第38話

 紗雪へ


 紗雪のことを思うと、どうしてこんなことをしてしまったのか。今でも自分の犯した過ちを後悔しない日はないです。

 どうしてあの時あんなことをしてしまったのか。

 どうして紗雪を一人にしてしまったのか。

 本当に言葉で言い表せないくらい、後悔の念に苛まれています。

 でも、一度犯してしまったことは変わらない。紗雪を一人にしてしまった事実は、絶対に消えない。

 だからお母さんはその罪を背負って、生きていかないといけない。こうして今、刑務所にいるのも罪を償うため。

 わかっているつもりです。

 でも、紗雪が何度も私に会いにきてくれる度に、募る思いがありました。

 子供に心配をかける親なんて、死んだ方がましだと。

 紗雪は頭の良い子だから、逃げているだけだと思うかもしれません。その通り、実際にお母さんは逃げているんだと思います。

 でも今のお母さんにはもう何もしてあげられないし、生きていると紗雪を悲しませるだけでしかない。

 だから死ぬことは、今の私ができる精一杯の償い。本当にごめんなさい。

 もしこんな駄目なお母さんでも、紗雪に何か残せるのなら。その思いだけを頼りに、これから紗雪に全てを伝えたいと思います。

 紗雪は小さかったから、知らないことばかりかもしれない。

 それとも雅樹さんから聞いているのかな。

 既に聞いていたとしても、お母さんの言葉でこのノートに記します。

 直接会って言うことができないお母さんを、どうか許してください。


 紗雪が小学生になり、家に一人でいる日々を過ごしていると、ふと寂しさを感じる時があって。だから気を紛らわせるために、雅樹さんに働きたいって言いました。雅樹さんのことを考えれば、言わないほうが良かったのかもしれない。それでも紗雪が味方をしてくれて働けることになった。あの時は嬉しかった。本当にありがとう、紗雪。

 パート先には、久美ちゃんのお母さんがいました。同じ職場で働く約束とかしてなかったからこそびっくりしたし、知っている人がいたのは嬉しかった。

 実際に働くのは楽しかった。息抜きになったし、家にいるだけだと聞けない話をたくさん聞くことができた。

 気を紛らわせるには十分だった。でも、今考えるとそれがいけなかったと思います。

 ある日、久美ちゃんのお母さんから変な話を聞きました。

 雅樹さんが、紗雪ではない子供と二人きりで会っていたという話を。

 当然、私は嘘だと思いました。雅樹さんが浮気をしてるわけがない。その思いが強かったから。だから私は真相を確かめるために、雅樹さんのことを尾行しました。自分の目で確認して、久美ちゃんのお母さんが間違ったことを言っていることを証明するために。

 雅樹さんが東京へ行く日以外の一週間、私は尾行を続けました。結果、雅樹さんが私の知らない子供と二人きりで会うようなことは、一度もありませんでした。

 やっぱり久美ちゃんのお母さんの話は嘘だった。そう確信した矢先でした。

 働き始めて二ヶ月が経ったある日。私は信じたくない光景を見てしまいました。

 雅樹さんが、私の知らない子供と会っている場面を。

 久美ちゃんのお母さんが言っていたことは事実だった。

 たぶんそのことがショックで、私は少しずつおかしくなってしまったんだと思います。そんな私に追い打ちをかけるように、久美ちゃんのお母さんが「また見たよ」と教えてくれました。

 心配して言ってくれているんだとわかっていたつもりです。でも私はその話をふられた時、冷静でいることができませんでした。そして私は、久美ちゃんのお母さんに言ってしまいました。

 うるさいって。

 それから、久美ちゃんのお母さんとの仲は険悪になってしまった。次第に仕事が楽しくなくなっていった。気を紛らわせるためだったのに、いつの間にか別のことで苦しむことになってしまった。

