第36話 吹き荒ぶ風の中で

旗の家を出てから撫川は無口だった。車の助手席で旗から貰った鳳の写真に視線を落としたきり、とうとう何も喋らなくなっていた。

兄の覚悟と思いに触れて、撫川の中での兄の存在が再びむくむくと頭を擡げているように久我には思え、気持ちだけが焦り続けていた。

道々、通りすがった適当な飯屋に入った。

運転中の久我に合わせて撫川は酒を呑まず、いつかの時とは違って静かな食事風景だった。

撫川と初めて食事をしたあの頃は単純だった。謹慎中だと言うのに楽しく呑んで踊って浮かれてた。

気づけばこんなに好きになっていた。両想いになれたのにどうして今はあの時よりも苦しいのか。


「久我さん、なんか僕…気持ち悪い…外で風にあたりたい」

「うん?大丈夫か、今日は色々気を使ったりしたしな、疲れが出たのかもしれんな、もう出るか…」


あらかた食事は済んでいたし、ここは久我が出すから大丈夫だと言うと、恐縮しながらも撫川は一足先に店を出た。何となく顔色が少し悪い気がした。

支払いを済ませた久我が店の外に出て来ると、待っているはずの撫川の姿が見当たらない。


「…撫川?…撫川!」


焦って辺りを見渡すと、車通りの激しい四車線道路に架かる歩道橋の上、髪を風に踊らせた撫川が道路を覗き込んでいるのが見えた。

青白く無表情の顔。遠い眼差し。

瞬間的に嫌な予感が久我の脳裏に走った。


「あの馬鹿!嘘だろう?!」


そのまま道路に身を投げるのでは無いか。身を躍らせてそのまま消えていくのでは無いか。

良からぬ妄想に急かされて久我は猛然と歩道橋を駆け上がった。


「撫川!!よせ、止めろ!!」


久我はそう叫んで歩道橋の手摺りから引き剥がすように、撫川を背後から力強く抱き竦めた。


「久我さん…?」


咄嗟のことに驚く撫川が肩越しに久我を振り返る。


「行くな!オレを置いて何処にも行くな!鳳の所に行くなんて絶対に許さないからな!」

「…久我さん…」


固く抱きしめられる息苦しさに、久我の愛を感じて撫川の目が涙で滲んだ。久我がそんな風に考えていてくれたなんて思わなかった。

回された久我の腕に両手を置き、温かな久我の胸に背を預けて自らも久我の腕を抱き締めた。


「…大丈夫。僕、そんな事考えていないから」

「オレちゃんとお前を引き止める力になっているか?」


日頃ポーカーフェイスで隠しているが、時折襲ってくる不安な気持ちを久我は撫川に素直に吐露していた。


「…バカ…。久我さんが居てくれるから僕はまだここに居られるんだよ。僕、ちゃんと久我さんが好きだから…でも、不安にさせてるよね。ごめん。ごめんね久我さん。でも…ありがとう」


久我は漸く抱き竦めていた力を少し緩めた。すかさず撫川が身体を反転させて久我の首を抱き締め幾度も久我の唇を愛おしげに啄んだ。


「撫川、そんな事をしたら…オレ、我慢できなくなるぞ…」

「僕なんてとっくに我慢できなかったよ。今朝久我さんを想像して

…えっちなこと…、」


意外な告白に初めて今朝の熱を帯びた撫川の様子に思い当たる。久我が目を見張ると撫川は赤く染まった顔で恥ずかしげに視線を逸らせた。

そんな撫川を見ると今まで何度となく湧き上がる情欲の熱い泉を押し殺した事を思う。それも今度こそ押し留める術が見つからない。


「…撫川。オレ、今直ぐにお前を抱きたい」

「僕も今すぐにでも貴方に抱かれたい。でも、、背中、見せられないかもしれなくて、、」


撫川の眼差しが迷うように左右に揺れ、唇が何かを言おうとして何度も開いては閉じた。


「背中?」


久我はプールで見た撫川の背中を思い出していた。

コーヒーを買う時の白い背中は今から思うとドキッとするほど綺麗だった。

その背中がどうしたと言うのか。


「ああでも、久我さんと愛し合うなら僕の全部を見せたい…!

だけど…、それだと悠さんとの約束を…守れなくて…。兄以外の人を愛した上に、その約束まで破ったら僕の、悠さんに対する誠が何も無くなってしまう気がして…怖い。周吾さんとする時だって、一度もシャツを脱いだことが無くて…」


要領を得ない言葉が久我には直ぐにはピンとは来ない。何度となくそう言う場面もあったのに、背中の話は初めて聞いた気がする。


「お前の背中に何があるって言うんだ?綺麗な白い背中だった。

お前、鳳とどんな約束をしたと言うんだ。それって、オレにも言えないなの事か?

オレがお前を引き止める力があると言うなら、オレを信じて話すこと出来ないのか?」


撫川は酷く困った顔で首を横に振っていた。今まで何度と無く背中の事を久我に話そうとしてはその度ブレーキがかかってしまっていた。でも、いつかは久我に打ち明けねばならない事だ。


「信じてるよ!信じてる…」

「…お前が待ってくれって言うならオレは待つしか無いが…本当は待てない」


ぎゅっと、抱きしめられる強さはそのまま久我の本当の気持ちの表れだ。

久我の辛そうな顔を見ると、自分がそんな顔をさせているんだと撫川の胸が痛んだ。

それ以上に、撫川の方がもう耐えられそうにも無かった。


「久我さん…」


ーー…ああもうダメだ。

約束、守れそうも無い。悠さんごめん!ごめん、悠さん!


「ね、久我さん。今夜、僕を抱いてくれる?そしたらきっと…分かると思う…」


撫川を見れば何かを覚悟したような顔をしていた。

こんな顔をさせてまで、無理矢理に欲しがる自分が急に浅ましく見えてくる。だが久我とてもう耐えられそうに無い。

相手が欲しいと強く思いながらも、互いが互いの心を思いやっていた。






薄暗い部屋の中に携帯の明かりだけがその男の顔を照らしていた。

細長い指先が、その写真の中の白い背中を何度もなぞっている。


「ふぅん、そうか。そう言うことだったか鳳くん。惜しいな、あの時ボクは大きな魚を逃してしまったわけか。実に惜しいね!…でもね、いつか君のものは全部ボクのものにしてやるんだ!

何一つ、ボクに譲らなかった事、墓場の下で後悔したら良いんだ。

先ずは先に網を張った方から、ふふ、ふふふ、あはははは!」


携帯を伏せると部屋には湿気だ空気と暗闇だけが広がった。





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