2021年1月22日(先負)(※約6700字)

 大坪未來は、無事1次日程にて共通テストをすませた。東京藝大の音楽科は国語と英語の2科目のみである。 

 試験結果はラインにて『それなりに取れたよ』とりょうにも伝えた。

 これで同週金曜のデートが決まった。


 行き先を、りょうは東京都現代美術館にした。

 ここであれば、緊急事態宣言下であっても開館を続けているからだった。

 2人は学校が済むと、下校する生徒に混ざるようにして駅へ向かった。

 道中の話題はいくらでもあった。たとえば、今年からの新制度の大学試験の感触や、総合選抜での入学を決めた試験のリモート実技試験の話などである。


 だが電車移動は、乗り継ぎのほかはほぼ無言である。飛沫発生の抑止として、そうするのが今のマナーである。

 りょうはまじまじと思った。

(皆、こんな具合の中を登下校をしてるんだよな――この静けさをいつまで保たなければいけないのだろう)

 すでに国によってはワクチンの量産は始まっている。今は世界中が長い順番待ちの列にいるようなものだ。それは若く健康なほど後ろに回される列である。


 ――清澄白河駅を出ると二人は堰をきったように話しだした。話題は部活や部員のことばかりである。

 途中、未來はりょうから日時指定チケットを兼ねたQRコード画像つきのメールの転送をスマホに受け取った。

 彼女はその操作画面をのぞきこむようにして、腕を組んできた。りょうは戸惑ったが、未來の機嫌がよさそうでほがらかな表情に拒むことはできず、そのまま美術館へ向かった。


 会場について、未來は不思議そうな顔をした。

 りょうがチケットを確保した企画展は石岡瑛子展である。


 石岡瑛子は2012年に亡くなったアートディレクターだ。パルコや資生堂のポスターデザインなどをはじめ、90年代にはアカデミー賞衣装デザイン賞を受賞している。


 夏のデートと同じく服飾デザインを主体とした展覧会である。

 会場内では、二人は息をひそめて展示物の感想をささやきあう程度で、ほとんど会話はなかった。


「――ねえ、もしかして、ファッション好きと思われてる?」

 展示内容を廻り終えて、ミュージアムショップを冷やかしながら、未來はなにげなくそんなことを聞いた。


「舞台や映画の衣装ならお好きかなって」

「まあ、悪くなかったよ。白雪姫の衣装は可愛かったし」

「ミュージカルも考えたんですけど、チケットの値段見てびっくりしちゃって」

「んふふ、帝劇もこの時期はジャニーズの公演だしね」

「そうなんですよねー。さすがにジャニーズにデートってのは、なんか俺がついていけない気がして」


「わたしも無理かな。けど帝劇は一度行った方がいいよ。すごくいい劇場だから」

「堤も、レ・ミゼラブルを見て入部してきたクチですもんね」

「そうなんだ、あの子てっきり劇団四季志望かと」

「ダンス部兼部ですもんね」


「そうそう、鈴木さんは? あの子も演劇だけじゃなくなったって聞いたけど」

「明衣ですか。どうなんだろう。去年までは日大芸術か和光とか言ってたんですけど……」

「ふーん、そうなんだ」


「先輩はオペラひとすじですか?」

「うん、やっぱりソリストの声楽家志望ってなると、ね。できれば大学だけじゃなくて大学院まで進んで、留学もしたい」

「突き詰めていく感じですね」


「うん、そこまで登り切らないと、きっと私だとたどり着けない気がするの。ただの音大卒じゃ、音楽の先生にしかなれない。毎年いろんな大学から何百人も声楽科から卒業して、本物になれるのは一握りだけ」

