第3話
「——カブト虫とビールの来た道——」
それが、本日のイベントに際しての記念講演のタイトルだった。演者は、「一介の考古学マニア」としか名乗らなかったが、彼が、マクミナル財団の中でもかなり序列の高い人物であることは、周知の事実だった。
特設ステージは、博物館内の上階の一室に設けられており、窓外には、大樹の島が、晴天に美しく浮かび上がっていた。そして、壇上の考古学マニアの隣には、某国の古の王が、その棺が、立体映像で再現されているのだ。
考古学マニアは語る。その国では、外見が重武装の兵士を思わせることから、カブト虫が、国家の守護神の眷属として神聖視されていたのだと。
考古学マニアが、悪戯っぽい笑みを浮かべて、本日のコンテストの優勝賞品に、彼のポケットマネーから「純金製のカブト虫」を追加することを発表すると、聴衆のカブト虫戦士たちは、大いなる地鳴りのごとくに沸いた。おそらく、講演終了後に特設ステージ上で、参加者各自に与えられるアピールタイムは、一層の盛り上がりを見せることだろう。
考古学マニアはなおも語る。その国は、豊かな穀倉地帯を誇り、古代においては屈指のビールの名産地であったと。
当時ビールを製造する際には、大麦の麦芽とともに小麦のパンが用いられた。主食を消費して生み出される嗜好品であることから、ビールを楽しむことは、富と権力の象徴でもあったのだ。
コンテスト終了後に催されるパーティーでは、当時の製法に則って造られたビールの試飲が可能であることが伝えられると、カブト虫戦士たちはまたもや沸いた。もはや優勝を諦めつつある一部の参加者たちにとっても、それは、十二分な朗報となったようだ。
ただ、アルドにとっては、酒は無用の長物だ。もっとも、講演の聴衆の中に彼の姿が見当たらないのは、酒にまつわる話だから……というわけでは、決してなかった。
「どうしたヴァレス、疲れたか?」
「いや、それほどでもない。ただ、人間臭いのに血生臭くはない……という空気には、私はまだ慣れていないようだな」
アルドとヴァレスは、博物館の下階に存在する図書エリアへの階段をおりていた。記念講演が行われる間、図書エリアは一時的に利用禁止……ということにして、アルドとヴァレスで占有できるように取り計らってくれたのは、セティーだった。
ヴァレスは、戦闘形態に引っ張られて精神的にも荒ぶると、一人称が「俺」だの「俺様」だの、ついには「わい」などと尖ってゆくのだが、今のところ、そうした兆しは見られない。ただ、話しぶりには多少の棘があった。
「まったく、人間というものは……
滅びたと決めつけて、魔獣を娯楽のネタにするわ!
死者の転生ではなく再生を目論むわ!
自分たちの手で生み出した合成人間とも争うわ!
つまるところ……じたばたせずに素晴らしい合金の天馬さえ生産していれば、それで良いのだ!」
「結局はそれか」
アルドは、柔らかな笑みを浮かべて、やはり疲れているのではないかと、ヴァレスに寄り添った。
やがて、二人の眼前に、図書エリアの十重二十重の書棚が現れた。
「アルド、せっかくの機会だ。おまえが読書をしているところなど見たことはないが、これぞという書物があるなら教えてくれないか」
ヴァレスの声にも、活力が蘇る。
「うぎゃっ!?あわわわわ……」
しかし、彼に寄り添っていたはずのアルドが、突如、奇声を発して飛びのいたのだ。
そのまま独り、背中に手を回して、謎の悪戦苦闘を繰り広げたのである。
「おいアルド、急にどうしたんだ?」
まさか、「痒いところに手が届かない」と、ジェスチャーゲームで表現しているわけでもあるまいし……
ヴァレスの疑問にほどなく答えたのは、ヴヴヴ〜ンという羽音だった。
一匹のカブト虫が、アルドの服の中から飛び出して、ヴァレスの掌に受け止められたのである。
「はあ、助かった……なんだよこいつ、どこから来たんだ?」
未だ涙目ではあったが、一息つくことができたアルドだった。
それは、なかなかに大きなオスで、体表には、虹を思わせる七色の光沢を帯びていた。
そして、もしも口が利けたなら、大樹の島より飛来したことを告げたかもしれない。
「なんだ、カブト虫のせいだったか。てっきり書物嫌いが高じて、虫酸が走ったのかと思ったぞ」
カブト虫戦士は、虹色の来訪者に掌を貸したまま、軽口をたたいた。
