第二部 第四章「女神の雫」(1)


 その日、僕は朝からエスパダ王宮であるアレハンドロ宮殿にある謁見の間で、女王陛下から叙勲を受けた。


 一度も顔を合わせたことがない議会のお歴々や貴族が見守る中、近衛兵たちが整列してラッパを鳴らし、僕は女王陛下の前でひざまずいた。

 あ、イシドラさんもいる。

 目が合うとこっちに手を振ってくれたけど、さすがに手を振り返すわけにもいかない。


「ベルゲングリューン伯」

「はっ」


 女王陛下の呼びかけに応じる。

 見た目はお婆さんのはずなんだけど、玉座に座る女王陛下はまったく年齢を感じさせない魅力がある。

 とても理知的で、なんというか、独特のオーラがある。

 ユリーシャ王女殿下の絶対服従したくなる美のオーラとは、また別の、言ってみれば叡智えいちのオーラのようなものだろうか。


「叙勲を前に、そなたから我が王宮に献上したいものがあると聞いたが」

「はっ」




 僕は女王陛下に一礼してから後ろを向いて合図をすると、レオさんが布包みを持って僕に手渡してくれた。


 そのまま女王陛下に一礼して、僕にも一礼して退室するレオさんを見て、女王陛下が軽く口元を緩めたのを僕は見逃さなかった。


「海賊団から奪還した宝物の中に、先の大戦の折にこの王宮から失われたとされる名画『アフロディーテの邂逅かいこう』を発見いたしましたので、献上させていただきたく存じます」


 僕がそう言うと、周囲の議員や貴族たちから大きなどよめきが起こり、布包みをほどいて豪華な額縁に入った絵画を女王陛下に向けて差し出すと、歓声が上がった。


「ほう……、わらわも実物を見るのはこれが初めてじゃ。……噂に違わぬ、鮮やかな彩りに見事な筆使い。やはりアレハンドロ・ブセナロッソは天才じゃな。……実に美しい絵じゃのう」

「はっ」


 どうやら女王陛下は、本当に感動しているようだった。

 しばらく、周囲の人や僕の存在も忘れたかのようにしげしげと絵画を眺め、それからみんなに見えるように絵画を大きく掲げて見せると、周囲の人々も皆、女王陛下に媚びて拍手などをすることなく、食い入るように眺めていた。


 王宮独特の緊張感を保ちつつも、なんとなくアットホームな雰囲気がする。

 これがエスパダの気風なのだろうか。


 それとも、女王陛下の近くにいる、いかにも人の良さそうなチョビひげの国家元首がにこにこしているからだろうか。 


「さて、ヴァイリスの伯爵、まつおさん・フォン・ベルゲングリューンよ。貴殿のエスパダでの爵位、ならびに立ち位置をどのように設定すべきであるか、わらわは大使イシドラと国家元首ペロンチョとずいぶん話し合ったのだ」

「ペ、ペロンチョ……様……」


 僕は笑いだしてしまいそうなのを必死にこらえて、なんとか「様」を付けることに成功した。

 あだ名とかじゃないんだよね?

 本当にペロンチョっていう名前なんだよね?


 小太りの身体、丸い顔にちょび髭がついて、どんぐりのような目。

 そして、つるっつるのはげ頭のてっぺんに、ちょっとだけ、やわらかそうな髪がペロンチョしていて、僕は後でアザになるんじゃないかと思うほど太ももをつねって笑うのを我慢した。


「ベルゲングリューン伯」

「は、はっ」

「そなたに約束していたことがあったな。叙勲の際に、貴殿が喜ぶような、格別の褒美を取らせると」

「はっ」


 ペロンチョ様で笑いをこらえていたので、一瞬頭が真っ白になったけど、思い出した。

 エル・ブランコの馬糞騒動で恨み言を言った僕に、女王陛下がそう言ったのだった。


「例の物を持て」

「ハッ!」


 女王陛下がそう言うと、近衛兵が豪華な黄金のトレイに載せられ、銀の蓋がかぶせられた何かを持って、僕の前にひざまずいた。


(な、なんだろ……わくわく)


 近衛兵がもったいぶった動作で、トレイの蓋を持ち上げるのを、僕はどきどきしながら眺めた。


 トレイの中にあったのは……、燃え盛るように明るいオレンジ色の……。

 オレンジ1個だった。


「ふっ」


 僕は大変失礼ながら、謁見の間で思わず、苦笑してしまった。

 いや、この際エスパダの王宮だろうが謁見の間だろうが関係ない。 

 

 あの馬糞まみれの犯人にされかけたり、噂を流されて怪盗をけしかけられた僕へのお礼が、たったのオレンジ1個だということなのか。

 だとしたら、いくら女王陛下とはいえ、無礼にも程があるんじゃないだろうか。


「はっはっは!! よいから、そんな顔をせず、それを食べてみよ」

「た、食べてみよって……ここでですか?」

「そうじゃ、許す」


(あいかわらず、この人むちゃくちゃだなぁ……)


 ……謁見の間で王様の前で何かを飲み食いしている奴を見たことがあるだろうか?


