仮想通貨シャーク

辻千峰つじちほ 2025年4月29日23時15分】


さっきまで千峰の体内にあった血でできた、新鮮な血だまりの中に、仮想通貨用のPCがポチャンと落ちてしまった。


仮想通貨マイニング装置は基盤がむき出しなので、液体に触れると簡単にショートしてしまう。


もうそのPCは仮想通貨を生み出さない。


サメに噛みつかれ大量出血しながら辻千峰は「もったいないなぁ」と悔しがっていた。


彼女にとって、自身の血で仮想通貨を失うことは、とても残念なことなのだ。


数時間逃げまわった挙句にサメに喰い殺されていることよりも、ずっと。




井上梓いのうえあずさ 2025年4月30日8時34分】


梓は、ヘリコプターから降りて、仮想通貨船の甲板を歩き始めた。

海面が朝日を反射して、青ざめた顔を照らした。


今この瞬間もサメが船の中で暴れていることを、梓は監視カメラ映像で把握している。


人食いサメがいるとわかっていながら船の中に入るなんて、愚かだ。恐らく船の施設内に足を踏みいれて十数分もしない内に、人食いサメのエサになってしまうだろう。運動能力が高いわけでもない梓が、この船から生還できる確率は限りなくゼロに近い。


だが、行くしかないのだった。仮想通貨を諦めるには、人生を仮想通貨に賭けすぎている。


死へ向かって歩き始めた梓の脳裏には、千峰の笑顔が浮かんでいた。


【井上梓 2025年4月29日18時41分】


「新しい発想だね。海の上で仮想通貨のマイニングをするなんて」大手IT会社買収担当者の大谷おおたには、向上心が多すぎて溢れているようなガッツのある男だった。絶対に商談を成功させて新しいビジネスモデルを作るんだと鼻息を荒くしている。


「褒めて頂いて嬉しいです」井上梓は手ごたえを感じつつも、油断しないように用意しておいたセールストークを追加する。「親友の千峰と話したことがあったんです。仮想通貨のマイニングするとグラボを冷やさなきゃいけない。だったら冷却水取り放題の海でやりゃいいじゃんって。そのまま2人でスタートさせたのがこの企業です」


女性2人だけで設立したベンチャーであるというポリコレアピールも忘れない梓が座っているのは、大谷が予約してくれた料亭の個室だ。


梓と千峰の二人で作ったベンチャーが今日、世界的IT会社に将来性を認められて買われようとしている。


成功すれば、つまり大谷が「あなたのビジネスには将来性があります。買いましょう」とだけ言ってくれれば、一生遊べる金が手に入る。人生最大の勝負が始まっていた。


ベンチャー起業という名の大博打の始まりは、大学時代にまでさかのぼる。


「ねぇ梓、今、思いついたんだけどさぁ、PCを大量に積んだ船で仮想通貨マイニングしたら金持ちになれるんじゃない」千峰は授業中なのにS大学の食堂にいた。


C言語プログラミングにおける数学的基礎理論を学ぶよりも金を稼ぎたいよね?という即物的欲求で、授業をサボっていたのだ。


千峰に引きずられるようにしてサボる羽目になってしまった梓は「確かに天才だねー。ベンチャー企業立ちあげたらいいんじゃない?」とその場のノリで適当にいった。


そのときはまさか、数か月後に本当に千峰がベンチャーを立ち上げるとは思わなかった。


そのベンチャーが成功するのも予想外だったし、幹部に抜擢されるのは梓自身も予想外だった。


人生何がおこるかわからない。


そして今、料亭で大谷が、マイニング船の実績データを確認している。


大谷が船を買うまででいい。どうか壊れずにマイニングを続けて…。


梓は神に、そして今も仮想通貨船を管理してくれている千峰に、祈った。


【辻千峰 2025年4月29日18時41分】


辻千峰が仮想通貨マイニング事業をしていて気分が沈むのは、今みたいに、部下が管理室をノックして、報告に来たときだ。


なぜなら、仮想通貨マイニングというのは結局のところPCが数学パズルを解きその答えを羅列して仮想通貨を形作るという機械作業であり、順調に行っている限り人間が何かをする余地などないからだ。


部下が千峰の所に来たということは、悪いことが起こった時しかない。


うんざりしながらドアを開け「何かトラブルがあったの?計算アルゴリズムでベンチマークエラーが出て演算が始まらないとか?それとも配線のショート?」ときいた。


今年の春から入社した新人の寿帆ことほは、少しおどおどしながら「冷却水タンクでエラーメッセージが出たんですが」と答えた。


今まで一度もタンクの故障はなかったのに。


千峰は驚きながら、寿帆と一緒に、階段をダッシュで駆け上がり始めた。


ダルいことに、冷却水タンクは最上階の5階にある。急がないと手遅れだ。


点検のたびに階段を登りながら「タンクを下に作るか、せめてエレベーターを設置しろよ」と何度も思ったことがある。だが、現実は甘くない。


冷却水タンクの周囲にはPCがぎっちり詰め込まれていて、エレベーターを作るスペースは無いのだ。


そもそも、仮想通貨マイニング船は常に海から水を汲み上げ、PCを冷却した後に海に捨て続け、タンクを酷使し続けている。というかそれこそが、船でマイニングしているメリットだ。


