第26話
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森川雅樹がボンドの研究を始めたのは、星野教授との出会いがすべてだった。
二〇三一年。雅樹の地元で星野教授が講演会を開いたことがあった。その講演会で雅樹は初めて星野教授と出会う。同年代で未知の研究に取り組んでいる、素晴らしい人。以前から雅樹は、星野教授の研究に取り組む姿勢に尊敬の念を抱いていた。
そんな雅樹と対面した星野教授は、雅樹に驚きの提案をしてきた。
「一緒にボンドの謎を解明しましょう。森川先生の力が必要です」
どうして自分が誘われたのか。雅樹はその真意がわからなかったが、尊敬する星野教授に必要とされている嬉しさもあり、星野教授の研究に力を貸すことになった。
雅樹が任されたのは、ボンドの試薬作り。星野教授の論文で曖昧となっている部分だ。
星野教授は学会でボンドは存在すると言ったが、ボンドの違いやボンドが何を示すのかといった、具体的な内容について発表できていなかった。それこそボンドが認められない一番のボトルネックであった。
そのため、ボンドの違いを示す試薬開発に協力してほしいと雅樹は星野教授に言われた。
当時の雅樹は地元で診療所を開いていた。そのためボンドの仕事ができるのは、上京できる週末のみ。雅樹は休日を返上してとにかく働いた。平日は診療所での仕事をこなしつつ、週末になると上京してボンドの試薬作りに勤しむ日々。そんな上京を繰り返す生活をしていた時、雅樹は研究仲間の紹介で有香の母親と出会った。最初は友人と一緒に食事をするだけの関係だったが、次第に二人で会うようになり、いつしか雅樹と有香の母親の関係は恋愛へと発展していった。そして出会ってから二年後の二〇三三年。雅樹は有香の母親と結婚した。
雅樹は地元に診療所があった。有香の母親は会社勤めで、互いに仕事が生きがいだった。そのため婚姻届けを出した後も、会うのは週末だけ。いつの間にか、有香の母親と会うのは、ボンドの仕事で雅樹が上京した時だけと決まっていた。もはや別居状態で、傍から見ると結婚をしているとは思えない関係。そんな関係を続けていたのがいけなかったのかもしれない。
結婚した次の週に診療所を訪れた女性に、雅樹は心を鷲掴みにされる。
一目惚れだった。雅樹自身、その美しさに患者ということを忘れてしまうくらい。それくらい魅力的な女性。それが紗雪の母親だった。
紗雪の母親は足の怪我を治療するために診療所を訪れていた。当然、紗雪の母親は治療のために診療所に来ただけ。それくらい雅樹もわかっているつもりだった。それに雅樹はいくら気持ちが動いたからと言って、患者に近づくわけにはいかなかった。患者の病を治すのが仕事なのだから。それに自分には妻がいる。そう思うことで、雅樹は理性を保っていた。
紗雪の母親は軽傷だったので、診療所には二回しか来なかった。治療を終えた紗雪の母親を見送った雅樹も、これで気持ちの踏ん切りがつくと思っていた。
しかし数日後。買い物に出た先で、奇跡的に紗雪の母親と再会を果たす。
雅樹自身、この再会は運命かと思った。もう会うことはないと思っていた相手が、目の前に現れたのだから。自分の立場など考えもせず、雅樹は真っ先に話かけた。紗雪の母親も覚えてくれていたみたいで、雅樹の顔を見ると笑みを見せてくれた。
それから雅樹と紗雪の母親は、頻繁に会うようになった。仕事終わりに毎日食事に連れて行き、親交を深めていった。
いけない関係をしている。始めの頃は、雅樹自身も自覚があった。これで最後、今日で最後。そう思う一方で、紗雪の母親に対する思いは募るばかり。それに加え、紗雪の母親も次第に雅樹を受け入れてくれるようになっていた。
だからこそ雅樹の心が、紗雪の母親に傾くのは必然だった。
そしてついに雅樹の心は有香の母親から離れていき、紗雪の母親と肉体関係を持つようになった。