 そんなことを思いつつも、女王陛下から許されたので、僕はオレンジの皮をむいた。

 ぴゅっ、と果汁が指にかかり、鼻孔に広がるオレンジの香りに思わず顔がすっぱくなる。

 

 あ、近衛兵の人がむいた皮をさっと受け取ってくれた。

 きっとこの人たち、女王陛下がこういう無茶なことを言うのに慣れているんだな。


「そ、それでは、いただきます……」


 いかにもすっぱそうな匂いに目を細めながら、僕はかなり赤に近いオレンジの果肉を口の中に放り込んだ。


「……」

「どうじゃ?」

「…………」

「なんじゃ、どうした……、まさか、口に合わぬのか?」

「…………いです……」

「ん?」


 本当はまだ、飲み込みたくない。

 でも僕は女王陛下にお返事するため、オレンジの果肉をごくりと飲み込んでから、女王陛下に答えた。


「こんな美味しいオレンジは生まれてこの方、食べたことがないです!! 女王陛下!! これは世界一のオレンジです!!」


 僕がそう言うと、なぜか周囲の人たちがどよめいて、拍手をした。


「はっはっは、そうであろう!そうであろう!」

「オレンジって、こんなに甘くて美味しい食べ物だったんですね……。いや、これは料理にも使えるぞ……」


 僕は謝礼にオレンジを出されてムッとしてしまった自分を恥じた。

 

 最初にくる上品な甘み。

 しっかりとした果肉の歯ごたえを残しながら、たっぷり口の中に広がる果汁。

 そして、最初に感じた甘みを爽やかにするように後からくる優しい酸味。

 間違いなく、世界一のオレンジだ。


 僕は本気で感動してしまった。

 こんなにも美味しい、これまでのオレンジの概念が変わるようなものを体験させていただく以上の謝礼など、この世に存在するだろうか。


「過分なご褒美、ありがたく頂戴いたしました。女王陛下」


 果肉の最後の一粒まで堪能させてもらってから、僕はひざまずき、女王陛下にうやうやしく一礼した。


「これこれ、わらわがオレンジ1個で礼を済ますと思ったのか? ベルゲングリューン伯」


 女王陛下はそう言ってから、こう付け加えた。


「……いや、エスペランサこう

「?」

「そなたにエスペランサの家名を与え、エスパダ王国での爵位を侯爵マーキスとする」

「は?」


 思わず変な声が出た。


「え、えっと、すいません、大変失礼ながら……侯爵マーキスって、あの侯爵です?」

「そうじゃ」

「伯爵の1つ上で、公爵デュークの1つ下の?」

「そうじゃ。今後、そなたは『まつおさん・フォン・ベルゲングリューン=エスペランサ侯を名乗るがよい」


 女王陛下がそう言うと、ぱんぱかぱっぱーん!!と近衛兵たちのラッパが鳴り響いた。


「いやいやいやいやいや、ぱんぱかぱっぱーんとかじゃなくて!」


 僕が場をわきまえるのも忘れて女王陛下にツッコむと、謁見の間にどっと笑いが起こった。

 ちょっとヴァイリスの王宮では考えられない反応だ。


(というか、こいつら全員グルなんじゃ……)


 ヴァイリス王国の貴族に、自国よりも高い位を与えるというのは、ある意味ヴァイリスのメンツを潰すというか、ケンカを売っているようなものじゃないか。


(もしかして、この女王陛下、僕にかこつけて、ヴァイリス王国とかエリオット国王陛下に嫌がらせしたいだけなんじゃ……)


 通商条約を結ぼうと必死なアルフォンス宰相閣下の顔面蒼白な表情が目に浮かぶ。


 民主化以降のエスパダの貴族というのは、実質的な権力はかなり制限されている。

 汚職や圧政まみれだった貴族は爵位剥奪の上国外追放や投獄、場合によっては処刑と、かなり苛烈な粛清しゅくせいが行われたのが大きい。


 だから、エスパダの侯爵といっても、ヴァイリスの侯爵ほどの権力はないとは思う。

 でも、だからといって、ヴァイリス王国に嫌がらせするために、王様とか、大公爵みたいな特殊な爵位を除けば上から二番目の爵位である侯爵の地位をくれてやるというのはさすがにやりすぎではないだろうか。

