夕喰に昏い百合を添えて(ダーク百合短編集)

広河長綺

信号無視の蒸し焼き

――あー、だれか信号無視してくれないかな

――こっちは急いでるんだよ。誰か早く行けよ

周囲から「心の声」を感じて、私は身を縮こまらせた。


ここは、交通量の少ない道路の歩行者信号機。

駅に近いこともあって、サラリーマンがせかせかと行きかう。

そんな急ぐ人たちにとって、車もないのに人の足を止めるこの歩行者信号機は、イライラするものらしい。


だから当然無視するひとも大勢出る。問題なのは、誰が始めに信号無視をするかだ。

誰かが信号を無視してくれたら、自分も信号無視しやすくなる。

「誰か信号無視して、横断歩道わたってくれ」という空気が充満する。

そのプレッシャーに耐えかねて、私は渋々足を踏み出した。


斉田理世すみだりよさん、だよね?」


俯いて横断歩道に右足を置いたので、声をかけられるまで右隣に人がいることに気づかなかった。それに、そいつは、私の名前を呼んだ。

「え?あ…」

戸惑いながら顔を右に向けると、快活な印象のポニーテールの女の子がいた。


年齢こそ私と同じ高校生といった見た目だが、シャキッとした雰囲気が私とは大違いで、運動部に所属して青春を謳歌してそうに見える。そんな陽キャが私になんの用だろう。そもそもなんで私の名前を知っている?


