吸血鬼について。
そしてちとせは、その本を読んで十夜の血を吸うと決めた。
◇
いつ産まれて、どれくらいそこに居るのか。その吸血鬼の男は、自分でもそれを知らなかった。彼は小さな洞窟を住処とし、永遠にも近い時間をたった1人で生き続けていた。
しかし彼は、人のように寂しさを感じない。幸福も不幸も、喜びも悲しみも知らない彼には、そんな人のような感情は備わっていなかった。それはある種、完成された存在であったが、しかしそんな彼にもただ1つの欠点があった。
それは、食事だ。
いくら不死身の吸血鬼といえど、食事を摂らなければ死んでしまう。そして無論、吸血鬼の食事となれば、それはやはり人の血だ。
彼の住む洞窟には、毎月、生贄の人間がやって来る。それは彼が命じたことではなく、彼の存在に怯えた近くの村人たちが、勝手にやっていることだった。
しかし彼にとってそれは、どうだっていいことだった。村におりて血を吸うのも、洞窟にやって来る生贄の血を吸うのも、彼からしてみれば大差ないことだ。
だから彼は毎月やって来る生贄の血を吸い、ただ静かに生き続けていた。
しかしそんな静かな生活は、唐突にやって来た1人の少女によって、完膚なきまでに壊されてしまう。
「お姉ちゃんを返せ! 吸血鬼!」
涙を流しながらそう叫ぶ少女は、そのまま吸血鬼に噛みついた。
◇
つい先日、生贄としてやって来た人間の血を吸った吸血鬼は、いつものように長い眠りにつく。……その筈だったのに、その日は唐突に1人の少女がやって来た。そしてその少女は、大声で何かを叫ながら吸血鬼に噛みついた。
「お姉ちゃんを返せ! 吸血鬼!」
しかし吸血鬼にとってそんな少女の行いは、文字通り子供のお遊びだった。
「かたっ……! 痛っ……」
少女はまるで岩にでも噛みついたように、涙を流しながら尻餅をつく。吸血鬼はそんな少女を、一瞥すらしない。
「何でそんなに、肌が硬いんだよ!」
少女はそう叫ぶが、やはり吸血鬼は歯牙にも掛けない。つい先日、人の血を吸ったばかりの吸血鬼にとって、この少女は何の意味も無い存在だった。
だから吸血鬼は少女を無視して、硬い岩にもたれ掛かって寝息を立て始める。
「無視するなっ!」
少女はそんな吸血鬼の態度が気に入らなくて、吸血鬼の耳元でそう叫ぶ。
「……煩い」
流石の吸血鬼もその声が煩わしかったのか、冷たい声でそう呟く。
「うるさいくらいが、なんだ! 私と戦え、吸血鬼!」
少女はそんな吸血鬼の冷たい声に怯えることなく、何度も何度も叫びを上げる。
「…………」
だから吸血鬼は眠るのを一旦諦めて、ゆっくりと立ち上がり目の前の少女を睥睨する。
「……そ、そんな目で見たって怖くないぞ!」
氷すら凍てつかせるような、真っ暗な瞳。陽の光を拒絶するような、真っ白な肌。そして思わず心臓が止まってしまうほどの、冷たい表情。そんな吸血鬼に真っ直ぐに見つめられて、少女は怯えるように後ずさる。
「今は食事の気分ではない。立ち去れ、人の子」
「た、立ち去るもんか! お前は私のお姉ちゃんを、殺したんだ! お姉ちゃんを返せ! 鬼!」
「貴様の姉なのど、私は知らん。いいから、立ち去れ。さもなくば──」
「私を殺すって言うのか、やってみろ!」
少女は恐怖を堪えるように歯を噛み締め、もう一度吸血鬼に噛みつく。
「…………」
しかし少女の力では……いや、人の力ではその吸血鬼に傷1つ付けられない。そして吸血鬼がその気になれば、少女を殺すことなど造作もないことだ。
「……どうして貴様は、泣いているんだ?」
……しかしどういった気まぐれか、吸血鬼はその少女を真っ直ぐに見つめながら、そう問いかけた。
「お姉ちゃんを……お姉ちゃんをお前に、殺されたからだ! 家族が死んで泣くのは、当然だ!」
「家族……か」
吸血鬼は産まれた時から、1人だった。故に家族という言葉は知っていても、その意味までは理解していない。
「お姉ちゃんを、返せ!」
少女は何度も何度もそう叫んで、飽きもせず吸血鬼に襲い掛かる。
「…………」
それで吸血鬼は、ふと思い出す。つい先日、血を吸った1人の少女のことを。その少女は泣くことも叫ぶこともせず、自らの血を吸血鬼に差し出した。
『私のことは、好きにして構いません。ですから、あの村の人たち……私の家族には、手を出さないでください』
静かにそう告げた少女の瞳の強さは、目の前の少女と同じものだった。
「…………」
