2020年6月x日 夜その2(※約5000文字)

 りょうと明衣がゲームに興じている同じころ、である。


 未來は自宅と学校、そして畑中のマンションのほぼ半ばほどにある駅近くの喫茶店にいた。ここは畑中との思い出深い店であり、この時も向かいの席には彼がいた。


 二人の間にはカーテンのようなビニールシートがある。

 それが、未來には少しだけありがたく感じていた。


 手を伸ばして触れ合う事にもためらいがあるからだ。

 それはcovid感染などという恐れではない。

 触れ合って言葉もなくほだされてしまうことへのおそれである。

 ――それは最近抱え続けてきた交際における不安そのものでもあった。


「やっぱり、今日なんかあった?」

 畑中広夜の声は凛として涼やかな響きがある。未來が彼に最初に魅かれたのは、その声だった。

 未來は伏し目がちに、こくんとうなずいた。


「部活の今後の予定が決まった。オペラやるって」

「そうらしいね。OB会のグループチャットに流れてたよ。蝶々夫人だっけ、役とかつくの?」

「うん『ある晴れた日に』歌えるかも」

「おー、メインじゃん。やったね」

「うん、ありがと」


 未來の表情はややぎこちなく、暗い。

 彼は未來の顔を覗き込むように低く前のめりになった。

「けど、そういうことじゃないよね。なんかって」


 目を合わされて、未來は少し笑顔を見せる。だが力ない。

「あは――うん。ちがう、ね」

 なおもぎこちない彼女に、畑中は心配そうに眉を寄せた。


「どうした、嫌な事でもあった? またいじめられた?」

「ううん違うの」


 大坪未來は、高校から美星高校に入った。いわゆる外部入学生である。


 彼女は端的に述べて容姿端麗だった。生々しい話をすれば、流行りのミュージシャンのライブなどに行くと、その物販エリアなどで大手芸能事務所の名刺を渡されることもあった。それは中学の頃からの事である。


 だがそもそも、未來にとって自分の見目の良さは長所などではなかった。妬みや悪目立ち、孤立を招く不快さの源でしかなかった。

 それでも『その苦痛が好感に変わるのであれば』と一度はその道を考えたこともあった。

 だが中学1年の時すでに恋人のいた彼女は、別れを強いられるのを嫌って断ってきた。


 ――もっとも、その恋人と別れた後は別の理由から断るようになった――。


 その中学の頃より彼女の孤独を癒したのは歌だった。かといって、アイドルになりたいわけでもない。

 中学1年、当時在籍した中学校の合唱クラブでの日々が、彼女をそう駆り立てたのである。


 歌声を重ねるという行為は、好感的な積極さが保たれている限り、参加者に調和という一体感をもたらす。

 ――和音、和声という言葉は実に言い得て妙な語なのである。


 その体感的調和の前では、彼女の容姿など安っぽい飾りほどの価値もないものだった。

 その体験は人から羨まれる容姿による疎外感から未來自身を解放した。

 その一体感を求めて、中学では合唱にのみ親しんだ。

 高校進学も当然ながらこれを続けるため、県内の合唱強豪校への志望も考えた。


 その気持ちを変えさせたのが、中学2年の冬だ。

 親の仕事の都合から東京の郊外へ転居した。

 その後に親に連れられて都内の劇場で見たオペラ『カルメン』である。


 ビゼーのカルメンは、美貌のジプシー、カルメンが出会う男を惑わせる話である。ドン・ホセという兵士の人生を惑わせ、盲目的に後を追わせる。そして最後には寄り添いきることのできない互いの心の差から、自由を望む彼女はドン・ホセに刺し殺されてしまう。


 この頃、未來は2人目の恋人と遠距離恋愛が上手くいかなくなりつつあった。引っ越す以前より、中2の夏に別れた元彼からの付きまといに悩んでいた。

 そこから逃げるようにして自分だけが離れてしまった事が大きかった。それにより、恋人との間ですれ違いが目立つようになったのである。


 元々、はじめての恋人は彼女が疎外感から来る孤独さから、自分自身を守るために結んだ交際だった。

 胸のときめくような恋や全てをなげうちたいと思う愛ではない。

 『この人のそばに居れば守られる』という安堵である。


 そして、それが裏返って――別れた後は苦痛の源になっていった。

 警察や学校に相談することは、考えなかった。

 未來がその元彼との間で純潔を失っていることを、親に知られることが恐ろしかったのだ。


 付きまといが、引っ越しという形で物理的に解消されるまで(もしかしたら、自分は殺されるかもしれない)などと思って眠れぬ夜もあった。


 転校先の中学に合唱クラブはなく、その容姿を原因とした孤独感は卒業まで続いた。

 家族と都心などにいくとしばしば芸能スカウトには遭遇したが、相手にしなかった。もしも芸能人などになれば、今度は匿名の人間から付きまとわれるかもしれない。それが怖かった。