 

 ……僕はエスパダに来てまだ2日しか経っていないんだぞ。


「まぁ、そう、あわてるでない。考えあってのことじゃ」

「はぁ……、どんなお考えでしょう」


 きっと僕は、どうせロクな考えじゃないんだろ……という気持ちがバレバレな顔をしていることだろう。


「そなたは今、エスパダの通商権を持っておる」

「はい」

「今後、わらわと議会は、ヴァイリス王国との通商条約を結ぶつもりはない」

「ええええ……」


 宰相閣下……南無……。


「つまりは、エスパダ交易はそなたの独占市場ということになるわけだ」


 おでこから変な汗が出てきた。


 いや、すんごい話なんだけど、話がうますぎる。

 ……というか、不満に思う人が出てこないどころか、なんで議会の連中がにやにや笑っているんだ。

 嫌な予感しかしない。


「だが、さすがにそんな途方もない利益をそなた一人で寡占かせんするのは暴利というもの。そこでじゃ……」


 女王陛下はにっこりと笑って、言葉を続ける。

 信じられないことに、こうして笑うと、本当に30代の美しい女性にしか見えない。

 なるほど……、きっと若かりし英雄エリオは、この笑顔にやられちゃったんだろうなぁ。


「貴殿をエスパダ親善大使に命ずる。親善大使という肩書とエスペランサ侯という地位によって、そなたはエスパダ王国の庇護の下、ヴァイリスを中心とする他国にエスパダの特産品を広めるのじゃ」

「……ちょっと何をおっしゃっているのか……」


 僕がそう言うと、女王陛下が懐から何かを取り出した。

 さっきのオレンジだ。


 ……食べたばっかりなのに、口の中から唾液がじわじわ出てきた。

 僕はすっかり、このオレンジの虜になってしまったらしい。


「まずはこれじゃ。オレンジは我がエスパダの特産品でな。貴殿が申した通り、世界一の味わいじゃ。長きにわたる品種改良とエスパダの恵まれた気候が生み出した奇跡の果実で、『女神の雫』と呼ばれておる」

「女神の雫……」

「我がエスパダ王国の国庫から貴殿に金を貸す。貴殿はその金でエスパダのオレンジ農家と契約し、それをヴァイリスやジェルディクなどで販売し、その利潤のいくばくかを我が国に還元するという作戦じゃ」

「作戦じゃ……って」


 そ、それってようするに、通商条約を結ばずに、関税なしに僕を使って貿易をやらせるってことなんじゃないの……。

 限りなくブラックに近いグレーな気がするんだけど……。


「そんな顔をするでない。そなたが心配するようなことはすべて問題ない。エリオットはわらわのやることには一切逆らえんでな。ほっほっほ!!」

「うわぁ……」


 エリオット陛下のことが忘れられず独身を通して、美しい女性に変身せず老婆のままで通しているんだと思って、いろんな事があったけど、ちょっとだけ女王陛下のことを密かに尊敬していたのに……。


「ペロンチョ様。僕みたいなどこの馬の骨ともわからない人間にそんなことをやらせて、議会で反対する人はいないんですか?」


 ペロンチョ、という名前を言うだけで笑ってしまいそうになりながらも、僕は女王陛下のそばに宰相のように立っている国家元首にたずねた。


「むろん、反対する議員は一定数おります。恥ずかしながら、この叙勲式に参列している者たちは、いわゆる「ペロンチョ派」と呼ばれる議員たちでして……」

「ペロンチョ派……」


 きっと最大派閥なんだろうけど、自分だったら「ペロンチョ派のベルゲングリューン議員」とか絶対言われたくないなぁ……。


 そして、この謁見の間が妙にアットホームな雰囲気の理由がわかってしまった。

 ペロンチョ派はこういう人たちが多いということなのだろう。


「ただ、侯爵は私共にとって、『どこの馬の骨ともわからない人間』ではありませんぞ」


 ペロンチョはそう言って、僕に大判の紙を広げてみせた。


「げっ……イグニア新聞の最新号……」


 僕の反応に、ペロンチョは朗らかに微笑んだ。

 ……というか、通商権がないイグニア新聞社は一体どうやってエスパダでもこんなしょうもない新聞を流通させているんだろうか、と思ったら、新聞の端に小さく「エスパダ出版 提供:イグニア新聞社」と書かれていた。

