薔薇の花

碧海雨優(あおみふらう)

第1話 彼と私

 風がそよぎ、私が揺れる。ただ、主人の帰りを待って、私は遠くを見つめ続ける。私は何者なんだろうか。私はきっと、彼の薔薇なのだ。



「ただいま」

 とても朗らかで優しい声が響く。その夫はリクという。私の主人だ。おかえりなさい、と静かに言うと、彼はこっちを見てくれた。

「ただいま」

 もう一度繰り返してくれる彼に、私は有頂天になって、もう一度、おかえりなさい、と繰り返した。

「お帰り! お父さん!」

 子供たちがはしゃいで彼に突撃する。

「おいおい、それじゃあお父さんがつぶれちゃうよ」

 そう言いながらも彼は幸せそうに皺をよせていた。

「今日ね! エリクが僕のボールを取っちゃったんだ。だけど、僕、お兄ちゃんだから怒らなかったよ!」

「おお! 偉いなお兄ちゃん!」

 彼は息子の頭を撫で回す。彼はえへへ、と笑っていた。まだ子供なんだな、となぜか安心してしまう。子どもは成長がゆっくりな方がいい。その方が沢山一緒にいられるのだから。

「パパ!」

 その声でリクはばっと振り返る。

「リリィ!」

 彼は飛びついてくる娘を受け止め、キスを落とす。

「パパ、今日ね、デビットが私のおもちゃを取ったのよ? 叱って!」

「おい、内緒にしろって言ったじゃないか」

 そう言う息子に彼は厳しい顔を向け、じっと見つめる。

「デビット?」

 一文字ずつ区切るように言われると、彼は涙目になってリリィに言う。

「ごめんなさい……」

 彼女は父に促され、いいよ、と小さく返事をした。そして、父へ抱き着く。

 理想の家族ともいえる彼らがとても誇らしく、とても癒された。


「お父さん、今日も庭の手入れしてきたの?」

 妻のリエが言うと、彼はバツが悪そうに頷く。

「彼女たちを見ていると、とても癒されるんだよ」

「まあ、唯一の趣味みたいなものだし、別にいいけど……」

 でも、三人を良く構ってやって頂戴ね、と言って彼女は物静かに笑った。それを、私は本の隙間で見ていた。



「今日もいい子たちだね」

 そう言って花に水を上げる彼はとても澄んでいて、見ていて気分が良かった。一つ一つの花を愛でるその目は、私たちにとってとてもかけがえのないもので、いつもそれを待っていた。ある日、私は彼に選ばれた。とても唐突に。バチンと言う音が聞こえて、私は切り取られた。そして、完全に彼のものとなった。そのことに後悔は無いし、彼が幸せそうにしてくれるなら何でもしようと思っていた私は、彼の言葉に従い、押し花として本の間に差し込まれた。

「あなた?」

 奥さんのリエさんが呼ぶ声。彼は慌てた様子で私を本にしまう。その時以外は庭に出て、私を眺めてくれていた。

「なんだい?」

 一瞬でいつもの笑顔になった彼を見て、私は少しだけ笑った。

「デビットがまたリリィを泣かせているのよ」

「たまには君が叱ってみたらどうだい?」

 思わず出てしまっただろう本音を言ってしまったのか、彼らの元に沈黙が訪れる。

「とにかく、来てくれないかしら?」

 そう沈黙を削った彼女に従い、彼は立ち上がる。私はまた置いてけぼりをくらってしまい、彼女を睨みたくなってしまう。

私の方が綺麗で、あなたを困らせることなんてしないのに、と思うだけで、実際には言えないのだった。

 彼がデビットを叱る声が聞こえて、デビットの泣き声が響いてきた。庭でその成長のために必要な涙を想像し、大変だな、と他人事のように思っていた。


 どうして彼は私を見なくなってしまったのだろう、と考え、仕事が忙しいからだと何とか自分を納得させる。彼はきっと仕事を頑張りすぎて、私はともかく、デビットやリリィ、エリクを忘れているのだと、そう思った。そう願った。彼が帰ってこない、なんてありえないことだった。子どもたちの泣き声はひっきりなしに聞こえるようになり、ついにはリエの泣きそうな大声が聞こえるようになった。彼はまだ帰ってこない。仕事場はとても遠いのだろう。彼女らの、そして私の声が聞こえないほど遠くに彼はいっているのだろう、と、そう思った。


 彼が帰ってきた時、私は今までにないほど大はしゃぎで彼を迎えた。だが、彼は私に見向きもせずに、子どもたちの方へ向かった。

「すまなかった」

 その声が聞こえて、よかったね、と彼の息子たちの気持ちを想うと、私まで嬉しい気がしてきた。

「なんで」

 響く声は空中で消えた。

「仕事だよ」

「うそ」

 その先はとても聞けたものじゃなかった。彼女は今までの彼女の面影はなく、とても感情的に叫び散らしていた。彼だけではなく私もびっくりするほどに彼女が感情を抱えていたことを知り、彼は彼女を抱きしめた。

「すまなかった。本当に仕事だったんだよ」

 そう言うと、彼女は少し顔を顰め、それでも、おかえりなさい、と何とか言葉を出していた。

 私はというと、本の隙間で彼を待つ以外なかった。

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