第50話 『富岡しのぶ』の覚悟

 おおよそ淑女らしくない雄叫びが頭上から聞こえたかと思えば、不意に柔らかい衝撃があたしの背中を叩いた。


「舌噛むんじゃねぇぞしのぶッッ!!」


 そうして抱き留められたと認識した頃には、あたしの視界が百八十度反転し、ガサガサと細かい葉が擦れる音と木々が断ち折れる音が振動となって聞こえてくる。


 そして、ドンッ――と胸を打つような強烈な衝撃が柔らかい何かに挟まれるような形で打ち付けられた時。そこにはあたしを庇うような形で大の字に倒れる鬼頭神無の姿があった。


 あたしなんかを助けるために崖から飛び降りるなんて、いったい何を考えてるんだこのバカは!!

 森の木々がクッションになってくれたから死ななかったようなもので、最悪自分も死んじゃうかもしれないのに……


「なんて無茶してるのよアンタ!!」


 咄嗟に叫ぶようにしてあの人の身体の上から飛び退くが、様子がおかしい。

 血は出ていないのに、一向に目を覚まさないのだ。

 いつもなら何でもないように騒ぎ出すのに……揺すっても反応がない。


「ちょっと、……嘘でしょ。起きてよ。ねぇ、起きなさいよ!! なに一人で満足げに倒れてるわけ。いつもみたいに平気な顔で起き上がってみなさいよ、ねぇ!!」


 ピクリとも動かない目蓋。呼吸は止まっているようで、まるで生気の抜けた人形のようだ。

 それは在りし日のおかあさんを看取った時とそっくりで……これ全部、


「あたしの、せいなの? あたしが死にたいって思わなければコイツは――」


 死ななかったかもしれない?


 よろよろと地面にへたり込み、震える両手で身体を掻き抱く。

 息が、苦しい。どうしよう。どうすればいいの?

 あたしの代わりに誰かが死ぬなんて……こんな、こんな結末望んでないのに。

 

「そんな、そんなのってないよ……」


 そうして無意識に伝う一筋の雫が、頬を伝って地面に零れ落ちた時――


「だああああ、危なかったああああああ!!」

「へ?」


 場違いな咆哮と共にさっきまでピクリとも動かなかった鬼頭神無の上体がガバリと持ち上がった。

 あまりに唐突のことで浮かびかかった涙が引っ込んでいくのがわかる。

 けど、これは――


「え、ちょ、これはいったい――アンタ、何で生きてるの?」

「ん? おお、お前も無事だったか。いやー今回ばかりはマジで焦った。あいつら、目的の為なら手段を択ばないって聞いてたけど、マジで突き飛ばすんだもんな。危うくうっかり見殺しにするところだったよ」


「いやーまいった」と言って立ち上がり、身体の様子を確かめてみせる鬼頭神無。

 どうやら本当にケガはないようだけど……


「アンタいったいなに考えてるわけ!!」


 じわじわと胸の内側から溢れ出す不満が喉元までせり上がり、感謝の言葉よりもまず先に悪意に満ちた暴言が飛び出していた。


 自分が恩知らずなことを叫んでいるのかわかってる。

 でも湧き上がる感情を止めることができなかった。


「アンタ自分がなにをしたのかわかってるの!? 下手すれば、あたしだけじゃなくアンタまで死んじゃうところだったんだよ!! せっかく、せっかくあたし一人で死ねそうだったのに。なんで邪魔するのよ!!」


「いや、なんでって。それがわたしの仕事だからに決まってんだろ」


「そんなことが聞きたいんじゃない!! アンタが来たせいで計画がめちゃくちゃよ!! あたしはあいつらに捕まって、証拠を押さえなきゃいけなかったのに。なのに――なんで邪魔するのよ!!」


「ああもう、グチグチグチグチうるせぇな!! やっとできたオタ友を手放すわけねぇだろうが!!」


「は……?」


「あ、いや――これは違くて」


 本人も叫ぶつもりがなかったのか「しまった」と言いたげにおどけてみせる。

 まるで拗ねた子供のように唇を尖らせ、明後日の方向に視線を飛ばしてみせるが意味がわからない。というか――


「アンタそれ、本気で言ってる?」

「だああああもう、当り前だろうが!! これ以上の理由がどこにあるってんだよ」


 やけくそ気味に吐き出される言葉。

 怒りもどこかに飛んで行ってしまうくらいの衝撃に、思わずポカンと鬼頭神無の顔を凝視する。

 なに、それ? たったそれだけの理由であたしの決意を無駄にするの?