「うちには無理だ」

「院を出て、すぐに留学は無理かもしれない。だけど、いずれは必ずしたい」


「応援します」

「ありがと……けどね、応援だけじゃなくて、できれば一緒に来てほしい」


「え?」

 りょうはぎょっとした。


「もしも音大受験するなら、私と同じところに来ない?」

「それは、なんとも……芸大は手が届く気がしませんし」

「もちろん、私も受かるとは限らない。けど、この前私が合格したところなら、今からでも手はとどくと思う」


 りょうは考え込むように押し黙った。

「勉強なら私も手伝うから。歌唱の先生も、今ついてる先生から紹介してもらえる」

「本気、ですか」


「本気よ。わたし」

「そんな……そういう風に言われるとは、思ってませんでした。自分の声あまり好きではないですし、ピンカートンだっていっぱいいっぱいでしたし」

「合唱をはじめて一年半であれだけ歌えたんだよ? 伸びしろはあると思う」

 りょうは困った。


「――今日は、実は、告白するつもりで来ました」

 未來は驚いたように目を丸くし、少し笑うように目を細めた。

「いきなりね。え、けど、鈴木さんと――」

 未來は言いかけた言葉を飲み込み、神妙に姿勢を正してりょうにうなずいた。

「――私は、今はフリーです」


「こっちはフリーじゃないです」

 未來は力んだ肩をすとんと落とし、何か沈痛な面持ちで眼を閉じた。


「やっぱり。相手は、鈴木さんだよね」

「はい」


「夏のデートから結構経っちゃったもんね、私達。……それで、二股する気?」

「違います。明衣は――もし告白してあなたが受け入れたら、友達に戻るつもりでいます」


「そんなに都合がよくいくものなの? 恋愛だよ、あなたと明衣ちゃんがしてるのは」

「自分でもそう思ってます。けど、そうしろっていうんです」


「じゃあ彼女にそそのかされて告白するのね。それならご免よ、今回の告白はなかったことに。おっと、まだされてもいないか」


「そそのかされてって……たしかに、考えもしなかった。そういう風にも感じますよね。言われてみれば」

「ねえ、ここから先はどこかに入って話しましょ。こんな所でする話じゃない気がする」


 白を基調としたミュージアムショップ。人気もまばら、話をしているのは自分達だけである。

 りょうはうなずき、ふたりはそのまま美術館の二階のカフェに入った。


 開放感のある明るい木目と窓の大きさが清潔感を感じさせる店だった。

 金曜ながら、すでに日の落ちかけた黄昏時である。5時半のラストオーダーまでそう時間もない頃のせいか、客は多くなかった。


 4人がけのテーブル席が空いており、ふたりはそこに持ち物をおいて席をとった。

 それぞれに注文したものは、りょうはコーヒー、未來は青紫と淡い橙色が鮮やかなジャスミンティー。サンドイッチが売りの店のようだったが、時間に急かされて食べるのも嫌だから、ということでこちらは取らなかった。


