幸せでした。



 冷たい雨音が、ただ響く。



「姉さん! 姉さん……!」


 紫浜しのはま 玲奈れなは、喉が潰れるくらい強く叫び声を上げる。……しかしどれだけ強く叫んでも、目の前の悲惨な現実が変わることはない。


 自分のせいで、大好きな姉が車に轢かれてしまった。自分がちゃんと周りを見てなかったから、姉があんなに血を流している。赤い。赤い。赤い。赤い、血。止めないと。止めないと。たくさん血が、出てる。早く、止めないと。助けて、あげないと。姉さんが……。



 姉さんが、死んじゃう……!



「いやだよ! 姉さん……!」


 玲奈は張り裂けそうなくらい痛む胸を押さえながら、姉の元へと駆け寄る。


「……ああ、よかった……」


 しかしそんな玲奈の様子を見て、美咲は笑った。いつもと同じ無邪気な笑みで、心の底から安堵するように彼女は笑う。


「姉さん、ごめん! 私、私のせいで、姉さんが……!」


「…………いいの。玲奈ちゃんが……無事なら、それで……いいの……」


「よくないよ! 姉さんが死んだら、私……嫌だよ! 耐えられない!」


「大丈夫、だよ? ……私が、いなくなっても……きっとあの子が、玲奈ちゃんの側に……いてくれる」


 美咲の口から、血がこぼれる。玲奈はそんな姉の姿が何より辛くて、気づけば大粒の涙を溢していた。


「嫌だ! 私は姉さんじゃなきゃ、嫌なの……! だから……死んじゃダメだよ!」


「可愛いなぁ、玲奈ちゃんは……。でも、いいの。いいんだよ……? 私は、これで……いいの」


「よくない! ……よく、ないよ……」


 玲奈は我慢できなくて、その場に座り込む。胸が痛くて痛くて、仕方がなかった。このままもう2度と姉に会えないなんて、そんなの絶対に嫌だった。


「泣いちゃ、ダメ……。玲奈ちゃんには、これから……楽しいことが、いっぱい……あるの……」


「いらない! そんなのいらない! だから死んじゃやだよ! 姉さん!」


「いいの。いいんだよ……」


 美咲は、笑う。いつものように、ただ笑い続ける。どんなに辛くても、どんなに痛くても、玲奈の前で辛そうな顔はしたくなかった。だってそんなことをしてしまうと、きっと玲奈は余計に自分のことを責めてしまう。


「…………」


 だから美咲は、考える。精一杯の笑みを浮かべて、必死になって考える。どうすれば玲奈ちゃんは、笑ってくれるのだろうか? と。



 するとふと、あることに気がつく。



「……あ。もしかして、玲奈ちゃん……香水、つけてくれたの?」


 姉のその言葉を聞いて、玲奈は驚きに目を見開く。


「……どうして、分かるの?」


 玲奈は確かに、ついさっき香水をつけた。でももう雨に濡れてしまって、香水の香りなんかとっくに消えているはずだ。なのに美咲には、それが分かった。



 だって、彼女は……。




「ふふっ。私には、分かるんだ。だって……私、お姉ちゃん……だから」




 美咲はそこでまた、得意げな笑みを浮かべてみせる。……美咲はずっとずっと、そうやって笑い続ける実験をしてきた。嘘の笑みでも、浮かべ続ければ本当になるんじゃないかって。


 でもそれは、間違いだった。どれだけ偽物の笑みを浮かべても、温かさを感じることなんて一度もなかった。それに何百、何千と浮かべた偽物より、玲奈の前で浮かべたたった一回の本物の方が、ずっとずっと価値あるものだった。


 ……でも、今までそうやって笑い続けてきたから、きっと今、こうして笑うことができる。痛くて、辛くて、意識が朦朧とする。そんな中でも、美咲は笑っていられる。



 最後の最後に、大切な人に笑顔を届けられる。



 だから美咲は、笑った。それは無理して浮かべる偽物だったけど、でもだからこそ何より価値あるものだった。


「……香水、つけたんだ。姉さんに、褒めて欲しくて。髪も……もう濡れちゃったけど、姉さんを真似てみたの……。そうしたら本物の家族みたいだねって、姉さん……褒めてくれるかなって……!」


 けれど玲奈は、笑えない。悲しくて悲しくて、どうしようもなく悲しくて、流れ出る涙を止めることができない。


「そっか。……かわいい、凄くよく……似合ってるよ? 流石は私の……妹だ……」


 美咲の視界が、霞む。血が流れすぎて、流石の美咲も意識を保てなくなってきた。だから徐々に、美咲の顔から生気が抜けていく。


「いやだ! いやだよ! 姉さん、死んじゃやだ……!」


 玲奈は涙で声を震わせながら、美咲の手を強く強く握りしめる。……けどその手は、凍えるくらい冷たくて……。



 ああ、だからどうしても、涙は止まらない。



「玲奈、ちゃん。手を……かして? 最後に……お姉ちゃんが、魔法を……かけて、あげる」


 美咲はゆっくりと、玲奈の手を自分の方へと引き寄せる。だから玲奈は涙を流しながら、優しく美咲の頬に触れる。



 美咲の頬は、とてもとても冷たかった。



 辺りが徐々に、騒がしくなる。騒ぎを聞きつけた野次馬が集まり、遠くから救急車のサイレンが響く。けれど2人はお互いのこと以外なにも見えず、静かに最後の言葉を交わす。


「玲奈、ちゃん」


「……なに? 姉さん」


「玲奈ちゃんは……ね、大丈夫。きっと、私みたいには……ならない。だから……愛してるよ」


「私……も、私も姉さんを愛してる! 世界で1番姉さんだけを愛してる……!」


「ふふっ。ありが、とう」


 美咲はそこで最後の力を振り絞り、玲奈の指に噛み付いた。そしてそのまま、玲奈の血を吸う。それで玲奈が人間に戻れるかは、分からない。……でもどうせ死ぬなら、それくらいのことはしてあげたかった。




 そしてそれが、美咲から玲奈への最後の贈り物となった。








「……パーティー、楽しかった。ありが、とう」




 美咲の身体から、力が抜ける。まるで死んでしまったみたいに、彼女はその場に倒れ伏す。


「……姉さん? 姉さん! まって、ダメ! いやだ! いやだよ! 姉さん! 姉さん……!」


 玲奈は叫びを上げて、美咲の身体に縋りつく。けれどその身体はどこまでいっても冷たいだけで、人の温もりなんてどこにもなかった。



 ……いや、違う。



 美咲は笑みを、浮かべていた。最後の最後まで、美咲は笑みを浮かべ続けた。それこそが、彼女が誰より温かな心を持っていた証だった。



 そうして美咲は、この世を去った。



 冷たい雨が、降り続ける。そんな、静かな夜。雨音と少女の叫びに見送られ、美咲の命が消えた。しかしそれでも、彼女は確かに幸せだった。


 けれどその想いは、当時の玲奈には届かない。だから玲奈は、ずっとずっと嘆き続けた。



 ……1人の少年と、出会うまで。


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