第25話 猫は水無川の水と成り得るか
まぁ、当たり前のことか。私はそう思っていた。別にそれに納得したわけじゃないけど、いざその時がくればそれを受けいれようとは、常々思っていたから。
目の前にある無機質な素材の格子が、私はもうすぐ殺されるのだろうということを示している。煮て、なのか焼いて、なのかは分からないが。もし、殺されないとしても、死ぬより酷い仕打ちを受けるのは確かだろう。私はだって、ここの仲間を何匹も殺したのだから。肉体が殺されなければ精神が殺されるくらいのことをされるのだろう。
自分がしくじった、とは思わない。いつかこんな綱渡りの人生を続けていれば、重大な問題が起こるとは、思っていた。ただ、私はそれが起こってもいいと思っていた。
いや、むしろ起こってくれと思っていた。私の肉体でも精神でもいいから、早く殺してくれと思っていた。この世界が生きてるだけで苦しくて、もう歩みたくなくて。本心を言えば死にたくて。でも自分で自分を殺す勇気がなかったから、私は常々、誰かに、もっと言えば世界に。私のことを殺して欲しかった。
だから、私は今の状況を打開する気なんて全くなく、ただ、これから行われるだろう色々な仕打ちを、ただ想像していた。
「…………」
自分の右手を見る。陰陽術を使う時、いつも使っていた私の右手。私にとって忌まわしい、私の右手。
「丙」
印を結ぶ。
「……火の兄。二つの弁を返し、天市垣の滾る兜を呑め、焦せ」
そして、詠唱して。自分の右手の平を自分の胸に当てる。
「……………………」
やがて、時間経過とともに私が結んだ印は消える。
「この期に及んで。自殺はできないか」
どうやらどこまでも。本当に心の奥深くまで、私は臆病らしい。
私をさらった狸の親玉である、隠神刑部。ソイツがこの山に封印されているとは知っていた。大昔に、優秀な巫覡達が封印した、強大な妖怪だ。そんなものに捕まって、私が助かるわけないのに。もっと言えば、私を交渉材料にされて他人に迷惑が被るかもしれないのに。
私はまだ、自分の命を自分で絶てないのか。この世への未練を自分で断てないのか。
「はぁ……。本当に、自分に呆れる」
少しムキになって、硬く冷たい石の上に寝っ転がる。てか、もう少しマシな部屋用意しろよ。なんだよこの部屋。本当にただの洞穴じゃねぇか。
格子の外を見ても、見張りの狸一人もいねぇし。本当に、舐められたもんだ。
狸どころか人影も見えやしない。見えるのは足音も立てずに四つん這いになってる人間だけ……。
「やっぱ、ここにいた」
「……え?」
そこにいたのは、暗い部屋の中で体中に書かれた文字を淡く赤色に光らせ、全く音を立てず、四つ足で、歩いてくる巫女服を着た女だった。
嘘。信じられない。私を助けに来たの? あの時、出会っただけの私を? あの時、あそこで出会って、なんなら戦うにも近いことをした私を、助けに来たの? この、隠神刑部の根城まで命を顧みず? この巫女はそれをした?
やっぱり、この巫女は怖い。
そう、再度実感した。
この巫女は、私がそうやって恐怖を感じている間にもノコノコと格子を鋭く伸びた爪で裂き、この牢の中に入ってきている。何食わぬ顔で私の前に立ち、そしてあの言葉を私に向かって吐くのだ。
「助けに来たよ。一緒に逃げよ」
正真正銘、再三言おう、恐怖だ。私にとってそれは恐怖だ。見ず知らずの人間に対してやっぱりこの巫女は、自身を投げ打ってまで、犠牲にしてまで助けようとする。私はその行動に対して、やっぱり疑問を抱かずには、いられない。 そこにあるのは、本当に人を救いたいという気持ちなのか?
ただ、自分を投げ捨てて人を助ける姿に酔っているだけじゃないのか。酔っていたいだけじゃないのか。
私はそう感じたから、素直にそれを言葉に出すことにした。
「何、勝手に助けに来てんだよ。勝手なことすんな。私は死にたいんだよ」
これは私の本心だ。だって私は別に生きたいなんて現在、思っていない。本当にこのまま死ぬ気だった。だってずっと、死ぬときがきたら死んでやろうとずっと思ってたんだから。そんないきなり助けにこられても、私自身、困る。
それに、どうやってここに来たかは分からないけど、私を連れて逃げれるわけがない。一緒にここから逃げても、二人でまた捉われて捕われて囚われて殺されるのが関の山だ。そんなことしに、この巫女だって巫女してるわけじゃないだろう。
「はいはい。そういうのいいから。早く行くよ」
私が敬ってわざと突き放したのに、この巫女の返答はそれを無碍にするものだった。
「は?」
「いや、は? じゃなくて。死にたいとか、自殺しなかったの見てたよ。説得力無いから。ほら早く。もう見張り来ちゃうから」
私が、死にたくない? いやいやそんな。勝手なこと言われても困る。私はずっと、死にたいと思いながら生きてきたし、自分がもう死ぬという状況なら喜んで死ぬつもりでいた。この女は、私の何を知ってそんな、私が死にたいと思っていないみたいな、根拠を。
私の腕を掴み連れて行こうとするその腕を、私は払いのける。そして、その巫女に向かって、自分の右手を向ける。
「死にたいって、言ってるんじゃん。私の言うこと無視して連れて行こうって、何様のつもりなの? 本当にここから出れると思ってないでしょ。無謀な癖して、善人ぶってんじゃねぇよ」
いつでも、印を結べる準備をしながら。
これ以上、私の平穏を。心をかき乱すなら。早く何処かに行ってほしい。せめて死ぬときくらいは、静かに落ち着いて、死にたいから。
「…………」
この巫女は、拒絶した私をじっと見る。ただ、私の右手ではなく、その先の私の顔を、本当に静かに、ただ静かに見ていた。
その時、奥の方でガタガタと音がし始めた。どうやら、この狸の巣に侵入者がいることがバレたらしい。
「ほら、早くあんただけでも逃げないと。きっとおびただしい数の狸が、お前のこと殺しに来るよ」
そう私が言った時、彼女はただスッと目を細め、猫のように目を細め、そして私に向かって静かに口を開いた。
「そういえば、聞いてなかったよね名前。貴方は、なんていう名前なの?」
後ろから聞こえてくる音は、どんどん騒々しくなっていく。それなのに、この巫女は何を言ってるんだ。今更名前? 何をそんな呑気なことを……。
「名前? ……死ぬ前に誰かに名前を教えとくのもまぁいっか。私は、倉永栞って名前」
それを私が言ったのとほぼ同時くらいに、この巫女の背後に狸が見え始めた。牢までの狭い通路を何十の狸が我先にと走っているのが見える。本当、ちょっと笑っちゃうくらいの殺気と霊気を感じる。
私の名前を聞いた巫女は、くるりと私に背を向けて、そして狸達を視界に捉えた。
「栞ちゃん、ね。口で言っても分からないだろうから、私は行動で示す。今の内に、助けを呼んでおいてよ」
巫女服の間からチラリと覗く腕や足に書かれている文字が、赤く光っているのが見える。ゆっくりと私の前に立っていた巫女は、かがみそしてその二本の腕を地面に着けた。
「私の名前は、月笠夜知。逸猫を宿してる、
そして、跳ねた。目の前の狸達を狩るために。
まさか、本当に。私を助けるために……?
気付くと私は、自分のポケットから取り出した式神を握りしめていた。
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