ。

 死んでいたはずの若者。

 突然現れた燃え盛るような真紅の巨馬。

 そんな巨馬を、まるで亡霊でも見たかのように怯えるオルビアンコ。

 そして、そんなオルビアンコが巨馬に踏み殺されるという、ほんの数分の間に起こった出来事に頭がついていけず、クリマコを含むマフィア連中は呆然と立ち尽くしている。


「エスパダ警察だ!! 全員武器を降ろして投降しろ!!」

「や、やべぇ!! サツが来やがった!!」


 屋敷の外から聞こえる声に、マフィア達が我に返った。


「よし、今だ!! 行け、お馬さん……のお姉さん!!」


 若者が号令すると、真紅の巨馬が高い嘶き声と共に、登場した時と反対側の窓を突き破って外に飛び出した。 


「う、うっわっ、速っ!! 夢で見た時ぐらい速いじゃん!!!」


 興奮したように若者が叫ぶ。

 ドン・トスカーニは事態が飲み込めないまま、ただ必死に若者にしがみつく。


 トスカーニは、その馬の常識外れた疾駆に、エル・ブランコの色鮮やかな美しい景色がまるで水彩画のようににじみ、溶け込んでいく様を、夢の世界にいるように感じていた。


「おっさん、ケガは大丈夫? 痛いと思うけど、その矢、まだ抜いちゃダメだかんね」

「ああ、なんとかな……」

「左脇腹でよかったね。右だったら40分で死んでるとこだよ」

「おめぇは首が飛んだのに生きてるみてぇだがよ」

「それ、ちゃんと説明したんだけどな……、年寄りはこれだから」


 若者がそう言っている間に、つい先程までいた屋敷がみるみる遠ざかっていく。

 トスカーニが振り返ると、ものすごい数のエスパダ警察隊が屋敷の周りを完全に包囲していた。


 皮肉にも、オルビアンコが自分の手勢を集結させたおかげで、連中を一網打尽にできたわけだ。


「……おめぇ、まさか、そこまで計算ずくだったってのか……?」

「なんか言った? ちょっとお馬さんがはやすぎて、よく聞こえない」

「フッ、なんでもねぇよ」


 ドン・トスカーニは苦笑して、流れる景色と、燃え盛るように真紅あかい馬、そして、同じようにワインレッドのストールをなびかせる若者の背中を眺める。


「なんだよこれ……、いつからこの国は、おとぎの国になっちまったんだ……」


 ドン・トスカーニはくすくすと笑った。

 本当はいつものように大笑いしたいのだが、腹に矢が突き刺さっていてはそうもいかない。


 それにしても……。

 トスカーニは思う。


 この馬の、なんと美しいことか。

 エスパダ暗黒街を支配してきたトスカーニは、世界中の名馬を所持していたが、これほどまでに眩しいほどに鮮やかな赤毛の馬など、見たことがない。


 巨馬でありながら、その体躯はしなやかで、そして、音速のような速さで走る。


「なぁ、おっちゃん」

「なんだ」


 時計台をすり抜けてデュエリ川を挟む橋を渡り終えたところで馬を止めると、若者はドン・トスカーニに尋ねた。


「『赤い頭』って、こっちの言葉でなんて言うの?」

「……テスタロッサだ」

「テスタロッサか……、テスタロッサ……。うん、いいな」


 若者は何かに納得したようにうんうんとうなずくと、馬の首をごしごしと撫でた。

 そして、その美しい赤い跳ね馬に向かって、まるで親友のように語りかけた。 


「今日からお前の名前は、テスタロッサだ」

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