神意:クトゥルー神話詩集【2021.3.15 ラヴクラフト命日企画】

アーカムのローマ人

神意

その日は早めにアヌビスを散歩させようと思い立ち、

冷風を頬に受け、金星を戴く三月の道を歩いていた。

ジェーン・ブラウン記念病院の前を通りがかると、

すらりと背の高い人影に愛犬が吠えかかり、

ばつの悪い状況に、私は慌ててハーネスを引き戻した。


夜空よりもなお暗く輝く目をくっきりと縁取り、

虹色の衣の裾と金のサンダルを朝露に濡らし、

褐色の若い顔が三日月のごと微笑んだ。

そして我々は短い話をした、

その間に明るみ始めた空の下で。


「どうか余所者の姿を奇異に思われますな、

 ここで、ある人を長く待っているのです

 彼と共に行かねばならないのです」


「それにしてもお早いですね、寒さも厳しいでしょうに

 そのお方とは、時間を取り決めてはいらっしゃらないのですか?

 どこか寒風を避けられる場所をご案内しましょうか」


「ご親切に、しかし時間は彼も知らないのです、だから私が待つのです

 寒さは私には苦になりません、かの冷たき地と比べれば」


「もしこれが不躾な問いでなければですが、

 お二人で何処にいらっしゃるのですか?」


「あの人は何処にでも行けるのです、私が連れてくのだから」


千の嘆きに、また千の笑みに満ちた月の顔に

私はステュクス河の流れを聞き

異星の土に開く花の香りを嗅いだ。


「情け深き八月が育んだ子を、

 酷薄な三月に私は奪い去る。

 悲哀と苦痛は不可視の翼に振り切られ、

 あの人を地に繋ぎ止めることはない」 


「私は我が作り手を連れて行こう、

 彼も知らない父と母の元へ。

 港町の沖の深みにあるものを見せ、

 環状列石でのサバトの歌を聞かせ、

 黒瑪瑙オニキスの城に迎え入れよう」


「世界を夢見る者が眠りの王座に就く時、

 宇宙は如何なる色にも似ぬ色に輝く。

 そして夢は夢を、幻は幻を呼び、

 精神と精神の間でこだまは響き続ける」


今やステュクスは千の声で泣き叫び、

塩水が死者達の骨から妖蛆を洗い流していた。


「さあ、振り返ることなく立ち去る時が訪れた。

 死霊の道行みちゆき垣間見かいまみるのは、賢者の振る舞いではなかろうよ」


私は見た、インクの滲みにも似た人形ひとがたが、

朝日を浴びた病院の影から立ち現れるのを。

金と黒瑪瑙の腕輪した手が、

男の形した影へと愛しげに差し伸べられるのを。

輪郭定かならぬ黒い影の中で、

並々ならぬ知性をたたえた二つの目のみが、

愛惜と安息と未知への畏怖に揺れ、

おぼろに光を放っているのを——


そして神霊ダイモーンは死霊と共に立ち去り、

私とアヌビスは此岸に残されたのだった。

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