離さないでください。



 目を覚ますと、温かな感触に包まれていた。


「…………」


 規則正しい寝息を立てた先輩が、俺の身体を抱きしめている。だから身体中に、柔らかな感触が押しつけられていてドキドキする。……いやでも、どちらかと言うと、緊張より安心感が優っている。


「先輩。凄く温かい……」


 優しく、先輩の頭を撫でる。すると先輩はくすぐったそうに、身体を丸める。


「……可愛いな」


 温かで、柔らかで、愛おしい。そんな、ただただ幸福な時間。ずっとこうしていたいと、強く思う。……でも残念ながら、今日はこれから学校だ。だから先輩より先に起きて、朝ごはんの用意をしておきたい。


「でもこれ、動けないよな」


 立ち上がろうにも、先輩の手と足が身体に絡みついていて、動くに動けない。だからとりあえず今の時間を確認しようと、少し頭を動かす。……時刻はまだ、朝の5時半。先輩を起こすには、だいぶ早い時間だ。


「……どうするかな」


 少し、頭を悩ませる。けど俺のそんな思考は、ふと響いた声に遮られる。


「おはよう、ございます」


「……起きてたんですか、先輩」


「はい。つい先ほど、目が覚めました」


 先輩は腕に力を込めて、俺の身体を引き寄せる。……だから顔中に、先輩の大きな胸が押しつけられる。


「ちょっ、先輩? 何で引っ張るんですか?」


「……だって貴方、もう起きるとか言いそうだったんですもん」


「確かにそのつもりでしたけど、ダメですか?」


「ダメです。だってまだ、時間はあるのでしょう? ならもう少し、貴方の温かさを感じていたいです」


「先輩って意外と、甘えん坊ですよね」


「貴方が私を、甘えん坊にしたんです。だからもっと、甘えさせてください」


 先輩は抱き枕を抱きしめるみたいに、俺のことを抱きしめる。……どうやら体調はだいぶ良くなったみたいなので、俺はひとまず安心する。


「分かりました。じゃああと30分だけ、こうしていましょうか」


「……ありがとう。貴方のそういう優しいところ、大好きです」


「そう言ってもらえると、俺も嬉しいです。……でも俺も、優しいだけじゃないですよ?」


 そう言って、先輩の背中を指でスッとなぞる。


「きゃっ! ……ふふっ、やりましたね? じゃあ私も、くすぐっちゃいます!」


「ちょっ! 変なところ触らないでください! くすぐたい、やめてくださいよ、先輩!」


「ふふっ。ここが弱いんですね? じゃあもっと、してあげます」


「先輩がその気なら、俺も手加減しませんよ?」


 朝から2人で、身体中をくすぐり合う。俺も先輩も昔では考えられないくらい笑って、気づけば30分なんてあっという間に過ぎ去っていた。


「……そろそろ起きましょうか? 先輩」


「そうですね。私もだいぶ体調が良くなったので、朝ごはんの準備をするなら、手伝いますよ?」


「なら朝は、2人でご馳走でも作りましょうか」


 どちらともなく顔を寄せ合って、キスをする。先輩は幸福を噛み締めるように、笑った。


「じゃあ、俺は先に行ってます。先輩は着替えてから、来てください」


「分かりました。貴方が選んでくれたパンツと同じ色のブラを付けたら、すぐに行きます」


「……ちゃんと服、着て来てくださいね?」


「ふふっ、分かってますよ」


 先輩の頭を優しく撫でてから、立ち上がって部屋を出る。昨日は胸が痛いくらい緊張していたのに、今日は不思議と落ち着いていた。


「こういうのを、幸福って言うんだろうな」


 自然と、笑みが溢れる。ずっと1人で凍えていた昔からすれば、今のこの時間は本当に夢のようだ。だから俺は、強く思う。このささやかな幸福を、ずっとずっと守っていこうと。