 使い捨てのカップで出された飲み物を手に席に戻り、りょうは向かい合いに座ろうした。

 だが未來はすぐに座らず、彼の隣の椅子の前に自分のプラスチックのカップを置いた。

 それから椅子の上のりょうのカバンをつかみ、向かい側の自分のバッグと並びの椅子に移す。そして彼女はりょうの横に座った。


 これにりょうはやや緊張した。

 対して未來は緊張どころかどっと疲れが出たように、椅子に身を沈めて座った。

 彼女の注文したものは鮮やかで見えのするものだった。だが、それを画像に収める余裕もないというように、スマホはテーブルの上に置いたままだ。


「あなたは、自分で告白するつもりだったの?」

 未來はマスクもとらず、いくらか憔悴したような、力のない声でそう聞いてきた。


「いずれは、この気持ちに踏ん切りをつけなければいけないと思ってました」

 りょうは、やや緊張して応えた。

 口の中がかわくのを感じて、コーヒーを飲もうとマスクをずらした。

 その拍子、コーヒーの匂いよりも甘い、未來の、香水か髪の匂いがふわりと香る。


 未來は、マスクを外し、半分に畳んでテーブルに置いた。

 長いまつげやきれいな鼻筋、華やかな顔立ちに映える真っ赤なリップをしていた。

 だがりょうの位置からは、うつむき気味の彼女の口元くらいしか見えない。

 その口で、注文したもののストローを吸う。


 それから、小さくため息をついた。

「今度はまるで別れ話」

 夏の泣きながら思い出話をしたときとはまるで違う。

 沈静しきったような、ぼんやりとしているようにも聞こえる声だった。


 その調子に自然とりょうも引っ張られて、テンションが下がる。

 彼の胸中を悲しみに似た色が満ち始めていた。まるで別れ話、という彼女の言葉が、思いのほか深く心に刺さったのだ。

「俺と未來さんは、つきあってもいない」


「わたしは、そんな風に思ってなかった」

 そう言いながら、彼女は店内の様子を見渡した。

 マスクを外しているのは未來だけだ。他の客はみな、飲み物や食べ物を口にするときだけマスクをずらして、基本的に顔からマスクが離れないような状態を保っている。

「ただの部活の後輩ですもんね……」

「そうともちがう。かわいくて尊敬できる、年下の男の子」

 そう応えながら、未來はマスクをつけなおした。

 それから、小首をかしげて仰ぎ見るように、りょうと目を合せた。


「恋愛対象ではない」

 りょうの指摘に、未來はしっかりと首を横に振る。

「なくはなかったよ。年下と付き合ったことがないだけってのもあるし。年下と付き合うなら、柾目くんみたいな、素直で正直な子がいい」


 それをきいて、りょうは目を真っ赤にした。

 りょうは、身が低くなる姿勢の未來に頭を寄せるように、項垂れた。

 そしてそのまま、彼女にささやきかけるように言った。

「……俺は……割り切りたくない。あなたとの繋がりを手放すか、独占するかの二つに一つにはなりたくない」

 未來も、ささやくような声で答える。

「うん。けど、恋愛ってそういうものよ」

「そうです! そうなんです!」

 嘆きを押し殺したような、ひそめた声で彼は強く言った。


 ――恋愛における情緒というのは、実に脆くなりがちなものである。特に10代は誰かを求めがちであり、認められたいという欲求も強い。それはりょうも例外ではなかった。

 りょうにとって未來はその対象そのものだった。


 だが一方で明衣も自分と同じように、或いは自分が未來を思う以上にりょう自身を思慕している。それを知ってしまった。そしてそれを踏みにじることもできない。

 板挟みだ。りょうにとって自分自身と同じくらいに、明衣は尊重すべき人なのだ。


 ――だからこそ、もとより親友で居たかったのだ。

 しかし明衣のほうは違う。彼女は自分を愛してくれている。自分自身の恋を差し出さんとするほどに、深くである。


 りょうは、鼻の奥がつんと痛くなって、たちまちに視界がゆがむのを感じた。

 次の瞬間、彼の膝に置かれた手にぽたぽたと涙が落ちた。


 これを見るや、未來はその手を上からおさえるように握って、涙を自分の手の甲に浴びた。

 りょうの手は冷え切っており、対して未來の手はいくばくか温かかった。


「辛いよね。しんどいよね」

「はい」

 ふたりは口づけでも交わそうとするように迫りあった顔を見合った。未來の顔は、深刻そうにこわばっていた。

「だけど、わたしは大切な人を誰かと共有しようとは思えない」


 りょうは涙を払うように目蓋を閉じて、深くうなずいた。

 握られていない方の手を懐に入れ、ハンカチを出して自分の目元に当てた。


 りょうはマスクが濡れぬようにずらし、天井を仰ぎ見た。

 未來は手を引っ込め、りょうは両手をつかってハンカチで顔を拭う。


 その間をうめるように、未來はジャスミンティーのストローをかき回した。青と黄色に分離した二色の層が混ざって、新たに鮮やかなピンク色にかわっていく。それを吸って、少し険しい顔をしてうなった。

