第34話 片翼の鳳凰
外は冬の冷たい雨が音もなく降っている。
今この工房には人肌に針を刺し、皮膚を削る音と、男に刺青を施す初老の彫り師の息遣いだけが響いている。
彫り師の眼前の寝台には若い男がうつ伏せで針を入れられる痛みに耐えていた。そこには彫る者と彫られる者との無言の対話が、独特な緊張感を持って繰り広げられている。
いつか撫川が感じた懐かしい光景が、そこにはあった。
「すみません、師匠は仕事に入っちゃうと没頭せずにはいられない人で…」
「いえ、いきなり来た我々がいけないのですから。それより、お客さんがいらしたのなら、また改めて伺った方が…」
「大丈夫ですよ、いつ来ても同じですから。あ、冷めないうちにお茶どうぞ」
久我と撫川。座る二人のテーブルの上に置かれた茶を勧めながら、弟子の男は掛け時計をチラと見上げた。
二人が訪ねた「
その部屋の棚には沢山の墨壺やまるで絵筆の様なものが沢山並び、日本の神話や歴史や文化に纏わる書物が整然と並べられている。
それらを久我が物珍しそうに眺めていると、弟子の男が話し掛けて来た。
「沢山の本があるでしょう?和彫りの刺青の柄には一つ一つ意味やその背景や、物語があるんです。日本の神話であったり、古事であったりね。和彫りと言うのは伝統や決まり事が多いですから…」
三人がいる応接間からは、開け放たれた作業場で刺青を入れている真剣な旗の背中だけが見ていた。
「お弟子さんと言うのはやはり住み込みですか」
「いえ、昔はそうだったみたいですが、今は皆んな通いですよ」
「弟子になられて長いのですか」
「三年になります。まだまだ駆け出しですが」
久我と弟子の世間話を聞きながら、撫川は部屋の中を懐かしそうに見渡していた。
この工房には一度も来たことがないのに、やはり師匠と弟子とは似るのだろうか。作業場の雰囲気は兄と暮らした部屋に良く似ていて、撫川は不思議な感覚に陥っていた。
「これは…、刺青の針ですか?」
使用済みと書かれた段ボールに束ねられた針の先端部分がビニール袋に小分けに入れられ廃棄になっていた。
「針は、使い捨てなんですか?煮沸とかして再利用はしない物ですか」
「昔は其々のお客さん専用の針があって、消毒して繰り返し使っていたらしいですが、今は使い捨てがほとんどですよ。コスト的にも安全面でもその方が良いのです。
うちではマシンは極力使わないので、全て手彫りです」
そう言うと弟子の男は手元に丁度あった絵筆の柄のような物を久我達に見せた。
「これが刺し棒と言って、これで身体に墨を入れていくんです。その束ねた針を先端に括り付けて使うんです。小さな剣山のような形状だったり、真ん中を凹んだ彫刻刀の様な形状にして束ねたりして一本一本手作りするんですよ」
撫川は兄も自作の針を作っていた事を思い出す。
細い針が隙間なく一列に並ぶと、さながら本当に彫刻刀のような刃物に見える。
針刺し棒の出来不出来によって仕上がりの良し悪しが分かれるとも言われ、それは彫り師一人一人のオリジナルの道具であり、例え師弟の間柄だとしても作りの塩梅は秘密なのだと兄から聞いた。
「やはり、手彫りの方が仕上がりは綺麗なんでしょうか。ちょっと聞き齧りですが」
「貴方も入れてみますか?そうすれば違いが歴然と分かると思いますよ。和の手彫りに和の墨は枯れない花のように何年経っても色褪せません」
警察官の久我が刺青など入れられる筈もないが、そう言って仕事をやり終えた旗が応接室へと入って来たのだ。
もっと厳つい男かと思っていたが、実際に話をし始める旗は、こんな職業には見えないほど穏やかな印象の老人だった。
しかし眼差しは鋭く、久我に一瞬だけ鹿島周吾を思い起こさせた。
「お忙しいところを申し訳ありません。わたくしは警察の者で久我と言います。こちらは鳳さんの弟の撫川さんです。少し事件がありまして、亡くなった鳳さんのことを調べさせて頂いてます」
そう言うと、相手に名刺を差し出して久我はキビキビとした動作で腰を折った。
社会人としてと言うよりも、警察官然とした
「まあ、楽にして下さい。…貴方が…悠也の弟さんですか…。そうですか」
撫川を見る旗の視線はどこか暖かく、自分のことを良く知っているような、そんな不思議な眼差しを向けられた。
「あ、兄がとてもお世話になりました。こんな形でご挨拶する事になるとは思わず…その、」
とても久我のように格好良く振る舞えない。それどころか声がうわずって赤面まで晒していた。
「悠也はさぞや無念だったと思いますよ。貴方を残して逝くなんてねえ。ここに弟子入りした時からずっと、彼の目標は変わらなかった」
「目標…?」
「貴方と共に暮らすことです。そうですか、貴方が悠也の片翼の相手なんですね……」
「かた…よく…」
久我が撫川に視線を合わせるが、撫川は困ったように視線を伏せた。
師匠は工房から数枚の写真を持って来ると、それを二人の前に並べ置いた。
それを目にした撫川の顔がみるみる驚きの表情に変わった。
「……これは…っ、これは…兄の…!」
それは久我にとっても驚くべき写真だった。カメラを背にして立つ鳳悠也の全裸写真だったのだ。
それは神々しいまでに美しく、気迫に満ちた背中一面の見事な鳳凰。
力強く雲を蹴り上げ、光を掴み取るように天に向かって駆け上がる眼光鋭い雄々しい鳳凰。
だが広げたその羽は片翼だった。
そしてその鳳凰に従えるように風神雷神が配され、その森羅万象が、肩や腕、脚、その四肢に至るまで見事な様式美を以って施されていた。
「これは旗さんが施されたのでしょうか…」
その写真の鳳に魅入られながら久我が旗に尋ねた。
「背中の鳳凰は私が。脚は悠也が自彫りしました。練習のためにです。素質のある子でした。ただカッコいいから目立ちたいから、世間を威嚇したいからアートだからファッションだから。
…そう言って、刺青を入れる若者や彫り師に憧れる若者は沢山居ますが、悠也は刺青と言うものに対しての深い理解度と、一途に自分の生き方を追求する信念がきちんとある子でした。技術は誰でも努力すれば補えますが、素質と言うものは努力ではどうにもならないのです」
そう語る旗に、撫川は更に食い下がっていった。
「兄の、信念とは何だったんですか?一途に思っていたこととはどんな事だったんでしょうか。兄が何を思って彫り師になったのか、僕は知らなければならないんです!」
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