もう後戻りはできない。雅樹の心は完全に紗雪の母親に傾いた。もはや有香の母親に対する愛情は無くなっていき、次第に雅樹は有香の母親と別れる決意を固めていった。
しかしそんな矢先、雅樹にとって最悪な出来事が訪れる。
「妊娠したみたいなの」
週末。ボンドの仕事で上京した雅樹に、有香の母親は笑顔で話した。新しい命を授かることは、誰にとっても嬉しいこと。それでも今の雅樹には、有香の母親の言葉はあまりにも重すぎた。帰りの新幹線で雅樹はどうするべきなのか、必死に考えた。既に気持ちは有香の母親には向いていない。その気持ちは、子供を授かったと聞いても変わらなかった。
そもそも自分がいけなかったのだ。不倫という誰かが必ず苦しむような行為をしてしまったのだから。本来なら有香の母親と幸せな家庭を築くのが一番だった。でも今の雅樹の心には有香の母親はいない。どんなに考えても、浮かび上がってくるのは紗雪の母親の顔。これ以上、有香の母親を騙すことが雅樹にはできなかった。
そして雅樹は、次の週に有香の母親に全てを打ち明けた。
地元で好きな人ができてしまった。だからもう会えない。離婚しようと。
当然、有香の母親は怒ると思っていた。自分の身勝手な行動で、傷つけることになってしまったのだから。
しかし有香の母親は怒らなかった。
「うん。わかった」
あっさりと雅樹の言葉を受け入れてくれたのだ。でも有香の母親は雅樹に様々な要望を言ってきた。
子供は産みたいこと。姓は森川を名乗りたいこと。子供の養育費等の支援をすること。
雅樹は有香の母親の言葉を全て受け入れた。それくらいは雅樹自身、最低限行うべきことだと思っていたから。
そしてもう一つ。有香の母親が最後に告げた要望は、雅樹が一生背負う枷となった。
「ボンドの研究をこれからも続けてほしい。もうこのようなことが起こらないように。不倫を減らすための抑止力になるよう、ボンドを広めてほしい。こんな思いをするのは、私だけで十分だから」
有香の母親の言葉に、雅樹は涙が止まらなかった。決して怒りをぶつけるわけでもなく、ただ温かく包んでくれるような有香の母親の寛容さに、胸が締めつけられた。雅樹にとってボンドの試薬を作ることは、有香の母親の思いと、自らに対するけじめになった。
過去の自分とお別れする。そしてこれからボンドを仕分ける試薬を作ることによって、自らの犯した過ちを二度と起こさないようにする。それが、有香の母親に対しての償いになるから。
有香の母親と別れた雅樹は、直ぐに紗雪の母親と結婚した。紗雪の母親にも新しい命が宿っており、雅樹はボンドの試薬作りに精を出した。
そして一年後の二〇三四年。有香と紗雪が生まれた。新たな生命が誕生した年に、雅樹はついにボンドの試薬を完成させた。
ボンドの試薬は、星野教授が論文で語った理論の曖昧な部分を証明することになった。
そして人によってそれぞれ持つボンドには違いがあり、複数の種類があることがわかった。
その種類を全国に知らしめた番組が、二〇四〇年に始まった恋愛バラエティ番組「シェアハウス」だった。
まずはじめにシェアハウスに参加する人間には、最初の時点で自分のボンドが知らされる。しかし一緒に番組に参加する他人のボンドは知らされない。そんな状況で用意された家の中で異性と過ごし、自分に最適なパートナーを見つけることが番組のゴールだった。そして番組内で結ばれたカップルにだけ、相手のボンドが公開される。これが番組の大まかな内容だった。
従来の恋愛バラエティ番組と比べて、変わった点はほとんどなかった。唯一違うところは、ボンドという要素が加わった点。
そのためこの恋愛バラエティ番組は、後程ボンドを実証する番組とも言われた。
この番組を機に、ボンドという言葉は日本全国に広まっていった。
ボンドを発見した星野教授は言った。
ボンドは不倫しやすいカップルと不倫しないカップルの選別ができる可能性がある。だからこそ、最高のパートナーを決めるための指標に、ボンドがなりうる可能性があると。
