第48話 白粉彫り

久我は今すぐに単独でも火中に飛び込みたいくらいの衝動に駆られながら、必死に堪えて瀬尾にこの電話の事を報告した。

撫川を乗せた車の行方は瀬尾を信じて託し、動揺する気持ちを抑え込みながら澤村の状況確認に立ち会った。

喉は深く横真一文字に掻き切られ、無残な骸になったその姿や血に塗れた顔が、撫川の顔と重なった。

待つしかできないこの身の歯痒さと久我は必死に闘っていた。

撫川を助けられるなら命と引き換えにしても構わないと言うのに!

胃腑が焼けそうな思いで待つ久我に瀬尾から一報が入る。

久我は飛びついた。

撫川の携帯の電波が途絶えた付近から道路に投げ捨てられていた携帯が見つかったと言う知らせだった。

目撃者が言うには南関道を外れて北の方角に車は向かっていたと言う。

久我は澤村の状況を瀬尾に報告し終えると、堪えきれずに一人で車に飛び乗り、撫川の車の行方を追いかけた。

その間も刻々と無線からは目撃情報が上がってくる。

派手な身なりと血まみれの男はパッと見ただけでも目立つに違いなかった。

何処かの時点から浅野は恐らく冷静さを失った。

一連の殺人事件の周到さなど微塵も感じられない杜撰さが、浅野の今の壊れ具合を物語るようだった。


「撫川、絶対に見つける!それまで無事でいてくれ!」


祈りを込めて久我はアクセルを踏み込んだ。

見えない筈の撫川の姿を追いかけて。





久我さん!


久我さん!


久我さん!


撫川は何度も久我の名前を心で唱えて己を奮い立たせていた。

この先、自分にどんな事が起こるのだろう。そう思うと、恐ろしくて堪らない。


連れてこられたワイン蔵の狭い階段を、ナイフで脅されながら撫川は震える膝を抑えつつ一歩づつ降っていく。冷やりとした蔵の空気が悪魔の舌のように撫川を舐めて行く。

蔵の中は狭く、ベッドとランプの乗った酒樽が見えた。そしてそこで撫川は恐ろしいものを目にして立ち竦む。

目の前に立ちはだかる壁に掛けられた二つの額縁を撫川は見上げた。

それは下絵でも無くリトグラフでも無い。艶やかな刺青が咲いた生々しい人間の背中そのものだった。

思わず撫川は吐き気が込み上げ口元を手で覆って目を見張った。


「どうだい?美しいだろう?君の愛しい人が彫ったものだよ」


背後からねっとりとした浅野の声が耳元に生暖かく降りかかる。


「間も無く君の背中も一緒に飾ってあげよう。そうだな、この壁の真ん中に飾ってあげようか。鳳くんの最高傑作なんだから」


撫川の柔らかい頸を這い上った浅野の手がいきなり髪を鷲掴み、強い力で撫川の身体をベッドへとうつ伏せに引き倒した。

浅野は馬乗りになり撫川に抵抗する隙を与えず、その二本の両手首を其々に結束バンドでベッドの支柱へと括り付けた。


「やめて…!はずしてッ!はずしてってば!!…グっ」


浅野の大きな手が後ろから首を強く押さえ付け、撫川の襟首に差し入れたナイフが一刀両断に撫川の衣服を切り裂いた。

撫川の真っ白な美しい背中が浅野の眼前に露わになり、そのざらついた手が滑らかな皮膚を撫で回す。

撫川は怖気上がって身を捩り悲鳴を上げた。


「やめて!!見た通りだよ!僕の背中には何も入ってないって貴方だって知ってる筈でしょう?!」

「騙せたのは一度きりだ。もうボクは騙せないよ。君の背中には間違いなく刺青が入ってる!鳳が渾身を込めて彫った白粉彫りがね!!

白粉彫りはそのままでは見る事は出来ない。君は知ってるだろう?ソレを見る方法を…!」


うつ伏せで浅野の悪魔のような笑みが分からなかったのは撫川にとって幸だった事だろう。

浅野は撫川のズボンに手を掛けると一気に下着ごと引き抜いた。撫川の口から悲鳴が上がる。これから何が始まるのか撫川には分かっていた。


白粉彫は伝説のようなものだ。実際に彫ったと言う人も彫られと言う人も本当は居ない。だがいつの時代もそれは実しやかに囁かれる。

君は見たか?上気した肌に浮かぶ白粉彫りを…と。

白粉彫り。それは身体の内側からの熱のみに反応し、熱った肌に白く淡く浮き上がる。情事の相手にしか見る事の叶わない妖艶な刺青なのだ。




久我は撫川の悲鳴を聞いた気がした。

情報に導かれるようにして久我はワイン蔵近くへとたどり着いていた。まだ他の警察車両は到着していない。この付近に潜伏しているには違いないが、それは一体どこなのだろう。

久我は車を脇に止めて外へ出た。

寂れた街並みと寂れた商店街。その一角にある煉瓦造りの建物。それは見た事のある風景だった。

この建物の中を松野と久我とで調べていたのはつい三時間くらい前の事だ。だがあの時は建物の中には何も無かった筈だ。

いや待てよ、と建物の前まで来て思い当たる事がある。あの時は漠然としすぎて気づかなかった何かの違和感。それを感じていた事を久我は思い出していた。

これはまだ経験の浅い久我の頼りない直感に過ぎない。だが、確かに何かの違和感を感じていたのだ。

瀬尾には待てと言われていた。鹿島の時には自分のフライングで松野を危険な目に合わせてしまった。

だが今は久我一人。何があっても自分の首一つで済む。

待っていてはこの瞬間にも撫川がどうにかされてしまうかもしれないと思うと、澤村のあの血まみれの顔が頭の中でフラッシュバックする。

悩む間も無く、久我は煉瓦造りの建物の中へと再び入り込んで行った。


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