しかし吸血鬼にとって、人は餌でしかない。故に人の子との約束を守る理由なんて、どこにもなかった。……なのにどうしてか、この少女を殺す気にはなれなかった。
「……立ち去れ」
故に吸血鬼はそう小さく呟いて、また硬い岩にもたれ掛かり、目を瞑る。
「お姉ちゃんを、返せ……!」
少女はそれでも諦めず、吸血鬼に襲い掛かり続ける。
「…………」
しかしどれだけ叫ばれようとも、吸血鬼が目を開けることはなかった。
◇
それからその少女は、毎日のように吸血鬼の住処にやって来るようになった。雨の日も風の日も、深夜だってお構い無しに、少女は吸血鬼に襲い掛かる。
無論、吸血鬼にとってそれは、少しうるさい羽虫ていどの意味しかない。故にどんな奇跡が起ろうとも、少女に吸血鬼を殺すことは不可能だった。
「…………」
しかしだからって、少女の行いが完全に無意味だった訳でもない。関わり方はどうであれ、今までこれほど長く人と関わったことなんて、吸血鬼にはなかった。
故に吸血鬼の胸に、1つの疑問が生まれていた。
「貴様はどうして、そこまで必死になるんだ?」
いつものようにやって来た少女に、吸血鬼はそう問いかける。
「お姉ちゃんを、殺されたからだ!」
「そうだ。私は貴様の姉を殺した。しかしそれが、何だという。貴様たち人も、同じように猪の肉を喰らうであろう」
「……そんなの、関係ないだろ!」
「なら貴様は、昨日喰らった猪の子が貴様の元に復讐にやって来たとして、むざむざ殺されてやるというのか?」
「それは……」
少女は答えを返せない。
「猪の子に、貴様ら人は殺せまい。そして同じように貴様ら人では、私を殺すことは叶わない。なら過去など忘れて、今を生きればよかろう。なのにどうして貴様は、私の所にやって来る?」
「…………」
心ない者の疑問に、幼い少女は答えを返せない。
「……もういい。早く立ち去れ」
吸血鬼はどこか失望したようにそう吐き捨て、いつもの岩にもたれ掛かり、目を瞑る。
「…………」
少女はそんな吸血鬼の姿を前にして、何も言うことができなかった。
◇
しかし翌日。少女は懲りもせず、また吸血鬼の所にやって来る。
「おい! 起きろ!」
いつもより大きな声でそう言って、少女は今日も吸血鬼の住処に踏み入る。
「貴様、また来たの」
吸血鬼はその姿を見て、呆れたように息を吐く。
「聞け! 吸血鬼! 昨日は言い負かされたけど、今日は負けないぞ! よく聞け! 吸血鬼。お前にだって、お父さんとお母さんは居るんだろ? その2人が居なくなったら、お前だって悲しい筈だ。だから──」
「私は産まれた時から、独りだ。親も、兄弟も、友人も、恋人も、居はしない」
そんな冷たい吸血鬼の言葉が、少女の拙いながらも温かな言葉を断ち切る。
「な、何だよ、それ……。どんな生き物にも、お父さんとお母さんが居るって、お姉ちゃんが言ってたぞ! 嘘つくな!」
「それは貴様たち、人の尺度であろう。永劫を生きる私に、親など居ない」
「そんな、ことって……」
少女はまた、言葉に詰まる。
噛み付いても、殴り掛かっても、蹴っても、叫んでも、この吸血鬼はびくともしなかった。なのにどうしてか、今はこの吸血鬼がとても弱々しく見えた。
だから少女は、思った。この吸血鬼は、昔の自分と同じだと。だって少女もまた、自分を産んでくれた両親を知らないから。
少女は幼い頃、優しい家族に拾われた。彼女たちは血の繋がっていない少女を、まるで自分の娘のように可愛がった。……その中でも特に姉は、少女にとってかけがえのない存在だった。
だから絶対に、この吸血鬼を赦すことはできない。
「…………」
けれど少女は、思ってしまう。自分も一歩間違えれば、この吸血鬼と同じように……ずっとずっと、1人だったのではないかと。
一度そう思ってしまうと、この吸血鬼が酷く哀れに思えた。
「……そんな目をしたって、許してやらないからな!」
少女は最後にそう叫び、逃げるように洞窟を後にする。……どうしてか、少女の胸はズキズキと痛み続けた。
「…………」
そして同じように、心がない筈の吸血鬼の胸もズキズキと痛んだ。
それが無敵に思える吸血鬼の唯一の弱点で、そしてそれが……本物の吸血鬼を人に戻す、唯一の方法だった。
◇
「……バカみたい」
ここまでの展開で結末が読めてしまったちとせは、一度本を閉じて、小さく息を吐いた。
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