雅樹は有香の母親と交わした約束が実現するまでもう少しだと思った。
二〇四五年。星野教授が発表した論文の信憑性が、非常に高いと話題になった。恋愛バラエティ番組内でできたカップルの中で、結婚した人、しない人が出てきた。そして結婚してから数年で離婚する人、しない人も現れた。幸せな家庭を築いている人達のボンドを見てみると、ボンドで最高のカップルと言われる人がほとんどだった。逆に言えば、ボンドで最高のカップルと言われる人達の中に、離婚した人達は一組もいなかった。
まだ五年。そう思う人もいるかもしれない。
でも、もし最高のパートナーが見つかるなら。恋愛の形が数値で分かるようになるのなら。人々のボンドに対する関心は、時間が経つとともにさらに高まっていった。
二〇四七年。星野教授の論文は国を動かすこととなった。二十歳以上の人達に、自分のボンドを知る権利を与えたのだ。通常の健康診断の項目にある血液検査の欄に、ボンド検査という項目が加わった。こうしてボンドは、人々の間で一般的なものになっていった。
それからというもの、ボンドは人々の恋愛の決め手の一つとなりうる存在になっていた。マスコミも大きくボンドを取り上げ、ボンドの解析をする番組が数多く放映された。もはやボンドは、恋愛や結婚を決める重要な要因の一つになっていた。
そして一年後の二〇四八年。ボンドは少子高齢化と言われ続けた六〇年の歴史に、終焉をもたらす情報源になりうるのではないか。とある国会議員の発言に、雅樹は星野教授と共にその話に乗っかった。
そして二〇五一年。とある高校でボンド検査が導入されることになった。ボンドの発展のために。人々が望む真実の幸せを見つけるために。
そのモデル校に選ばれたのが、太一の通う堀風高校だった。
△△△△△
病院からの帰り。太一は電車に揺られながら、先程までの出来事を振り返る。
森川先生は相当な覚悟でボンドの研究をしていた。でもそのせいで、紗雪を一人にした。償いのための研究に必死になるあまり、紗雪の存在を忘れていたのだ。
紗雪のことを思うと、太一は胸が締めつけられた。
いつも一人でいることが、紗雪には当たり前だった。友達もできずに、最愛の母親を亡くしてしまい、唯一の家族である父親とも会話を交わさない日々。そんな紗雪の気持ちを太一が理解するのは無理だった。
太一の周りにはいつも夏月や手塚がいた。紗雪とは違い、周囲には気軽に話せる友達が沢山いた。だからこそ紗雪の気持ちがわかるなど、簡単に言えなかった。太一が考えている以上に、紗雪は苦しんでいたはずだから。
電車を降りた太一は、街灯が灯りはじめた通路をゆっくりと歩いて行く。
これからどうするべきなのか。未だに答えが出ない太一はふと空を見上げた。既に日は沈みはじめており、焼け爛れた真っ赤な空が太一の目に映る。普段見慣れていない光景に、太一の足は自然と止まっていた。帰路を急ぐ人達が次々に太一を抜き去っていく。まるで自分だけ時間が止まっているようだった。
ふと太一の脳裏に紗雪の顔が浮かびあがる。紗雪は今も一人でいるはずだ。その状況が太一は凄く嫌だった。森川先生から話を聞いたからこそ、嫌な気持ちが更に高まっている。
紗雪は一人が好きなわけではなかった。一人にならざるを得ない環境で、ずっと過ごしてきたのだから。そんな紗雪がどんな形であれ、自分を頼ってくれたのだ。
太一は息を吐くと、スマホを取り出しメッセージを打ち込んで送った。送信相手は森川先生。森川先生が最後に話してくれたことが本当なら、今の紗雪をどうにかできるかもしれない。
スマホをポケットに閉まった太一は、ゆっくりと歩き始めた。そして太一は決意する。
止まってしまった紗雪の時間を、どうにかして動かすことを。
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