約束(1)
それから二週間ほど過ぎた、昼下がりのことだった。
積もった雪はすでに解け、土の匂いが風に香っている。春の穏やかな陽気が、長い冬が過ぎ去ったことを告げている。
華音は鷹山が採用した企画書を持って、ある男の元を訪れることになっていた。
ここ数ヶ月はコンサートマスターの美濃部がこの役を請け負っていてくれたのだが、今日は何故か、直々に声がかかったのである。
高校はもうすぐ春休み、午前授業である。必然的に華音のアルバイトも、午後早い時間からとなっていた。
オーナーの赤城と顔を合わせるのは、こけら落としが終わった打ち上げ会場以来だった。かれこれ三ヶ月ぶりである。
赤城は本業が忙しくなると、楽団へ顔を出さないこともしばしばだった。しかし、ここまで冷戦状態が続いているのは、華音が記憶するうちでは初めてのことだった。
さすがに一人で行くのは心細過ぎる。
昨夜のうちに居候中の高野をつかまえて、事情を説明すると、快く同行を承諾してくれた。
高野は市内で小さな楽器店を経営している。日中は店番のためのパートを雇い入れているため、比較的時間に融通がきくのである。
高野の運転する車の助手席で、華音は鷹山から預かった大きな封筒入りの書類を胸に抱き締め、大きく息をついた。
「どうしたのさ、ノン君。さっきからため息ばかりついてるよ?」
高野に指摘をされ、華音は本心を悟られぬよう、努めて平静を装った。
「そう? 自分じゃ気がつかないけど」
高野はふうんと能天気な声を上げた。
そのまま車内は静まり返る。
確実に、目的地が近づいている。何度か通ったことのある道だ。
華音は観念して目を瞑り、助手席のシートに深々と身体を預けた。
「ひょっとして、麗児君に会うの、緊張してんの?」
「……まあ」
それが果たして『緊張』というひと言ですませられるものなのかどうか――それは高野と華音とでは大きく認識が違うはずである。
事情を知らぬ高野は、陽気な声で明るく華音をなだめてくる。
「大丈夫だよ、きっと麗児君もノン君に会いたがってるさ」
そんなことは百パーセント、ありえない。
華音はもう一度、大きな大きなため息をついた。
赤城エンタープライズ・本社ビル最上階の社長室に、二人はすんなりと通された。
事前にアポを取っていたため、赤城はきっちりと時間を空けておいたようだった。三つ揃えのジャケットだけをクロークハンガーにかけ、茶色のベストにスラックス、仕立てのいいオーダーのシャツに濃い赤の派手なネクタイを締めている。
ヴィヴィアン・ウェストウッド。赤城が好んでつけるブランドだ。
自分で購入したものか、はたまた誰かのプレゼントなのか。おそらく後者だろう――華音は勝手にそう決めつけた。
赤城は社長室内に設えてある応接セットのソファにかけるよう、高野と華音を促した。そして、自分自身も二人に向かい合うようにして腰をかける。
「まずは、おめでとう、と言うべきかな。和久!」
赤城は嬉しそうに目元を緩ませている。
同級生の慶事を素直に喜んでいるようだ。
一方の高野は、嬉しいような恥ずかしいような照れたような、そんな微妙な表情をさらしている。
「そんな、めでたいってほどじゃあないけどさ。別に変わりばえのしない、単なるモトサヤだし」
高野はこけら落としをきっかけに、別れた元妻とよりを戻すこととなった。
現在はまだ、芹沢邸と元妻・赤川仁美のマンションを往復する生活だ。親子三人で新しく生活を始めるため、不動産屋をまわってもっと広い部屋を探しているところらしい。じきに決まることだろう。
「少々荒治療だったが、結果オーライだ。鷹山君の思いつきは偶然だったのかもしれないが、まあ――運命だったのかもしれないな」
赤城の言葉に、高野は意外そうに目を瞬かせる。
「なんか、麗児君に似合わない言葉だなー、運命を信じるなんて」