船全体に水を落とすために最上階に冷却水タンクを置きたい、でもタンクのためだけの部屋は作りたくない。


あまりにも梓らしい、どん欲な要望の果てに、最上階でタンクの周囲にPCが並ぶというシュールな絵面えづらになってしまった。


つまり仮想通貨船は設計段階から無理をしている。エレベーターを作る余裕などない。


無理やり作られた船の中を埋め尽くすマイニング計算装置は、マイニングリグとよばれる骨格にグラボが何個も詰め込まれた箱のようになっていて、配線などがむき出しになっている。


配線には発光ダイオードがついておりチカチカ点滅して通電を知らせている。


その結果、暗い部屋の中央にある球形のタンクの周囲を夜の街に見立ててイルミネーションで飾ったかのような、現代アートチックな空間ができあがっていた。


そんな光が散らばった薄暗い部屋に、5階も階段を上りゼェゼェ言いながら、千峰と寿帆は駆け込んだ。


一番乗りかと思っていたが先客がいた。しかも千峰の知らない社員3人。


一番背が高く、ずる賢そうな男は千峰に目をやると「副社長。タンクに原因不明で深刻な故障が発生しているようです。マズいんじゃないですか」とまくしたててきた。今回のトラブルの責任を千峰になすりつけて自分の出世に使おうという汚い魂胆を隠そうともしない。


一方で小太りの男は「わたくしは、辻さんと問題解決していくつもりですよー!」と、千峰に媚を売り取り入る気満々だ。


そんな2人の醜悪な態度に、3人目の社員、初老のベテラン技術者の男は呆れている。「自分がどういう立ち位置かというより、タンクトラブル対応の意見を言えよ。ワシの考えでは…」と言い、続けてタンク故障の解決策を提案しようとしたようだったが、言えなかった。


タンクが破裂し、中から水と黒い塊が、飛び出してきたからだ。千峰も寿帆も3人の社員も、全員タンクの傍にいたので誰にあたってもおかしくなかったが、死神が標的にしたのは初老の男だったらしい。


目にもとまらぬ速さで飛び出した水と黒く細長い物体は、水圧で加速され、初老の男の顔に直撃してしまった。


ごきっという、湿り気のある物が折れたような音とともに、ベテラン技術者は首を傾げたような恰好のまま床に叩きつけられ、動かなくなった。


容赦なく老人の首の骨を折った黒くテカテカした物体、それはサメだった。恐らく冷却水汲み上げポンプによって海から吸われて船のタンクまで来てしまったのだろう。


人が1人死んでしまったが、仮想通貨マイニング冷却装置の不具合の理由が判明したのは良かった。千峰は、損得勘定をしてホッと胸をなでおろしたが、安心は長くは続かない。


恐ろしいことに、割れたタンクから水が溢れ出し続けている。


どうやらサメを吸い込んでしまった時、吸水システムは壊れず水量調節機構が壊れてしまったようだ。こうなるとどこまでいっても水は止まらない。ブレーキを失ったポンプは水を汲み続けしまい、タンクから吹き出し、5階の床に溜まり始めた。


まさに水を得た魚。さっきまでピチピチ跳ねていたサメが、水位が上がるにつれてスムーズに動けるようになってきた。あと数センチ水位が上がれば、自由に泳ぎ回りだすだろう。


千峰の背筋を冷たいものが、かけ上がった。


――この場に突っ立っていたら、数分後にはサメのエサだ。


全員がそのことに気づき、走り出した。


長身のずる賢い男は、PC棚の上によじ登った。

小太りのゴマすり男は、素直に、タンク部屋の出口へ駆け出した。

そして、千峰と寿帆は部屋の奥へ向かって逃げた。


どこに逃げるか。その判断が、明暗を分けた。


まずサメはPC棚に体当たりして、巨大なテクノロジーが詰まった箱を押し倒した。上によじ登っていた長身の男は落下し、絶叫しながら喰い殺されていった。


その悲鳴と、彼の体が牙でグチャグチャにされる音を背後から聞いて、小太りの男は泣いた。恐怖のあまり号泣しながらも、なんとかタンク部屋の出口にたどり着いた。しかし、出ることはできなかった。


