4章

第23話

 学校からの帰り道。太一は自宅を通り過ぎて駅まで向かった。学校とは正反対の場所に位置する駅。いつもは買い物で利用する場所だけど、今日の太一には大切な目的があった。

 改札を通り抜け、電車に乗り込んだ太一は空いている席に腰を下ろす。それと同時にドアが閉まり、電車はゆっくりと動き出した。流れる景色を眺めつつ、これから向かう場所で聞こうと思っていたことを整理する。

 紗雪が学校に来なくなってから一週間。ずっと考えていたことがあった。

 どうして紗雪はボンドを否定したいのだろうか。

 放課後の教室で話した時も、空き教室で話した時も。紗雪はずっとボンドを否定したいと言っていた。偽りの関係を始める理由も、嘘をついていた理由も、全てがボンドを否定したいということが理由だった。

 でも紗雪がどうしてボンドを否定したいのかだけは、ずっとわからなかった。深く紗雪の心に潜り込もうとすると、いつも見えない壁に遮られているような感覚に太一は陥る。紗雪には何が見えて、何が見えていないのか。太一にはわからないことだらけだった。

 だから太一は考えた。紗雪のことを一番知っている人に聞くのが良いのではないかと。ボンドを否定したいと言っている紗雪の父親に会いに行くことで、何か見えるものがあるはず。紗雪の身内にしかわからないことが、実際にあるのかもしれない。

 電車に揺られること二十分。太一は自宅の最寄り駅から五駅先の駅で降りた。改札を抜けて暫く歩くと、目の前に大きな建物が見えてくる。目的の場所である森川病院だ。建設されてまだ一年ちょっとしか経過していないだけあって、新鮮さを感じさせる外見だった。

 太一は正面入口を通って受付へと向かった。


「すみません」


 太一の声に目の前にいた女性が顔を上げた。


「こんにちは。本日はどのようなご用件でしょうか」

「あの、森川院長に会いに来たんですけど」


 太一の言葉に女性は目を丸くしていた。


「失礼ですが、院長とはどのような関係でしょうか」

「学校の同級生のお父さんです。話したいことがあるんです」

「事前に面会の予約は取られていますか?」

「……とっていません」

「では、予約をとってからあらためて訪問していた――」

「その必要はない」


 視界に入った瞬間、太一はこの人だと確信した。

 森川雅樹。紗雪の父親でボンドを発見するための薬を開発した人。お世辞にも、紗雪とは似ているとは言えなかった。


「太一君だよね?」

「そうです」


 太一の声に頷いた森川先生は、受付の女性に視線を向けた。


「今日はもう帰ります」

「わかりました」

「何かあったら、すぐに連絡を」


 そう告げた森川先生は太一に向き直った。


「それじゃ、行こうか」


 森川先生はそのまま病院内にあるエレベーターの方へと向かって行く。太一は後を追った。

 森川病院は十一階まであるとても大きな病院だった。最上階の十一階で降りた太一は、森川先生の後ろをついていく。リノリウムの床を歩くたびに響く足音。会話のない廊下。薄暗い院内。慣れない場所は太一を少し不安にさせた。森川先生はそんな太一を気に留めることなく、数歩前を歩いて行く。

 暫く歩くと、とある部屋の前で森川先生が止まった。


「私が院内でいつもいる場所です。ここで話しましょうか」


 ドアを開けると、森川先生は太一を椅子に座らせた。


「何か飲みたいものはあるかな?」

「大丈夫です。ありがとうございます」


 今日は遊びに来たわけじゃない。森川先生に聞きたいことがあるから病院に来た。

 森川先生はカップを一つだけ用意してコーヒーを入れると、太一の近くにあった椅子に腰を下ろした。


「太一君とは話さないといけないと、ずっと思ってました」

「俺とですか……」


 すると森川先生は太一に向かって頭を下げてきた。


「本当に申し訳なかった。まさか太一君のボンドがゼロ型になっていたなんて」

「……もう大丈夫です。紗雪さんから真実を聞いたので」


 太一の言葉に、森川先生の顔つきが変わった。


「さ、紗雪が何かしたんですか」


 森川先生は太一の肩に手を置いた。その力の入れようから、かなり動揺しているのが伝わってくる。


「紗雪さんから何も聞いてないんですか?」


 太一の問いに森川先生は首を縦に振った。太一はボンドが変わっていた理由を、森川先生に話す。森川先生は本当に知らなかったみたいで、太一の話を聞いている途中で頭を抱えてしまった。


「そんな……まさか紗雪がそんなことをするとは……」


 自分の子供の行為が信じられず、森川先生は額に手を当てて考え込んでしまった。相当ショックだったのかもしれない。


「森川さんに聞きたいことがあります」


 黙ったままの森川先生に、太一は聞きたかったことを告げる。


「どうして紗雪さんは、ボンドを否定したいのでしょうか」

「……否定?」

「紗雪さんはずっと言ってました。ボンドを否定したいと。でも、いくら考えても俺にはわからないんです。紗雪さんの考えが見えてこない。だから森川さんに聞けばわかると思って、今日ここに来ました」


 紗雪が隠していることを知れるかもしれない。もし紗雪を救えるなら。太一はそんな思いを抱いてここに来た。


「……すまない。私にはわからない」


 しかし森川先生は、太一の期待していた答えをくれなかった。


「わからないって……どうしてですか?」

「紗雪とは……暫く会っていないんだ」

「会って……いない?」

「仕事が忙しくて、中々家に帰れない日が続いてしまって」


 太一だって森川先生が忙しいことは知っていた。病院での仕事に加え、ボンドの仕事もしている。人の倍以上の仕事をしているのだから、家に帰れないこともあるかもしれない。

 それでも太一は森川先生のことが許せなかった。


「紗雪は一週間、学校を休んでいるんです。どうして仕事だからと言って、紗雪を放っておいたんですか」


 突然強い口調に変わった太一に、森川先生は目を丸くしていた。


「紗雪はずっと心細かったと思います。学校であれだけのことがあったんだから。なのにどうして支えてあげないんですか。家族じゃないんですか?」


 太一の言葉は親に対する反抗だったのかもしれない。太一はずっと両親に振り回されてきた。仕事だからといって家を空け、しまいには妹の美帆と太一を残して海外へと行ってしまった。そんな経験をしていたからこそ、太一は森川先生の態度が許せなかった。


「太一君……学校で何があったのか教えてくれませんか? 紗雪に何があったのか」


 ようやく紗雪のことを知ろうという意志を見せた森川先生に、太一はあの日、学校で起きた出来事を話した。

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