 そういう身の上もあって、未來にはカルメンに共感するものがあった。

 逃亡者であり、最後には心の自由を求めて刺殺される女、という有り様にである。


『合唱はなくとも、声楽をやればこういう道もあるんだよ』

 カルメンを見た帰り道、父親に何気なく言われた言葉だった。

 それは歌うことを失った娘が再び歌によって、心の明るさを取り戻すことを願っての言葉でもあった。


 未來は合唱クラブに居た頃、よく笑う子だった。

 親として娘がその程度には満たされていたことを知っている。東京に来て、それが失なわれたのも同じくよく見知っている。


 ――引っ越す以前、かつて上級生だった男子高生に付きまとわれていたことも、親は薄々知っていた。むろん性交渉を伴う交際まで発展した上で別れ、そういう事態になっているとまでは知らない。


 両親が何を考えて娘にカルメンを見せたのかはわからない。

 或いは娘の容姿が人並み以上にであることを踏まえ、人生の教訓でも授けるつもりだったのだろうか――。


 だがその父の言葉が、未來には自分の人生を考える上での一つの指標にはなった。それが声楽への、本格への道だった。

 志望進路は合唱強豪校から、音大の声楽科への進学者の多い学校に変わった。そのうちの一つが芸術選択履修として音大受験向け教科が充実した美星高校であった。


 2人目の恋人とは受験の忙しさの中で自然消滅に近い形で終わった。


 そうして今現在――目の前にいる畑中広夜は、未來にとって人生で3人目の恋人である。それも終わりに踏み出そうとしている。


 未來は意を決して口にした。

「あの、ね。別れて欲しいの」


 彼はぎょっとして目を見開いた。

 未來の顔は、思い詰めたように苦みを含んで沈んでいる。

 畑中の表情は取り繕ったようにすっと穏やかになった。それから冗談でも聞いたように一笑してみせた。


「ほかに好きな子、できた?」

 敢えて放たれた軽い調子に、未來はつられて、

「ううん、まさか」

 と声を明るくした。その眼差しは伏せている。


「ほら、受験勉強、これから忙しくなるじゃない」

「うん」

「デートしてるヒマないし、それなら一度別れちゃった方がいいかなって」


「いやうーん、うん、言ってることはわかるよ。けど、別れるほどじゃなくないかな」

 彼の声色は少し慌てた調子になった。未來もややつられて早口になる。

「うん、こーやくんのいう事もわかるよ」


 これまでも学校の試験勉強程度であれば何度となく面倒を見てもらった。

 大学の志望進路は違えど、一般入試になった場合の学科試験くらいは世話になる可能性もある。


 2人の交際は1年以上になる。

 出会いは未來の合唱部入部からだ。畑中は当時12年生で、彼の大学受験合格を祝うようにして交際が始まった。


 畑中はまつげが長く、鼻筋の通ったどちらかといえば女顔に近い甘い顔をしている。

 大学は映像科志望だが、制作側ではなく出演側志望でも不思議でない容姿だ。

 相対する未來も、色白で目鼻立ちのすっきりした透明感のある美人である。

 二人は共に居て、とても画になる男女だった。


 それでも所詮は男女である。そしてこの年頃の交際の1年は決して短いものではない。


「……けど、たまにデートするとさ、盛り上がり過ぎちゃう、じゃない」

 未來は、慎重ながら率直に言った。畑中は、半ばなんのことかわかっていない調子で

「うん」

 と鷹揚にかまえて応じる。それが、未來の心をにわかに重くした。


「それがね、ちょっと、最近、つらいの」

「え、それは……俺のテンションとか、その扱いがキツいとか?」

「ううん、そうじゃなくて――」


 上から優しく言う彼に対し、未來の言葉は歯切れが悪い。そんな自身を振り払うように、未來は顎を横に振った。

「――ううん、そうじゃなくない」

「とりあえず、話し合おう。ちゃんと聞くから、何がイヤなのか教えて」


「ううん、言っても、たぶんもう無理」

「そういわないで、愛してるんだよ」


 愛してる、その言葉は頼み込むような口ぶりだった。言う側にも、言われる側にも心を引きとめる鎖の呪文のような言葉である。