 ……でもそんな思いとは裏腹に、すぐに問題が起こる。




 リビングに踏み入ると、知らない女性が立っていた。



 いやきっと、向こうからすればこちらが知らない男なのだろう。……この女性は、紫浜先輩のお母さんだ。顔や雰囲気は先輩に全く似ていないけど、何となくそう思った。


 きっとそれは、彼女の纏う雰囲気が俺の母親によく似ていたからなのだろう。……家の中なのに、とてもピリピリしているところとか。


「すみません。俺、先輩……玲奈さんの──」


 だから俺は、とりあえず挨拶しようと口を開く。けどその女性は、たった一言で俺の言葉を断ち切った。


「別に、構わないわ」


「……え?」


「私はあの子のことで、何か言うつもりなんて無いの。だから別に、構わないわよ。貴方たちが、何をしていようと」


 女性はそれだけ言って、机に広げていたものをカバンの中にしまっていく。どうやらすぐに、出かけるみたいだ。


「そうですか。まあでも一応、自己紹介だけさせてもらいます。俺は玲奈さんの恋人の、未鏡 十夜と言います。彼女とはこれからずっと一緒に居るつもりなので、色々とよろしくお願いしますね? ……おかあさん」


「…………」


 その女性はピクリと眉を動かすが、別に何も言ったりしない。……でも俺は久しぶりに、心が冷たくなるのを感じた。それこそまるで魔法が解けたみたいに、俺は──。


「……帰っていらっしゃったのですか」


 そこで先輩が、姿を現す。先輩も俺と同じように、その女性見た瞬間、顔から色がぬける。


「そうよ。でも仕事で使うものを取りに来ただけだから、すぐに出かけるわ」


「そうですか。お気をつけて」


「貴女も、しっかり勉強するのよ」


 2人の言葉に、全く重みを感じない。2人とも嘘でも本心でもなく、ただ口を動かして音を発しているだけだ。だから2人の言葉に、想いなんてかけらも込もっていない。


 その関係性は、うちとよく似ていると思った。


「…………」


 その女性はそれ以上は何も言わず、黙って部屋から出て行く。


「…………」


「…………」


 俺も先輩も、その背中に声をかけたりしない。俺たちはただ同じような瞳で、その女性の後ろ姿を眺め続けた。


「……化け物同士、お似合いね」


 その女性は、最後にそんな言葉を溢した。別に心は、痛まなかった。……けど、あの一瞬で俺の正体を看破したその洞察力は、普通ではないと思った。


「先輩、大丈夫ですか?」


 でも俺はともかく、先輩が心配だった。だからそう声をかけて、先輩の身体を優しく抱きしめる。……さっきまであんなに温かかった先輩の身体は、氷のように冷たくなっていた。


「……すみません、母が、変なことを言って。あの人たちは元から冷たい人でしたけど、姉さんが……死んでから、変な研究に没頭して他のことが見えなくなっているんです」


「別に俺は、気にしませんよ。でも、俺より先輩は、大丈夫なんですか?」


「私も、大丈夫ですよ。貴方に抱きしめてもらえると、余計なことなんて、全部……忘れちゃうので」


 先輩は本当になんてことないように、にこりと笑ってみせる。


 ……普通の人間なら、親に化け物なんて言われたら、酷く傷ついてしまうのだろう。でも先輩に、傷ついた様子はない。


「…………」


 俺は先輩と触れ合うことで、温かさを取り戻すことができた。そして先輩も、俺と触れ合うことで温かさを取り戻したのだろう。……けど俺たちの心は、完全に人の心に戻った訳ではない。



 それを今、実感した。



 そして、きっといつかこの冷たさに飲み込まれて、先輩への愛も忘れてしまうのだろう。それだけは絶対に、嫌だと思った。だから俺は、心に決める。今よりずっとずっと頑張って、この幸福を守り続けようと。


「……そういえば、先輩の両親って何の研究をされてるんですか?」


 ふと気になって、そう尋ねる。


「…………」


 すると先輩は、何かを耐えるように腕に力を込める。そしてそのまま俺の胸に顔を埋めて、力なくその言葉を口にした。



「あの人たちは、死人を蘇らせる研究をしてるんです」



 その答えはあまりに予想外で、俺は何の言葉も返すことができなかった。


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