「そりゃあ、オレは読書は大の苦手だけど……って……もしかしてヴァレス、『カブト虫』と『虫酸』を掛けて、ちょっと面白いことを言おうとしたのか?」
ヴァレスは、わざわざ訊かれて、獣面を渋くする。
「知らん!私は、幼少のみぎりより、武芸に勤しむ一方で本の虫でもあったからな。おすすめの書物は、おまえよりも見所のありそうなこの虫に訊いてみるとしよう」
虹色のカブト虫は、慌てたように飛び立った。
(やっぱり、虫って言いたいんじゃないか……)
少しばかり眉根を寄せたアルドに、ヴァレスは声を落として話しかけた。
「おい、気づかなかったのか?あのカブト虫からは、相当な魔力が感じられたぞ。何者かが憑依しているのかもしれん」
「え!?」
虹色のカブト虫は、まるで二人を案内したがるように、迷い無く通路を飛行して、とある書棚の向こうへと回り込んだ。
見失うまいと追った二人が見たものは、虹色の光に包まれて、ふわふわと通路の宙に浮かぶ、一冊の本だった。
「なんだこれは……魔導書の類か?」
ヴァレスは、躊躇うことなく歩み寄る。
すると、虹色の光はシャボン玉のように弾け散って、内包していた分厚い書物を、ヴァレスの両手に託したのだった。そして、彼の手の上で開いた本のページから、緑色の球体が、もわんと迫り上がったのだ。
「これはいったい……ネコッケサボテンか?」
それは真上からは、棘が猫っ毛のように細く柔らかいことで知られるサボテンのように見えたのだ。
しかし、角度を変えると、その物体は決して植物性ではなく、緑のおさげ髪を結った、女性の頭部だとわかったのである。
「な……生首だと!?」
ヴァレスは、声をひっくり返しながら、咄嗟に書物を投げ捨てた。しかし、捨てたつもりの本が、目には見えない力に押し返されて、彼の手に戻ってきたのである。
緑髪の生首は、両目を閉じており、半開きの口元には少しばかり涎が見受けられて……そして、吐息が酒臭かった。
「シ、シンシア……」
アルドは、まるで不吉な呪文を唱えるように恐る恐る、彼女の名を呼んだ。
シンシアもまた、アルドの旅の仲間である。元来は城に住まう身の上であったが、訳あって本の中に仮住まいしていることなら、彼も知っていた。しかし、こんな晒し首のような寝顔を目撃することになるとは思ってもみなかった。
アルドの声が聞こえたのか、シンシアは紫色の目を開けた。だが、声の主を勘違いしたらしく、まだ幾分とろんとした瞳を、ヴァレスへと向けたのである。
「あら……ライオンさん?……朝風呂の支度が整ったのですか?」
(ライオン……って、ヴァレスのことか?なんだか斬新だなあ)
アルドは、傍らで目を丸くする。
当のヴァレスは、一言も返すことなく固まっていた。映画派だの彫像派だのを通り越して、文字通りに彫像のごとく固まってしまったのだ。明晰なはずのその頭脳も、どうやらフリーズしてしまったらしい。
「懐かしいわ……あなた、わたくし専用の浴室に飾られていた、黄金のライオン像でしょう?」
晒し首状態のシンシアはシンシアで、思考回路が酒でショートしているらしい。美食を愛する彼女のことだ、うっかり飲み過ぎてしまったのかもしれない。
それにしても、城に住まうような身分ともなると、専用の浴室まであるものなのか……もっとも、既に国を滅ぼされて、城自体が現存していないわけだけれども。
「うふふ、本当に懐かしい……幼いころ、お風呂上がりには決まって、ライオン像に跨って戴冠式ごっこに興じていたんですもの〜」
シンシアは、本の中から、頭部だけではなく、上半身をぬぬぬ〜んと現して、皮肉にもおあつらえ向きに固まっているヴァレスの首に両腕を回したのだった。
(よかった、いつもの服だ……)
シンシアの着衣に乱れはない。もしも、彼女自身が朝風呂の支度を整えていたら、アルドとて目のやり場に困るところだった。
「ライオンさん、冷んやりとしたあなたの体が、湯上がりにはとっても心地良くて……」
ご機嫌だったシンシアが、ふと細い眉をひそめた。
「変ですわね……ライオンさんから、まるでお熱を出したような体温を感じますわ……」
その刹那、ヴァレスのフリーズはついに解除された。
「おとなしく聞いていれば、誰がライオンさんだ〜〜〜!!」
吼えに吼えつつ、彼にとっては初対面のシンシアのことを、必死に引っぺがしにかかる。
「黄金のライオン像だと?百歩譲っても色しか合ってないぞ!