 未來はその鎖を揺らすような、もとい鈴を転がしたような高く澄んだ声で言葉をつむいだ。

「新入生に、歌のプレゼントするデータ、作ったじゃない」


「うん、一緒に頑張って作ったよね」

「出来上がって、データを先生に送った後、お祝いしたよね」

「ああ、した。コンビニでスパークリングワインとつまみ買ってきて、一緒に飲んで」


「そのあと、したよね」

「したって?」

「その、えっち」


「あー、うん、した」

 畑中の表情は、急に戸惑いを含み始めた。

「途中から、ゴムしなかったじゃない……あの次の日ね、わたし病院いったの」


 彼はにわかに血相を変えた。

「え、痛かった? どっか調子悪かった? 酒飲ませたのヤバかった?」

 やや取り乱してそういう彼氏に、少し声を強めて「違うの、そうじゃないの」と制する。


 気圧されてすっと押し黙る畑中。

 そのぽってりとした唇を軽く噛んで、目を見開いて彼女の言葉を待っている。


 未來の方は目を合せていられず、くっと膝の上に視線を落とした。その両手は、もじもじと太腿をかきむしるようにこすっている。


「お酒もおいしかった、二日酔いもしなかった。けど、そのあとなの」

「うん」


「ノルレボって知ってる?」

「……え?」

「緊急避妊薬の名前、エッチした後に、妊娠したらヤバい時に、すぐに病院に行って、お医者さんの目の前で飲まされるの」

「え、え、ちょっとまって」


 未來は聞かずに話し続ける。斜面を落ちる鈴のように、いや堰を切ったように、である。


「わたしね、産婦人科いったの、学校からも家からも遠い所。初診で、ネットで調べて、電話ですぐ予約して。診察券持ってて家族にバレたら怖いから、帰る途中にその診察券、切り刻んで、コンビニのゴミ箱に――」


 そこまで言い、急に黙った。脚の上でもがいていた手は止まっている。

 言いつくしたのではない、別のものがあふれたのだ。


 目頭から漏れた涙が、鼻梁を通って膝にぽたぽたっと落ちる。鼻を鳴らして大きく息をつく。その音が沈黙をほどいた。


 彼は重たい押戸でも開くように、抑えた声でそっと言った。


「……ごめん」


「うん」

 未來はハンカチを出して顔をふきながら、うなずく。


「そんなこと、しらなかった」

「うん、話してないもの、今日まで1回も」

「いっかい、も?」


 未來は目頭を片目ずつぎゅっと抑えながら、再び彼の顔を見た。彼の顔は怯えすくんだように、歪んでいた。

「ちゃんと避妊してって、何度か話したよね」


「できるだけは、したつもりだよ。ゴムもある時はきちんと使って、無い時も外に出すように――」

「そうじゃない、そういうことじゃない」

 未來は大げさなくらいに首を横に振った。


「わたし、3回病院に行ってるの。こーやくんと付き合うようになって、3回ノルレボ飲んでるの。全部、違う病院で――ノルレボ飲むと、しばらく歌えないの。吐き気が酷くて」

 これを聞いて、畑中は茫然と遠い目をした。その遠さが互いの間のすれ違いそのものだと気づいたように、背もたれに沈む。


「そっか、なんで話してくれなかったの?」

「いったら、びびっちゃうと思って」

「ビビるよ。だけど俺だって男だよ。そういうときは、きちんと一緒に行くもんだろ」

 未來は「来なくてよかった」と、声を絞るように言った。


「保険きかないけど別にお金出してほしいわけでもないし、来てほしくもなかった」

「じゃあどうしたら」

 未來は少し黙って、彼の目を見たまま、ぽろぽろと涙をこぼした。

「ちゃんとして、ほしかった」


 畑中は身を乗り出して、テーブルの上に手を重ねて見せた。二人の間にビニールのカーテンがなければ、手を取り合おうとさえしただろう。それから噛みしめるようにうなずいた。


「わかった、ちゃんとするよ。これからは毎回、ちゃんとつける。ちゃんと避妊する」

「……ほんとに?」

「うん、約束する」

 未來はこれをきいて、涙をぬぐい、ひとつうなずいた。


 ――彼女は結局、絆されてしまった。

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