「へ?なんでぇなんでなんで」

パニックになりながらドアノブを回し続ける男の背後に、ゆっくりとサメが近づいていく。


千峰はわかっていた。

梓が船員を信用しておらず、船のドアなどの主要な装置を梓が外部から遠隔操作できるようにしていることを。

そして浸水した状態で最上階のドアを開けられると水が漏れだし、重力によって下の階へ落ち、船全体を濡らしてしまうことにも。


つまり船員がサメから逃げようとドアを開ければ、部屋からあふれ出した水によって船全体の仮想通貨マイニング装置が壊れてしまう。なので、この状況ではドアを遠隔ロックし中の人間には死んでもらうのが合理的だ。


一緒に仮想通貨事業を大きくしてきた戦友だからこそ、千峰はドアが開かないことを確信できた。それだけじゃない。千峰は、梓にドアを開けさせる方法にも気づいていた。


千峰はロックがかかったドアの前で男が喰われている間に、迷わず、エラー通知システム管理室へ向かった。


その後ろを金魚の糞のように寿帆がついてきて「辻さん!この後どうするのですか」ときいてきた。


千峰は「こうするのよ」と言いながら振り返り、隠し持っていたハンマーで寿帆の頭を強打した。


普段の会社業務でも、サメが襲ってきてからも、思考停止で千峰について行くことしかできなかった寿帆。

彼女は、千峰からの一撃であの世へ送られていった。


恨みがあったわけじゃない。だが今から梓と交渉する間にサメに喰われる時間稼ぎ要員が必要なのだ。


ゴメンね寿帆さん。

心の中で軽く謝りながら、千峰は梓に電話をかけ始めた。


【井上梓 2025年4月29日19時2分】


千峰からの着信があったのは、大谷との商談が大詰めになってきたタイミングだった。


今いいところだったのに。


舌打ちしたい気持ちをなんとか抑え「大谷さん、ちょっと席外してよろしいでしょうか」と声をかけて、ペコペコしながら料亭の個室の外へ出た。


通話ボタンを押すと挨拶もなしに「梓。あなたが3階のドアを開けないと仮想通貨事業が失敗するような仕掛けを施したの。ドアを開けて一部の仮想通貨マイニングマシンを壊さないと、それ以上の損があなたのもとにいくけど、いいの?」と千峰の声が早口で告げてきた。


さすが千峰だ、梓を理解している。

サメに襲われている最中さなかだと言うのに、ドアを開けない事への非難や「助けて」といった懇願もない。人命よりも仮想通貨が大切であるという前提を踏まえて、情を排した取引をしている。

素晴らしい。

ただ残念なのはそれがハッタリにすぎない点だ。


梓は「あなたが閉じ込められているエリアには、仮想通貨マイニングアルゴリズムを変更できても、中身をいじるデバイスはない。つまりあなたは船全体の演算装置を壊すことはできないでしょ」と指摘した。


そして「親友の死には心が痛むけど、仮想通貨に人生をかけてきたのだから後には退けないの。ごめんね」と謝罪して、通話を切り、大谷との商談に戻ったのだった。


電話を切った直後は罪悪感を感じていたが、商談に戻ると、頭の片隅に追いやられた。大金を取引することによる興奮は、精神活動の全てを塗りつぶしていく。


最終的には、今この瞬間に、千峰がサメに喰い殺されているだろうことなど気にならなくなっていた。


それが、敗因だった。結果的には、井上梓の人生最大の判断ミスと言えるだろう。


千峰の言葉をウソだと決めつけて、仮想通貨マイニング装置の異変に気付くのが遅れたのだ。大谷との商談が終わりもう一度スマホで施設の各種稼働指標を見て、やっと、千峰の脅しが真実だったと知った。


確かに、梓の指摘は間違っていなかった。千峰は仮想通貨マイニング全般の設定を変更できても、壊すことはできない。だが、エラー表示設定は変更できる。


千峰は仮想通貨ごとに決まっているアルゴリズムをわざと不適切な方に設定することで、オーバークロックというエラーを起こし、それを表示させないようにしていた。つまり仮想通貨用の計算を空回りさせたのだ。


今や、仮想通貨船は富を生むマシンではない。電気を食いつぶしながら一円の仮想通貨も生み出さないクソな物体になってしまった。今この瞬間も、毎秒毎秒赤字を積み上げている。千峰が死んだ今となっては、これを止めるには梓自身が船に乗り込むしかない。人食いサメに襲われるとわかっていても。


仮想通貨船へ飛ぶヘリコプターをチャーターしながら、梓は感心していた。


本当に、お見事だ。

梓が命惜しさに仮想通貨を捨てることなどありえないと見切ることで、千峰は、梓をあの世へ道連れにすることに成功したのだから。


仮想通貨は命より重いという

それを知っているから千峰は梓の最高の理解者であり、梓は千峰のことが大好きなのだった。

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