それに……ど、ど、どういう戴冠式だあぁっっ!
まったく、風呂上がりの子供が何をやっている!湯冷めして風邪でも引いたらどうするつもりだ!」
みし、みしみし、べこ〜んと、今度こそ、シンシア在中の書物は、床へと投げ捨てられたのである。
「あいたた……あなたは、わたくしのライオンさんではないと言うのですね?」
「おまえこそ、あのグリーディとかいう、気色悪い魔物の親玉じゃあなかろうなあっ?」
長い髪が寝乱れて、床に両手をついたシンシアの姿が、ちょっとそれっぽいことは、アルドにも否めなかった。
シンシアは、ヴァレスをきっと睨みつけながら、両手で這うようにして、全身を本の外へと引きずり出した。さらには、本の中から大剣をすらりと引き抜いて、それを下段に構えながら立ち上がったのである。
「侍女でもライオンさんでもない者が、わたくしの浴室に忍び込むだなんて、まことに許しがたいですわ〜」
怒りの前提条件がまだまだおかしい。シンシアの表情や口調には、しらふのときに劣らぬ凛々しさが漂っているだけに、残念極まりなかった。
「剣で決着をつけるつもりか。望むところだ」
ヴァレスもまた、得意分野に持ち込めたとばかりに、牙を連ねたような個性的な剣を構える。
そんな二人の間に、ついに黒髪の勇者が、一陣の疾風のごとく割って入ったのだった。
「あーーっ、あんなところで、ソフィアがいつもよりも多めに踏ん張っているぞーーっ」
アルドは、びしっとあらぬかたを指差しながら、棒読みの大声を張り上げたのである。
「まあ、お姉様が!?どこ、どこですの〜〜?」
あっさりと視線を誘導されてくれたシンシアには、感謝の念しかない。いや、少しばかり罪の意識の予感もあった。
ヴァレスは、満を持して、彼女の背中に、強かな峰打ちをお見舞いしたのだった。
「ああ……わたくしったら……また、またまた、しくじりましたわ〜〜っっ」
シンシアは、すっかり打ちひしがれた様子で、片手を天……もとい天井へと伸ばしつつ座り込んでいた。
そこは、相変わらず図書エリアの床の上であるが、まるで、舞台上の悲劇女優のような居住まいである。
彼女は、ヴァレスの峰打ちによって、ほんのしばらく気を失っていたのだが、目覚めた後、跪いて目線を合わせたアルドからの説明を受け入れた。そして、酔った勢い余っての自身の非礼を後悔している真っ最中なのである。
「ああ、わたくしはただ、お姉様と二人きりで、ワインと鴨肉を楽しんでいただけのはずですのに〜」
「お楽しみが過ぎたようですね」
「うぅ、ごめんなさい。でも、ライオンさんじゃないくせに……ライオンさんの体よりも冷たい言い方ですわね」
ヴァレスが意図的に口調を切り替えたことは、アルドにもわかっていた。まるで、ギルドナの右腕として交渉に臨むときのようだった。
「シンシア殿、あなたが見ていた夢の中に、何者かが訪れたのではありませんか?