 もう辞めたい。その思いが強くなっていたある日。久美ちゃんのお母さんと、他の人達のひそひそ話を聞いてしまった。

 私が働くのは、周囲を見下したいからだと。お金があるのに働いているのは、私達に対する嫌がらせだと。

 そんなつもりは当然なかった。でも噂は広がっていき、いつしか私は周囲から避けられるようになってしまった。それに加え、私の知らないところで雅樹さんが子供と会っている。二つの問題が、酷く私を苦しめた。

 もう仕事をやめよう。雅樹さんが正しかった。

 そう思いかけていた矢先、久美ちゃんのお母さんと二人きりになった時があった。

 その時、たくさんの悪口を言われた。久美ちゃんのお母さんは隠すことなく、私に対しての嫌味をたくさん言ってきた。

 雅樹さんが不倫をしているだの、見下していい気になってるんじゃないだの。

 反発すればよかったのかもしれない。そんなこと微塵も思っていないって。

 でも、私は何も言えなかった。実際に雅樹さんが見知らぬ子供と会っていた現場を、私自身見ていたから。

 頭の中がぐちゃぐちゃで、どうすればよいのかわからなくて。そんな時、久美ちゃんのお母さんに言われた。その一言がきっかけだった。


「ボンドなんて、所詮は誰も幸せにしないのよ」


 カッとなったのを今も覚えています。私にとって一番言ってほしくない言葉だったから。

 たぶんそれが引き金だった。

 気づいた時には私の目の前で、久美ちゃんのお母さんは……。

 刑務所に入ってから、暫くは自分がどうしてここにいるのかわからなかった。

 私は何もしていない。気づいたら久美ちゃんのお母さんが倒れていただけ。

 そうやって自分を守る事だけしか考えられない日々が永遠と続いた。

 でも、そんな駄目な私を助けてくれたのは紗雪だった。

 紗雪が初めて私に会いに来てくれて。紗雪の顔を見た時、ようやく気付くことができた。私自身がとんでもない過ちを犯していたことに。

 とめどなく涙が溢れた。でも泣いても現実は何も変わらなくて。紗雪が会う度に無理して笑っている姿を見るたびに、胸が苦しくなってしまって。

 どうして私は生きているのか。次第にそのことについて考えるようになって。

 だから私は少ない時間だったけど、雅樹さんと面会できる時にたくさん会話をした。

 紗雪をどうしたら幸せにしてあげられるのか。

 話を重ねる途中、雅樹さんには私とは別の女性との間に授かった命があることを知った。そして会っていた子供は有香という名前の女の子だということも。普段は上京した時に会っていたけど、どうしても来たいと言った時だけ、足を運んでもらっていたということを。

 私が目にしたのは、まさにその瞬間だった。

 結局私が悩んでいた問題の全ては、言いたいことを相手に伝えていれば、どうにかなったかもしれないことだった。あの時すぐに雅樹さんに事実を確認していれば、訪れる未来は変わっていたかもしれない。紗雪を悲しませることはなかったかもしれない。

 だから私は雅樹さんに言いました。

 ボンドの研究を続けてほしいって。少しでも幸せになれる人が増えるように。

 そしてボンドが紗雪を幸せにしてくれることを祈って。


 紗雪にはこれから素晴らしい未来が待っているはずです。

 その未来を掴むために、伝えたいことがあります。

 言いたいことがあったら、はっきりと言ってください。

 黙ったままでいると、私みたいに取り返しのつかないことになるから。

 紗雪は頭の良い子です。

 だからこそ自分が今何をしたいのか。

 どんなことで悩んでいるのか。

 雅樹さんでもいいし、紗雪が大切に思っている人でもいいです。

 一人で抱え込まずに打ち明けてほしい。

 何も言わなくて後悔することだけは、決してしないでください。

 大丈夫。紗雪は優しくて強い子だから。

 もうこんな私のために気を遣う必要はなくなるから。

 紗雪はしっかり前を向いて生きてください。

                                 母より

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る