「これまで積み上げてきたあたしの意志は?」

「んなもん知るか。自分の失敗を他人のせいにしてんじゃねぇよ。結局は全部、お前の甘さが原因だろうが。嫌われたいんだったらもっと徹底的に突き放せってんだ」


 言うに事欠いてこの開き直り。

 本当の本当に本心で言ってるのだから手におえない。


 オタ友が欲しかったからなんてそんな子供じみた理由で、人の思いを踏みにじるなんてずるい。ずるいよ。


 キョトンとするあの人の顔が何よりもあたしの心をざわつかせ、八つ当たり気味に彼女の薄い胸にいくつも拳をいれる。


 なにを言ったって無駄だってわかってる。

 でも叫ばずにはいられなかった。

 あたしの自殺に誰かを巻き込むなんて耐えられない。


 あたしは――あたしだけなら、たとえあいつらに利用されたとしても。あのまま終わってもよかったのに。なのに――


「なんで、そんな理由で助けちゃうのよ……」

「うるせぇな。気づいたら身体が勝手に動いちまったんだから仕方ねぇだろ。って、ちょ――おまッ、まさか泣いてんのか?」

「ずずっ――、泣いてないッッ!!」


 そうして感情のまま拳を繰り出せば、気まずそうに視線を逸らしてみせる鬼頭神無の顔が醜く歪みだした。


「なによ。この空気。アンタどう責任とってくれるわけ?」

「ああもう!! わたしだってこんなつもりじゃなかったっつーの!!」

「なによそれ、馬鹿じゃないの」


 そうして言い訳じみた照れ隠しを鼻で笑ってやれば、肩にのしかかっていた重荷がふっと消え、今まであたしの中の凝り固まっていた『なにか』が徐々に緩んでいくのがわかった。


「……あーあ、ほんとアンタを見てると死ぬのが馬鹿馬鹿しく思えてきちゃった」

「だから言ってんだろ。お前は絶対に死なせないって」


 まっすぐ、それこそ堂々と言ってのける言葉が今は気持ちよく心に響く。

 立ち上がるために差し伸ばされた手。


 この右手は今まで見てきたより、どこまでもズルく、利己的に見えて――思わず、その手を取って立ち上がってしまう自分がいた。


 これじゃあ世界の崩壊を一人で阻止しようとしてたあたしが馬鹿みたいじゃない。

 そこまで自信満々に言うんだったらさ――


「あたしを助けられるものなら助けてみなよ」


 そう言って噴き出すように笑みを零せば、ドクンと不吉な『感覚』が心臓の奥からを波打った。


「……え?」


 視界が、歪む。

 それはあたしがこれまで使ってきたどの『幻想』よりも強い反応で、

 空も、大地も、空間でさえも本来の形を成していなかった。


 いや、空間だけじゃない。ここら一帯の世界が歪み始めてる。でも――


「なんで。あたし、こんなこと望んでないのに――」


 でも脳裏によぎるのは凛子さんからくどいほど説明された現象に酷似していて。

 あたしは、この異変がなんであるか瞬時に理解した。


 幻死症罹患者の限界。タイムリミット。不完全な干渉器。

 

(ああ、ほんと。神様って意地悪だ。せっかく生きてみたいって思えたのに)

 

 あからさまに慌ててみせる『』。

 ごめんね。最後までこんなことに巻き込んじゃって。

 助けてみせるって言ってくれたのに……。

 

「――っ、しのぶ!! お前、いったい何する気だ!!」

「ごめん。もう、……間に合わないみたい。でもね――」


 助けてくれるって言ってくれて嬉しかった。

 だからさ――


「今度はあたしの番だよ」


 伸ばされた手を突き返すように、神無さんの胸を静かに押し出せば、あたしは『最期まで助けようとしてくれた』恩人の言葉を心の中で復唱し、


「もう、終わりにしよう」


 そう言ってあたしは――『富岡しのぶ』が世界から消失する道を選ぶのであった。

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