例えば私やアルドでは、魔法学の素養が足りない。宝を託すために、あなたこそが選ばれたのではないでしょうか」
「えっ?」
ヴァレスは、彼女の前に、礼儀正しく跪いた。
「実は、『彼』がそう尋ねているのです」
ヴァレスが差し出した掌には、あの虹色のカブト虫が乗っていた。
「まあ……何やら、ただならぬ魔力を秘めていらっしゃるようですこと」
シンシアは、居住まいを正すと、片手の甲を差し出した。
虹色のカブト虫は、貴婦人に挨拶を許されたことを理解したらしく、恭しくキスするかのように、そっとその手の甲へと飛び移ったのである。
「ええ、確かに、わたくしは夢を見ておりましたわ……」
カブト虫が纏う七色の光沢が、シンシアの瞳の中でざわめく。
アルドがソフィアの名前を持ち出したのは当てずっぽうだったが、昨夜、シンシアが、姉のように慕っている彼女と夕食を共にしたのは事実だった。そして、その記憶が、夢への入口となったのである。
食卓で、シンシアと向かい合っていたはずのソフィアの姿が、いつのまにか全くの別人へと変化していたのだ。
銀髪の女性から、頭巾を被った男性らしき人影へと。ただ、単に頭巾のせいとも思えない濃い影に包まれていて、その人物の容貌まではわからなかった。
『葡萄の酒を嗜まれるのか』
シンシアには聞き覚えのない、年配の男性らしき声だった。
「ええ、故郷のワインには、香りも味わいも遠く及びませんけれど。わたくしにとっては今でも、ワインは故郷を偲ぶよすがですのよ」
初対面の相手のはずだが、シンシアは、自分でも驚くほどすんなりと語ったのである。
『そなたの故郷とは……』
「今は、この胸の中にのみ存在いたします。わたくしめは、一度は死んだも同然の身で故国の再興を悲願としておりますが、なかなか、ままならぬことばかりでして……
時に力の入り過ぎた体をほぐしたり、冷えた心を温めたりしてくれるのが、愛すべき方たちと共に嗜むワインなのですわ〜」
年配の男性は、少し笑ったようだった。
『余も酒を愛しておる。麦の酒じゃ。民の勤勉な働きがあったればこそ、麦が豊かに実り、楽しむことができる酒じゃ。
献上された酒を一口含んだ刹那、その喉越しの素晴らしさを予感しただけで、いかに我が国が繁栄しておるのかという悦びが、全身を駆け巡ったものじゃよ……
そなたは、死んだも同然だというが、余は、遠い昔に確かに死んだのじゃ。
まだ生きておった晩年、我が国の麦が、原因不明の不作続きとなった。余は、民を飢えから救うべく、麦の酒を造ることを禁じて、臣下に麦の品種改良を命じたのじゃ。しかし、生きてその後の顛末を見届けることは叶わなんだ……
おそらく、余は許されなかったのじゃろう。
すぐそこに『試練』が迫っておる。どうか余に力を貸してはくれぬか?
剣の腕が立ち、魔法学に通じ、国と酒をこよなく愛する者の助けをこそ、余は必要としておるのじゃ……』
「ええ、確かに、そうおっしゃっていましたわ」
シンシアは、七色のカブト虫に落とした瞳を、ゆっくりと瞬く。
「そこまで明晰に夢見ておきながら、目覚めた途端に『ライオンさん』ですか」
「おい、ヴァレス!」
「……これは失敬」
アルドにたしなめられたヴァレスは、頭頂部の一角をギュッと握って、私怨に流されそうになるのをこらえた。
確かに、シンシアがどんよりと黄昏れかねない言動は、今は慎むべきだろう。
「宝というのは、これのことだと思いますわ〜」
シンシアは、仮の宿でもある本のページに手を差し入れた。紙面がまるで泉の面のように揺らめく。
彼女が造作も無く引っ張り出したのは、黒く細長い物体だった。
「シンシア殿、失礼を承知で伺いますが、それは、単なる黒いワインボトルではないでしょうね」
発言したのはヴァレスだが、アルドが見ても率直に言ってそれっぽかった。
その大きさといい、円柱型の胴体と細い首からなる形状といい、シンシアが酒場で護身用にぶん回すのにぴったりではないかと思えるほどだった。
シンシアは、ハンカチを取り出して、額の汗を押さえた。
「違いますわ〜。まあ、その……わたくしの不徳の致すところで、お酒の瓶に見えてしまうのかもしれませんけれど、これは『生者の魔法瓶』と呼ばれる、この世に二つとない魔法具なのです!」
瓶であることは間違い無いらしい。
シンシアは説明を続けようとしたが、そこへ、思わぬ乱入者が現れた。
「緊急事態発生です!アルドさん、講演会場まで戻ってください!」
「クロックじゃないか!」
アルドは、飛来した黒いポッドの名を呼んだ。それは、セティーをサポートしている複数のポッドのうちの一体だった。
それは、考古学マニアの講演の最中に起きたのだ。
「王国の古文書に、このような一節があります。
『ああ、死者よ、肉体を喪いし者よ、汝は、太陽の元にあっても、大地に黒き影を落とすこと叶わず』
