信頼は時間に比例するか YES.(1)
明くる日、火曜日の午後――。
華音は鷹山に言われたとおり、新しく企画書を作成しなおした。
新しくと言っても、相変わらず白いルーズリーフに手書きしただけで、企画書と呼べるほどの仰々しいものではない。しかし、今の華音にはそれが精一杯だった。
合わせの練習は、今日までが休みである。そのため、鷹山は朝から書斎にこもりきったままだ。
昨日とは違い、美濃部の姿はない。オーナーの赤城が突然やってきて、うろつくこともない。
芹沢邸は静かだ。
華音は重い足を引きずるようにして、鷹山のいる書斎へと出向いた。
書斎のドアをノックしようとしたその手を、華音は一度引っ込めた。
自分の家の中であるはずなのに、どうしてこんなに緊張してしまうのだろうか。
静かにノックをする。反応がない。
念のためもう一度、今度は幾分強めにドアを叩く。しかし、いつまで経っても応答はない。
華音は大きく深呼吸をし、おそるおそる書斎のドアを開けた。
部屋に入るなり、華音は気力が削がれてしまった。
耳障りな音が絶え間なく続く。その発生源は、不機嫌面の音楽監督だ。
デスクに頬杖をつきながら、気だるそうに音楽雑誌に目を通している。ページをめくるたびに、そばに置かれた深皿に手を伸ばし、その中身をせっせと口に運んでいる。
小魚だ。
どうやら鷹山は、カルシウム不足だと言われたことを相当根に持っているらしい。
「これ以上は、高野先生の要望で譲れません……ので」
それだけ言って、鷹山の前に新しい企画書を差し出した。
無言だ。
このデスクを挟んだだけの距離で、聞こえていないはずはないのだが、受け取る素振りも見せない。
華音はその重苦しい空気に耐えられず、わざと邪魔をして雑誌の上に企画書を叩きつけるようにして置くと、勇気を振り絞って渋々頭を下げた。
「この間のことでしたら、謝ります」
反応があった。鷹山はようやく雑誌から目を離し、ゆっくりと顔を上げた。
綺麗な二つの大きな瞳が、華音の顔を捉える。しかし、鷹山はひとことも発することなく、ただ咀嚼を繰り返すばかりだ。
鷹山は華音を凝視しながら、なおも小魚の皿に手を伸ばそうとする。華音はそれより先に音楽監督のエサを奪い、後ろ手に隠した。
鷹山の指が空をつかむ。
「――――君に謝られなくてはならないことは一杯ある気がするけど、どれのこと?」
鷹山がようやく喋った。しかし、機嫌はすこぶる悪い。
「小魚を食べろと言ったことです」
「謝って、それから?」
華音はごくりと唾を飲み込んだ。
上手い返答が見つからない。
黙ったまま立ち尽くす華音に、鷹山は白々しくため息をついてみせた。
「謝るのは君の勝手だけど、僕が許すか許さないかは、まったく別の問題だから。君は今日からしばらく内勤だ。明日からの練習にもついてこなくていい」
鷹山は読んでいた机上の雑誌を、華音が書いた企画書ごとわざと音を発てるようにして閉じ、冊子を器用に丸め、それを片手に書斎から出て行ってしまった。
――本当に、本当に滅入る……。
一人書斎に取り残されてしまった華音は、そのまま備え付けのソファに半ば身体を投げ出すようにして座り込んだ。
夏休みの間は、鷹山のそばにつきっきりで、コーヒーを淹れたりお喋りに付き合ったり、練習の日には荷物持ちをさせられたり――とにかく長い時間を一緒に過ごしてきた。
窮屈に感じることもあったが、今こうやって一人きりにされてしまうと、鷹山という男の存在の大きさに、華音は改めて気づかされる。
華音はもう何度目か分からない大きなため息をつき、瞑想するようにゆっくりと目を閉じた。
学校が始まった今は、首席陣との打ち合わせや運営会議などは、華音のいない間に行われる。華音の仕事は、学校から帰ってから書斎で鷹山宛の手紙や書類をいくつか整理して、あとはコーヒーを淹れるくらいだ。
午後から夕方にかけて合わせの練習がある日も、学校帰りに遅れて顔を出すのが精一杯。早く終われば鷹山とともに芹沢邸の書斎へ戻ることもあったが、そのまま練習場所で別れることがほとんどだった。