茫然としている私をいたわるように、その女の子は声をかけてきた。

「理世さん、信号無視はしたくもないのにするもんじゃないよ」

「え?」

「布よ広がれ!」

その陽キャの女子高生が意味不明な言葉を唱えたとたん、周囲が静かになった。

さっきまで聞こえていた心の声がとまり、普通の音だけになった。


「何を、した、の?」

私は衝撃のあまり、息も絶え絶えに質問することしかできない。


「理世さん、周囲の人の心を読んで苦しくなってたでしょ?」

友達と話すフランクな口調で、その女子高生は心配そうに訊いてくる。

「…だから空気を読めなくしたんだ」

「よくわからないけど」私はとりあえず頭を下げた。「とにかく、ありがとう」

「ねぇ、理世さんって、今ヒマ?」

「うん、まぁ」

「じゃあさ」陽キャ女子高生はいきなり、私の手をとった。「こっち来なよ。あっちのファミレスでちょっとおしゃべりしよう」


学校近くのファミレスに来た。

席につくやいなや、女子高生は慶乃よしのと名乗り「私は理世のクラスメートで、理世と同じ能力持ってるんだよ」と教えてくれた。

「ゴメン、私クラスメートの名前覚えてなくて」

「能力のせいで、友達がうまくできないんだよね。わかるよ私もそうだったから」

「へー、慶乃さんって、私と同じ能力持ってたんだね」

「うん、昔の私はさっきの理世と同じで、周囲の空気読みすぎてたから」

「そうなの!クラスメートと話してても、心の声がプレッシャーになって上手く話せなくて」

教室に話し相手がいなくて、放課後になったらそそくさと教室を出て、家で映画をみて気を紛らわせる日々。

説明することで、苦々しい学生生活が頭に蘇る。


慶乃さんは、うんうんと頷いた。「あー、わかるわかる。私も昔は、ボッチだったし」

慶乃さんがぼっち!想像もできない。

「慶乃さんは、どうやって克服したの?」

「信号無視をしたんだ」

「え、信号無視?」

「信号というのは、歩行者信号のことじゃないよ」小さい子に教える母親のように、慶乃さんは言った。「周囲の人間の感情という信号のこと」

「どうやるの?」

「周囲の人の頭に、大きい布を被せるイメージをするんだ。そうしたら何も聞こえてこなくなる」

「さっきやってたやつ?」

「そう。やってみたら?」

「うーーんと、布よっ。広がれー」

「ふふっ」私の必死な声に、慶乃さんは微笑んだ。「まだだね。明日も教えてあげよっか。」

「へ。いいの?」


こうして、放課後特訓の日々が始まった。


学校が終わったら、近くのファミレスで待ち合わせる。

2人でテーブル席に座ったら、後はひたすら「布」を練習だ。

「布よ広がれー」と言ってイメージし、慶乃さんが「もっと感情をこめて」と指導する。


しかし、慶乃さんが首をひねるほどに私の「布」の習得は遅かった。

でもそれ自体は嫌じゃなかった。「布」の技術の習得よりも、慶乃さんと一緒に過ごすことが楽しかったから。

慶乃さんは、明るくて冗談がうまくて話していても飽きない。

何回か特訓が終わった後に、一緒に雑貨屋さんに行って買い物したりもした。

高校で初めてできた友達とのおしゃべりは、1日中やりたいと思えるほど楽しい。

むしろ「布」を習得できてしまうと、放課後特訓がなくなってしまうのではないかと不安だった。

だから、正直「布」をなかなか習得できないことに安堵すらしていた。


しかし、残念なことに、「布」はいきなり出現した。


「嘘でしょ…」

特訓が始まって2週間ほどたったある日の朝のことだった。

目が覚めると周囲が暗かった。

まだ夜なのかと思った程だ。

実際は「布」が周囲のすべてを覆っていたのだった。

確かに「布」によって周囲の心の声は完全に消えた。しかし視界まで障害されるとは知らなかったので、驚いた。


さらに困ったのは映画鑑賞だ。前まで感動できた映画も、この布があるとなぜか楽しめない。

どうやら私は、今まで映画を見る時に、無意識で超能力を使っていたらしかった。このままでは困る。

私はその日の昼休みに、慶乃さんに会いに行くことにした。不快感が強すぎて、放課後まで待てない。


陽キャの友達グループの中で笑っていて話しかけづらい中、頑張って「布の消し方教えてくれませんか」と慶乃さんに声をかけた。

緊張で、顔がほてる。

しかし慶乃さんは、返事をせず、一言も発せず私の言葉を完全に無視したのだった。

聞こえなかったのかと思い、「あの」ともう一回声をかけてみる。それでも、慶乃さんは何も言わない。

意味が分からない。

慶乃さんの周囲にいたクラスメートたちも、異様な雰囲気にアタフタする始末だった。

どうしたらいいのかわからずに、私はその場から走って逃げだした。


そして放課後。

「ねぇ」私は下校する慶乃さんの後ろから、声をかけ続けていた。「この布外せなくなちゃってて。なんか、曇った眼鏡かけてるみたいな感じで気持ち悪いの。ねぇ、どうして無視するの?逃げるの?」

それでも、返事はない。

慶乃さんの理不尽な態度は、放課後になってもなお続いていた。

私がどれだけ話しかけても全て無視して、スタスタと歩く。

慶乃さんの理不尽な態度に対する戸惑いが悲しみに変わり、悲しみがだんだんと怒りに変わっていた。


慶乃さんにとって、私は友達ではなかったのだろうか。

放課後の暇つぶしの存在だったのだろうか。

親友だと思っていた私にとっては、裏切り以外の何ものでもない。


私が怒りながら話しかけ慶乃さんが無視する。

その不毛なやりとりをしばらく続けた結果、気が付くと初めて会った横断歩道の所まできていた。ちょうど赤信号で、慶乃さんの足が止まる。

「ねぇ」私は少し荒々しく、慶乃さんの肩を掴んだ。「さすがに、ここの横断歩道は覚えてるよね」

しかしその瞬間、慶乃さんは横断歩道に向かって走り出した。

大型トラックが走ってきているのに。



慶乃さんの体がくしゃくしゃになったのは、一瞬だった。



あまりにも意味がわからなくて、「何で。私は何も・・・」と、慶乃さんの死体に質問した。

当然、答えは返ってこなかった。



遠くからサイレンの音を聞いた気がした。




後のニュースで、慶乃さんは先天的に聴覚と視覚が弱かったことを知った。

今まで普通に生活できていたのは、超能力で心の声を聴いて視覚と聴覚を補っていたからだ。

しかし、私が突如出現させた制御不能の「布」で、慶乃さんが頼っていた感覚が遮断されてしまった。だから、私の声を無視したし、車が来ているのに横断歩道を渡ったりしたのだ。


つまり私が勘違いで怒り、殺したのだ。それだけが事実だった。


その結果、完全に自業自得だが、「布」の消し方はわからないままになっている。

私の周囲を覆う布は、日々濃く暗くなっていく。

「布」によって周囲のあらゆる情報は遮断され、薄暗い霧の中で生活しているような感覚だった。5メートル先の景色すら、黒く濁りはっきりとは見えない。


学校が終わった後、慶乃さんと出会った横断歩道にきた。

今や、心の声だけではない。黒い「布」に覆われて、視覚や聴覚あらゆる感覚のも私の中に入ってこない。

歩行者信号が青なのか赤なのか。

車は通っているのか。

周囲に他の歩行者はいるのか。

周囲の人は何を思っているのか。

あらゆるを、「布」がブロックしている。


ただ一つ確かなのは、このまま車にはねられても、はねられる直前まで何もわからないということだ。それは自殺するうえで、好都合といえるだろう。


私はすべての信号を無視して、横断歩道を渡り始めた。

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