「口に合いませんか?」

 りょうは少し眠った後のような赤く潤んだ目で、鼻を鳴らして、そうきいた。

 未來はちいさくうなずいて、それでも飲み続ける。


 りょうも一息つきなおすようにマスクをずらしてコーヒーをすする。それから言った。

「わかります。けど、ぼくがあなたを選べば、明衣は、あの子は一人になってしまう」

「そう、その通り。それをする覚悟が持てないのね」

「あの子自身、それを怖れてる」


「けど、彼女はそれをすすめた……。ねえ、あなたはわたしをどう思ってる?」

「素敵な、すごく素敵な人です。目を合わせるだけで幸せで、学校であなたを見つけるだけで心が高鳴っていました。あなたのためなら何でもできる気さえしました」

 きわめて誠実な口調で、りょうはそう言い切った。これに未來は目元を笑ませた。


「実際に、とんでもないこともしてくれたしね」

 そう言われて、りょうは、飲みかけたコーヒーで軽くむせる。


 ――あれからほとぼりが冷めて、畑中は再びOBとして部にたまに顔を出している。

 りょうは気まずくて直接話をしていない。

 一方で畑中は行き届き切らない10年生の指導に十分な協力をしてくれている。彼の甘い顔にそわそわと流し目を送っているませた女子もいるほどである。

 その10年生達は、りょうが彼を殴ったことを知らない。――


「本当に好いてくれてるのね。ありがとう。――明衣ちゃんもそれに気付いてる。で、それでもあなたが好きで、あなたに幸せになってほしくて、私とくっつけようとしてる」

 そういわれて、りょうは息をのんだ。


「その通りです。そうでなければ、きっと今日もこうしていなかった」

「だから、友達に戻ってでもあなたの気持ちを優先しようなんて言い出した」

「はい、そういうことなんだと、思います」


「けどね、わたしはきっとあなたが思ってるほどいい女じゃないよ」

「それは分かりません。……俺が知ってるのは、俺が好きになったあなたと、畑中さんに傷つけられたあなた、そして部で一緒に過ごしたとてもよく笑うあなただけです」


「じゃあ、わたしはあなたが知らないわたしの話をしてあげる。わたしはね、柾目くん――畑中広夜を、別の女の子から引き離して付き合いだしたの」

 りょうはぎょっとした。


「わたしはわたしなりに、人からどう見られてるかわかってるつもり。自惚れかもしれないけど、嫉妬されたり、いじめられたりもする。知らないだろうけど、中学ではずっといじめられてた。最初はわたしが悪いんだと思ってた。けど、中1の時、サッカーやってる3年の先輩に告白されて違うってわかった。誰かの憧れの男の子が好きになった女の子が、いつも私だっただけ」


 それをきいて、りょうはまた泣きそうな目をした。

「俺も、そういう男の人たちと同じなんですね」

「そうかもしれない、けど、違うって感じてる」


「なぜ?」

「凄く素直だから。全て話してくれる、全て受け止めてくれる。無理に気取ったり、かっこつけたり、面白がらせようとしたりしない。あの日あなたと一緒に初台から新宿まで歩いて、ずっと感じてた。こういう人と一緒にならなきゃいけないって。……けど、あの時付き合ってたら、わたしは受験なんかできなかった」


「わかります。俺も中学受験の時は必死でした。恋愛なんか考える年ではなかったけど、友達だって疎かにして、まるで追いかけられるみたいに勉強してました」

「――ねえ、やっぱり、わたしと同じ道を歩んでみない?」

「え?」

「そうすれば、あなたは明衣ちゃんは繋がったまま、わたしと離れずにいられる」


「そんなの、そんなの、不潔ですよ」

「そうね、不潔だとしても、割り切れずに求めてるのはあなたよ」

「そうです、だから、だから割り切らなきゃいけない」


「今日、ここで?」

 こくりと頷くりょう。


「やっぱり、別れ話みたいね、なんだか」

「ええ、俺が誰と別れるか。俺が誰を傷つけるか」


「傷つけるか、か。そう思ってるから、泣いてるんだね」

 りょうはマスクをずらして泣き鼻をハンカチでおさえて、うなずく。

「ねえ、一度柾目くん抜きで、明衣ちゃんと話し合ってみてもいいかな」


「えっ」

「きっと、今ならすごくいい友達になれると思うの」

「なぜ」

「柾目くんの良いところも悪いところも分かってるから、きっといろんな話ができる」


 りょうは、マスクをずらしたままの、少し意外そうな表情で、うなずきかけ、はたと何かに気付いて首を横に振った。

「それはダメです」


「大丈夫、修羅場になりそうにない状況で話すから。ほかに女子を何人かさそって、女だけで遊びにいくの。そこで話をする」


 そう言われて、仕方なくうなずく。

「ねえ、答えを出すのはそのあとにしてもいいかな」

「それは、告白への答え、ですか」


「どうしてもここで告白するなら、そう。違うなら、これからわたしと柾目くんと明衣ちゃんがどうなっていくかの、答え」


 りょうは小さくうなずいた。


「ありがとう」

 未來は椅子を座り直して背筋を正し、りょうの項垂れた頭を抱えるようにした。そのままマスクを片耳だけ外し、眉の上に口づけをした。


 それから体を離し、りょうの顔に残った赤いものを、指で拭う。

「さて、元気出そ? 今日はデートでしょ」


 未來は笑顔を作って見せて、マスクをつけながらそういった。

 りょうは力の抜けきった作り笑いを一つかえしてうなずき、マスクを戻した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る