ただでさえ、共有する時間が減っている。どうすれば鷹山との関係を修復できるのか、華音にはまったく見当がつかなかった。
――あの小魚。
【華音さんに小魚食べろと言われて、鷹山さんはそれで素直に食べてるってわけですか】
美濃部に言われたことを、華音はふと思い出した。
鷹山との関係がおかしくなったのは、あの控室での一件以来なのである。
しかし、そもそもの原因は、その前日の出来事にあるはずだ。
鷹山が、公衆の面前で兄弟子である富士川の顔にコーヒーをかけた、ということ。
そのことを知って華音は――あのとき、鷹山になんと言っただろうか。もうはっきりとは思い出せない。ただ、彼を相当傷つけてしまったであろうことは、今なら分かる。
初めのうちは、あの陰険ぶりがとにかく腹立たしく思えたが、時間が経つにつれ、華音はどんどん自己嫌悪に陥ってしまっていた。
鷹山の冷たくそっけない態度に、いつのまにか自分がひどく傷ついていることに、華音は気づいた。
――謝っても許す気配すら見せない、なんて。
そのとき、ふと。
華音の脳裏に浮かんだのは、優しかった富士川祥の姿だった。
比べるのは無意味だと分かっている。しかし、どうしても比べてしまう。
二人があまりにも対照的すぎるのである。
――祥ちゃんなら……いや、祥ちゃんとはケンカすることなんか、なかったけど。
どんなことでも、富士川はありのままの華音を受け入れてくれた。たとえ華音に非があったとしても、すべてを許してくれた。
しかし、鷹山は違う。華音の言動一つ一つに、喜怒哀楽をぶつけてくる。
とにかく――――滅入るのだ。
そんなすれ違いの状態が、さらに十日あまり続いた。
今日は土曜日、華音は学校が休みである。
そして楽団も、土日祝日は演奏会などの催事があるとき以外、基本的にオフとなっている。
本日の音楽監督の予定は、午前十時より外出となっていた。
芹沢邸の書斎に鷹山が顔を出すかどうかは微妙だ。直接マンションから出かける可能性のほうが高い。
最近の仲違いで、すっかり鷹山の行動も把握できなくなってしまっている。
こういうときに限って、愚痴を聞いてくれる相手はいない。最近本業が忙しいのか、オーナーの赤城も芹沢邸に姿を見せない。来たら来たで鬱陶しいのだが、ストレス解消の足しにはなるのに、なかなか思い通りにはならないものである。
アルバイト開始時間の九時になり、華音はとりあえず書斎へと向かった。
鷹山はやはり姿を見せていない。ということは、必然的に華音がするべき仕事はない。
華音は応接セットのソファに座り、壁一面の書棚に収められた書籍や楽譜の背表紙を、ひたすらぼうっと眺めていた。
すっかり給料泥棒となっている――そうため息をついていると、突然、書斎のドアが開いた。
その音に驚き、華音は慌てて振り返った。すると、そこに立っていたのは、コンサートマスターの美濃部青年だった。
「いたいた、華音さん。今日はこれから僕の車で出かけますので、すぐに準備して欲しいんですけど」
そう言う美濃部は珍しくネクタイを締めている。演奏するときの蝶ネクタイ姿はよく見るが、まるでどこかの会社の営業マンのような地味なスーツ姿を、華音は初めて見た。
その物々しい雰囲気に、華音は思わず尋ねる。
「美濃部さん、そんな格好してどこに行くの?」
「あ、これは一応、ですから。華音さんはいつも通りでいいって言ってましたよ」
美濃部の伝聞調の喋り方に違和感を覚える。華音はすかさず尋ねた。
「……誰が?」
「もちろん鷹山さんに決まってるじゃないですか。もう、車に乗って待ってますよ」
聞くまでもなかった。一気に緊張感が高まってしまう。
それにしても――。
こうやって用事があっても、すべてこの美濃部青年に伝言する鷹山のやり方が、華音の心をいっそう憂鬱な気持ちにさせた。
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