「誰よりも信じているさ。だからこうやって、いつまでも独身貴族を謳歌している。和久のように運命の女性と出会うまではな」
「運命か……俺たち別にそんな感じじゃないんだけどな。たまたま――」
「たまたま子供ができたから、か? 充分運命的じゃないか!」
赤城は大袈裟に、芝居がかったセリフを吐いてみせた。
そこへ女性社員がトレイに人数分の紅茶を携えて入ってきた。
奥にいる高野、手前の華音、最後に社長である赤城にカップを差し出す。
華音たちのカップは揃って藍色の花柄だが、赤城のカップだけ和風の彩色が施されている。どうやら赤城専用らしい。
お茶出しの社員が去ってしまうと、高野は再び話を続けた。
「楽ちゃんがノン君と暮らしてくれるってことで、ちょうど良かったよ。これで、安心してノン君ちをあとにできる」
高野は能天気に笑顔を振りまいている。
気まずい話題だ――華音は高野の横で、赤城の表情をじっとうかがっていた。
すると。
赤城は一瞬、刺すような眼差しを向け、当てつけるようにして大きくため息をついた。
「どうしたの麗児君、そんな怖い顔して?」
高野は不思議そうにしている。突然の態度の変化に、少なからず途惑っているようだ。
「いや――和久、隣のビルの二階に、スイーツの新しいテナントが入ったんだ。適当に見繕って買ってきてくれるか?」
「スイーツって……なに、お菓子のこと? そんな子供じゃあるまいし……」
「腹が減ったんだ。いいから行ってこい。俺の秘書に領収書を渡して、金を受け取ってくれ」
「人使いが荒いんだから……俺、麗児君の客でしょ?」
「なんなら奥さんと娘にも買っていってやったらどうだ?」
まずい展開だ。赤城の思惑が、華音には手に取るように分かる。
適当な理由をつけて、高野に席を外させようとしているのだ。
華音は慌てた。
「じゃあ、私が行ってきます!」
「芹沢君はここにいなさい」
赤城のその威圧した語調にすくみ、華音は上げかけた腰をもう一度ソファに下ろした。
淀んだ空気が辺りを包む。
高野が社長室の外へ出てしまってからも、赤城は表情を強ばらせたまま、向かい合う華音の顔をじっと見据えていた。
「どうやら和久は、君たちのもうひとつの関係に気づいていないようだな」
赤城の顔は厳しい。精悍な顔つきがわずかに曇る。
「仲睦まじい兄妹? そりゃ結構なことだ!」
華音は身構えたまま、怖ず怖ずと目の前に座る大男の顔に視線を向けた。そしてゆっくりと口を開く。
「……怒ってますか?」
「当たり前だろう。君には一度忠告していたはずだが?」
赤城は冷静を装いながらも、その腹の中は相当煮えくり返っているらしい。
怖い――この大男の迫力には、華音は到底太刀打ちできない。
いくら鷹山相手にして、毒舌に負けないだけの能力が身についたと言っても、酸いも甘いも知り尽くした青年実業家の前では、それは付け焼き刃にすぎない。
華音はソファの片隅でじっと身を固くしていた。
なぜ赤城が怒っているのか――その理由は充分に理解していた。
鷹山と自分が、実の兄妹であるという事実。
消し去ることはできない血縁上の繋がりが、鷹山と華音の間に存在しているためだ。
しかし、十五年もの間、二人は離れて暮らしてきたのである。そこに兄妹であるという意識は存在しない。
少なくとも華音は、兄の存在すら知らなかったのだ。
華音が二の句が継げず黙ってしまうと、赤城は大きくため息をつき、ようやく語調を緩めた。
「しかし、だ。私にも非はある。こけら落としの成功のために、あえて彼に処分を与えなかった。もはや君一人で解決できる問題ではないのだからな」
容赦ない言葉が、華音の胸を締めつけていく。
問題。これは問題。
解決しなければならない、『問題』。
「しかも、君たちのはproblemじゃない。tabooだ」
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