悠久回想編
第1話 ナイアルラ
「すまない、ナイアルラ……遅くなった」
既に日が傾きかけた渚に、走ってきたのは人間族――巨人たちは小人族と読んでいたが――の族長ルフトだった。
数年前にこの巨人達の大陸に漂着してから、人間達の長になっている青年だった。
「ルフト、待っていたわ。首が長くなり過ぎて向こう岸に着くくらいにね」
そう言って見せたのは巨人族族長の娘であるナイアルラだった。巨人たちの中ではまだ成人したばかりであるために身長は低いほうだ。それでもルフトの頭の先は、彼女の腰にようやく届くかどうかというところだった。
ルフトは族長として巨人達との交渉に訪れる機会が多く、ナイアルラとも話す機会が多かった。以前はどこか幼さを残した顔立ちであった彼は、見る間にたくましい青年男性となっていた。長命種族であるナイアルラにとってそれはあまりに眩しい変化であった。
異種族であるはずの彼に、ナイアルラが惹かれていったのも、そういう自分にはない部分を好ましく思ったからかもしれない。ルフトという男は、ナイアルラの目から見てさほど美丈夫という訳ではない。
そもそもが巨人族から見て彼ら小人族の区別はさほどつかない。集団としての彼らをなんとなく認識しているだけだ。身長からして彼らの四、五倍はあるのだから。
容姿でもって区別をつけるためには魔法で視野を拡大するか、あるいは顔を近づけるしかない。そんな面倒をいちいちするほど巨人たちは人間に関心をもたないか、あるいは毛嫌いするかだった。
「いえ、さほど待っていないわ。それに、ここから見る景色は好きなの。いくらでも見ていられるほどにね」
「いや、それでも君を待たせたのは事実だからね」
そう言って済まなさそうな顔で頭を下げる。困ったような笑顔を浮かべている彼に、ナイアルラはいたずらっぽい笑顔で応じる。
「じゃあ、今度会う時はもっと時間を増やして。今日みたいに、せわしないのは嫌だもの」
「努力はしてみるよ。だが、あまり期待しすぎないでくれ。最近、色々と面倒が増えていてね」
「例の巨人嫌いの連中のこと?」
「ああ、残念ながら。最近はそんな連中が幅を利かせるようになってきた。君たちはこんなに友好的なのに……おかげで、君と会うのも、こんな風にこそこそしなければならないなんて」
そう憤慨して見せるルフトに、ナイアルラは微笑みを返しながらも内心で苦笑していた。この人は純粋というか、人間も巨人も別け隔てなく善なる側面ばかりを見たがる癖がある。そういう所に私は惹かれているのだけれど、彼の立場からしてそれはとても危ないことではないかと思えてしまう。
世の中、彼のように善性ばかりを持っている人間、あるいは巨人ばかりではないのだ。浮世離れした夢想主義者が多い巨人たちの中でさえ、彼ら人間族――いや彼らの言い方であれば小人族――のことを毛嫌いする者は少なくない。
ナイアルラの父、族長が人間族に融和的なだけに、表立って反抗する者はいなかったが。人間を毛嫌いしているものたちも、矮小な小人族をいちいち踏み潰して回ることまでは主張していない。その気になればいつでも出来るから、人間と巨人が取り交わした盟約に違反でも無ければ巨人から人間の世界に干渉しようという動きはない。
今のところは、だが。
――害獣や虫が嫌いだからといって、いちいち手で潰して回るかね?小人族などその程度のものだ。
叔父がいつかそんなことを言っていたが、それが多くの巨人族の意識なのだろう。ナイアルラのように人間の個人を識別し、あまつさえ好ましく思っている者などかなりの少数派だ。
実際、一族の会合で交わされる会話の端々に、そうした巨人たちの空気は如実に表れていた。ナイアルラがルフトと個人的にこの岩だらけの入り江で、密かに会っているのにはそうした背景があった。
二人の交流は人間、巨人双方にとって公に出来るものではないのだ。秘密が漏れてしまえば、あれやこれやの政治的な面倒が発生することは容易に想像できた。
「時間をかけて付き合うほかないのよ、私たちは。そう簡単に偏見は消えたりしないから……」
ナイアルラの困ったような笑顔に、ルフトは何かを察したのか務めて話題を変える。
「そうだ、君が教えてくれた焔の魔法、いくらか上達したんだ。どうか、見てくれないか」
そう言って微笑んだルフトの横顔に、ナイアルラは思わず顔をほころばせる。
この人間族の青年は数多くの欠点を持っているけれど、それを補って余り有る魅力がある。巨人たちもルフトと親しくすればきっと考えを変えるに違いない。巨人たちがこの青年とじっくり話す機会があれば、だが。
「ええ、見せて頂戴。あなたの使う魔法には私も興味がある」
「始源の焔よ、杖となりて姿を現わせ」
ルフトがそんな呪文を唱えると、彼の目の前に彼の身長と同程度の焔の杖が現れる。
「まだこんなものだけどね。君たち巨人の使う大魔法と比べるべくもない」
そう言って謙遜しつつも、やり遂げた顔をしているのが微笑ましく思えた。
彼の言う通り、人間である彼の魔法はあまりに規模が小さいものだった。巨人族の使う魔法は簡単に川の流れを変え、山を切り裂く威力を持つ。また呪文の詠唱などという補助手段は、巨人族では魔法を習いたての子どもが用いるものだ。
人間たちが魔法の行使対象を明確化するのが不得手らしいことは、彼女がルフトに魔法を教えていく時に気づいた事だった。頭の中で思い描くだけでは足りず、呪文という補助手段で補ってやらなければ魔法の発動すら覚束ない。
「いえ、人間族の貴方がここまで魔法を使えることは、素晴らしいことよ。巨人族は生まれつき魔力容量に恵まれ、魔法の扱いについても長年の蓄積がある。それを短期間で覆すのは難しいだけ」
「そうはいってもね……やはり、ぼくたちが侮られるのは魔法が不得手なせいだからね。少しでも魔法を使いこなして、彼らを驚かせたいんだ。もちろん、この大陸に着くまで魔法というものに触れたことのない僕ら人間族には難しいことは分かっているんだが」
「焦ってはだめよ。ゆっくりと上達していけばいい。私たちだって魔法の習得には何十年もかけるのだもの」
「さすがに何十年もかけては、僕の寿命が尽きてしまうな……」
「ごめんなさい。そうだった」
巨人である自分と彼では時間の感覚が違うことを忘れていたナイアルラは、思わず顔を伏せる。
「いや、気にする必要は無いよ。言わんとすることは分かるからね。寿命が尽きない程度に気長にやることにするよ」
そう言って微笑んで見せるルフトの顔を見て、ナイアルラは私がただの人間族の娘だったらどうだったろうかと夢想した。彼と同じ目線で物を見て笑い、時に怒ったり泣いたりしてついには恋に落ちたりしたのだろうかと夢想した。
だが、彼女にはその日の最後まで、どうにも幸せに彼の傍らで笑っている自分を想像できなかった。
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