つまり、光を浴びれば黒い影を生むということが、生きて肉体を維持する者の特権のように考えられておりましたので、この国では、黒が生者を象徴する色、白が死者を象徴する色とされていたのです。
ところで、ちょっと喉が渇きましたな」
考古学マニアは、そこでおもむろに、白い酒瓶のようなアイテムを取り出した。ラッパ飲みするジェスチャーで、聴衆の笑いを誘う。
「これは、実は私の秘蔵のワイン……というわけではありませんよ。
かの王の副葬品で、『死者の魔法瓶』と呼ばれておるのですが、空き瓶だし、保温性に優れているわけでもないし、どうにも用途がはっきりしない。そして、これと対を成す『生者の魔法瓶』なるものも存在するらしいのですが……」
その刹那、考古学マニアは耳にした。卵の殻がひび割れるような微かな音を。まるで、空き瓶の中に実は雛が存在していて、孵化の時を迎えたかのようだった。そして、彼の手の中で、死者の魔法瓶が、突如として砕け散ったのである。
一瞬前まで魔法瓶だったものは、みるみる光り輝く球体と化して飛び立った。今度は誰憚ることなく大きな音を立てて窓ガラスを突き破ると、一直線に博物館の外へと飛び出したのである。
「窓から離れてください!」
レンリが駆け寄り、考古学マニアを制止した。
非常時の警備の基本として、要人を窓際に立たせてはならない。窓の外からの狙撃を想定してのことである。
ただ、レンリとて、これはマクミナル財団の大物が命を狙われたといった、単純な案件ではないことは直感していた。
「こ、これは……何かの魔法なのか……」
考古学マニアは、呆けたように窓の外を見遣るばかりだ。
光り輝く球体は、博物館の外、さらには、博物館が立地しているニルヴァの外にまで飛び出した。
そして、ニルヴァの北東にあたる空域で、光の球体が静止したとき、この世から音なるものが消え去ったかのような、硬質な静寂が張り詰めた。
しかし一転して、人々を異変が襲ったのである。
あたかも、世界の底が抜けてしまったかのようだった。
「おい、時震か!?」
居合わせた人々が悲鳴をあげる。
先日の巨大時震の経験を想起しない者など、誰もいなかっただろう。
物理的な振動によって立っていられなくなるだけではない。「自分」というものが否応無く揺さぶられて、記憶も感情も、割られた砂時計から零れ落ちる砂のように、どこかへ流れ去ってしまうかのような……
不幸中の幸いと言うべきか、その異変は、先日の巨大時震と比較すれば、随分と短時間で収束した。
そしてそれは、ニルヴァ北東の空域において、光の球体が正体を現して実体化しおおせたことを意味していた。
「なんと巨大な……あれは……ライオンか?」
考古学マニアは言った。
少なくともマクミナル博物館よりは巨大であろう、一頭のライオンが、空中に出現していたのである。
いや、そのライオンには頭がない。頭部があるべき場所から、人間の上半身が生えているのだ。さらに、その人体の背中では、鷲を思わせる双翼が羽ばたいていた。
そして、無表情のまま辺りを睥睨するその人面は、豪奢な頭巾に縁取られており、古の王の棺の表面を飾る彫刻にそっくりだったのである。
「あれは!『試しの獣』——『ファラオ・シェセプ・アンク』ですわ〜!」
おさげとマントを翻して、窓辺に駆けつけたシンシアが叫んだ。セティーからの報せを受けて、まるで時震のような異常事態の中を泳ぐようにして、アルドやヴァレスとともにようやく辿り着いたのである。
「『甦りの書』に記された通りですわ!あれこそが、王にかけられた再生魔法の完成を告げる使者であり、生者にとっての試練でもあるのです!」
その再生魔法を行使した張本人は、今は虹色のカブト虫に憑依して、ヴァレスの頭頂部の一角にしがみついているのだ。
凛々しく語る彼女に、考古学マニアが口を挟む。
「『甦りの書』ですと!?あの古文書ならば、とうの昔に散逸して、大方の内容は不明のはずです!」
「原書についてはそうかもしれません。けれど、かつてかの王国からわが国へと、お輿入れになった姫君がいらっしゃって、その方がお持ちになった写本でしたら、わたくし、幼いころより何度も読み返しましたわ〜」
「あなたは!あなた様はもしや……いや……」
考古学マニアは、言葉を呑み込んで、首を横に振った。
時震によく似た異常現象のせいで、遠い過去の時代からやんごとなきプリンセスが時空を超えて姿を現したのではないか……そんな思いがよぎったのだが、何を馬鹿なと心の中で打ち消したのである。
「試しの獣が現れてより丸一日をもって、かの王は完全なる復活の時をお迎えになります。あの獣を形成する魔力の全てを取り込み、新たな生命の糧となさるのです」
考古学マニアは、あっさりと思考の優先順位を変更して、ぽんと手を打った。
「ならば、あの試しの獣とやらを、ただ遠巻きに眺めて放っておきさえすれば、24時間後には古の王様が復活なさって万々歳であると!