 手広くやってんなぁ……。


「これまで我々は、ベルゲン……いや、エスペランサ侯のご活躍を海を隔てた隣国のおとぎ話のように読んでおりましたが、エル・ブランコでの出来事で、あなたは我々にとって隣人ではなくなったのです」


 小太りのおっさんとは思えないようなつぶらな瞳をキラキラさせて、ペロンチョは言った。


「あなたはエル・ブランコの市民たちの前で、こうおっしゃいました。『僕はエスパダ市民ではないが、この国と、文化を、心から愛している!! 見てくれ、僕のこの超カッコいい財布を!! この名刺入れを見てくれ!! エスパダの革製品は最高だ!! 着てる服もスーツも仕立てがいいものばかりだ!! しかもワインまで美味い!! ハッキリ言って、あんたらのセンスは世界最高だ!!』」

「……ものすごく恥ずかしいから、全部暗唱しないでください……」


 僕は今すぐ頭を抱えてベッドの上でごろんごろん転がりたくなった。


「実は私、あの時、近くの喫茶室であなたの様子を見ていました。市民たちに素性がわからないように変装までしてね」


 相当な人望があるらしく、ペロンチョが穏やかな口調で話すと、周囲の人々は静かに聞き入っていた。


「でも、あなたが変装も何もせず、市民たちの前で堂々と語っていらっしゃるのを見て、私は思わず感動してカツラを脱ぎ捨てました」

「髪をペロンチョしちゃったんですね」


 思わず言ってしまったけど、聞こえなかったようでよかった。

 あ、女王陛下だけぷっ、って笑った。


「エスパダをこよなく愛する自分を他所者だと思うなら、石を投げろと言った時、市民は誰一人としてあなたに石を投げなかった。……つまり、あなたがエスパダの人間であると、市民が認めたのです。そして、我がエスパダは民主主義、市民たちの国なのです!」


 すごく恥ずかしいことを真顔で言われているんだけど、いい人感がすごすぎて、いつものように茶化すことができない。

 女王陛下とはまた別の意味で勘が狂う人だ。


「我がエスパダは女王陛下の英断により民主化に成功し、アヴァロニアの他国に抜きん出て近代化に成功しました。ですが、まだ生まれたばかりの赤ん坊のような国です。市場は解放されて活性化しましたが国庫は常に逼迫ひっぱくしていて、外貨の獲得が急務となっているのです」

「それではなおのこと、ヴァイリスやジェルディクと通商条約を結んでしまえば……」


 僕がそういうと、ペロンチョは首を振った。


「我が国は貴族たちの既得権益を廃し、自由な流通を実現させるため、アヴァロニア全土で流通している硬貨ではなく紙幣を通貨としました。そんな我が国の紙幣の、通貨としての信頼は、言ってしまえば、生まれたばかりの赤ん坊国家の保証だけなのです」

「なるほど……」


 ヴェンツェルみたいに詳しくないからわからないけど、たぶん、今のエスパダが国家として他国と交易するには、たくさんのややこしいハードルを超えなくてはならなくて、今のエスパダにはそんな体力がないということかな。


 きっと、そうしたことを一つ一つ決定するのにも、議会の承認を得たり、色々しなくちゃならない。

 だったら今の法律やルールを変えずに、表向き、僕が勝手にオレンジ売ってまーす、という形にしちゃったほうが、いい感じに丸く収まるということだろうか。


「エスペランサとはエスパダ語で『希望』という意味です。どうか侯爵閣下には、我がエスパダの希望になっていただきたいのです!!!」


 ちょび髭の人の良さそうなおっさんとは思えない力強い言葉に、周囲の議員や貴族たちの拍手が重なった。


 ……ふぅ……。


 僕はどう答えたものかと考えあぐねて、ちら、と女王陛下の方を見る。


 ……オレンジを食っていた。


 まぁ、いっか。

 とりあえずオレンジを買い付けて売るぐらいなら、どうってことないだろう。


 僕は、そんなことを考えていた。

 この時はまだ、そんなことを考えていた。


 「女神の雫」を売るということが、どれほど大変なことか。


 この女王陛下、いや、もうこの際くそばばあと呼ばせてもらいたいんだけど、このばあさんがまたしてもとんでもない無理難題を僕に押し付けやがったということを知るのには、それほどの時間はかからなかった。

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