それは是非とも、独占インタビューをさせていただかなければ!」
考古学マニアは、なんとかアポイントメントを取れないものかと、王の棺の前に進み出て揉み手した。
「まあ、それは素敵ですわね……」
シンシアは、細い眉をぴくつかせる。
そのとき、ゼノ・ドメインが存在する方角から、陽光を弾いて煌めく何かが、二つばかり飛来した。
「あれって、キリングマシーンなんじゃ……」
アルドが言い終わるより前に、試しの獣がぱちんと手を打った。人の両手とライオンの前足を、それぞれ打ち合わせたのである。
警備用にして戦闘用の大型ドローンである二機のキリングマシーンは、片や両手の間で、片や前足の間で、あっけなく叩き潰された。まるでちょっとした花火や爆竹のような火の手や爆発音が切なかった。
「まるで、夏の終わりを認めたがらない、よぼよぼの蚊の最期のようだったな。
まあ、そもそも壮大な再生魔法などを行使する人間にこそ、夏の終わりを知れと言いたくもなるが……」
ヴァレスは、醒めきった声で感想を述べながらも、頭頂部に居候する虹色のカブト虫を見上げる。
「もっとも、そうした人間の諦めの悪さが、われらがギルドナ王を救ったことも事実だがな」
「あああ……写本によれば、ファラオ・シェセプ・アンクは、王の復活を邪魔立てする敵と見做したものには容赦がないらしく……」
シンシアは、既にたっぷりと冷たい汗を吸った愛用のハンカチを握り締める。
そのとき、試しの獣が鳴いた。キリングマシーンにちょっかいを出されるまでは、無表情と沈黙を保って世界を観察していたが、ついに高らかな産声をあげるように咆哮したのである。
それは、魔力の奔流と化して、旋回しながら空中を突き進む。
そして、ゼノ・ドメインとエルジオンとを結ぶ、軌道リフト・バベルへと命中したのである。
昼間でも星が見えるほどの天上まで、一直線に伸びていたバベルは、轟音をあげて、「ハ」の字が90度ばかり回転したような姿へと変わり果てたのである。
シンシアは、自分自身がしくじったかのような痛ましい表情となる。
「こんな破壊が、丸一日にわたって繰り広げられることになってしまう……うぅ……わたくしだって、できれば試しの獣を静観して、明日には王様の復活をお祝いしたかったですわ〜。
けれど……最善の方法とは言いがたいのですけれど……
わたくしは、この試練を強制終了するために、この魔法具を使う所存ですわ〜!」
シンシアは、ついに決意を固めて、生者の魔法瓶を掲げたのだった。
かの王は、シンシアの夢の中で語っていた。
『試しの獣を消滅させるためには、方法が二つある。
一つは、丸一日ただ待つこと。さすれば獣は消え、王の復活とあいなる。
もう一つは、生者の魔法瓶を起動して、試しの獣を倒すことじゃ。これにより、王の復活もまた取り消されてしまうがな。
なあに、王が復活して責任を全うすることを望む誰かが、再生魔法を行使したのじゃろうが、長き年月を経て、いざとなったら、古の王の復活なぞもはや不要と結論付けられるやもしれん。そうしたおりに備えた救済策じゃよ』
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