星猫ジャックとコハクと新月の夜(0章)
00 星猫ジャックとコハクと新月の夜
明日も今日すら知れない道を、ジャックは旅をしていました。冬の、未知の旅です。
道には枯れ葉が落ち、ジャックはお腹を減らし、ひたすらに歩き、進んでいました。
旅には色いろなことがあります。
寒い日もあれば、霧の日も。
幼いジャックの旅は、険しいものでした。
ある時ジャックは言いました。
「そろそろ一休みしよう」
猫は、みんなが起きている昼の間、木の上や、誰もいない木陰などで僅かな太陽の暖かさを感じながら、うつらうつらと眠りにつき、みんなが家に帰ったり、寝床に入ったりする夜に、行動します。
ジャックも夜に行動しました。
夜は静かで、空気が澄んでいて、ジャックの獲物が見つかることがありました。
ジャックの獲物は、魚や、ネズミです。
川や森で、ジャックはそっと獲物に近づいて、懸命に捕らえました。
それを、見晴らしのいい高台や、川のせせらぎが聞こえる気持ちの良い岩辺などに持っていき、食事をするのです。
それから夜の色は、ジャックの毛の色と同じ、黒です。
闇の色と同じ、ひっそりとした黒。
一人で旅をしているジャックには、自分の体と同じ夜の色は、自分を守るための色に思える時がありました。夜は昼間よりもジャックにとって、安心できる時間でした。
夜の闇は黒い色のジャックの体を隠してくれます。
ジャックの体は、夜の間は敵に見つかりにくいのです。
世界を暗くする夜は、静かにひっそりと世界を休ませ、そして、限られた生き物に行動を与える夜でもあるのです。
ジャックは夜に行動しました。
そして、夜には月が輝くことがあるのです。
月はいつも美しい光で輝いて、見ていると不思議と心が落ち着きます。
それに、猫の目は、少しの光があればものを見ることができるので、暗い、暗い、夜の闇の中、ジャックは毎晩、月の光を頼りに、素早く行動できるのでした。
月の光の下で、毎晩ジャックは時折優雅に食事をし、まるで月のような、まんまるの金色の瞳で、空を見上げて夜明けを待つのです。
「昨日はたまご色の月、今日は、白い月……それから、明日は何色だろう。僕の目と同じ、金色だといいな」
ジャックは毎晩、自分の体と同じ色の夜の闇の中で、ぽっかりと輝く月の色を観察しては、昔の月の色を思い出したり、明日の月の色を想像したりするのでした。
ジャックが初めて月に出会ったのは、少し前のこと。ジャックは気が付いたら一人で寒い道を歩いていて、何かが恋しい気がして、叫んでいました。
***
その晩、ジャックはお腹を空かせて、木の葉がほとんど落ちてしまった寂しい森の中をうろうろと歩いていました。
知らない場所で一人ぽっち。前に進めばいいのか、戻ればいいのか、何をすればいいのか分からなくて、頭の中にもやがかかったようにぼうっとしています。ふらふらと歩いていると、バサッと音がして、まわりを見回しても誰もいません。
まわりのもの全てが怖い。まわりにいるのはみんな敵です。何も信じられなくて、自分すら信じられなくて、頭に浮かんでくる考えも、なにもかもが意味のないものに思えて、苦しい気持ちでした。
聞いたことのないような叫び声が聞こえます。
その声は、こちらを狙っているのか、それとも、そいつを捕まえて食べれば、生きていけるのか。
わからなくて、頭がじんじんとします。
足に当たる枯れ葉が、カサカサになった肉球を傷つけます。だんだん歩いている感覚なくなって、自分の足が何に触れているのか、それとも、何かに追われているのか、どこを歩いているのか分からなくて、まわりがどんどん暗くなっていく気がします。
恐ろしい夜が来る。ジャックの黒い体は、だんだんと闇に溶けてしまって、まるで自分の存在がはじめからなかったもののように思えて、不安で、苦しくなってくるのです。
「ここはどこなんだろう。僕は誰なんだろう」
どくどくと心臓の音が鳴るのを振り払うように、ジャックは走りました。
少しでも明るい方へ。
走りに走って、どんどん走っていって、丘の上にたどりついた時に、ジャックは出会ったのです。
頭の上に、まんまるに、金色に輝くあの月に。
丘の上でジャックは、ふっと体の力が抜け、息をするのが楽になったように思いました。
月の光はどこまでも優しく、ジャックの体を包んでいます。
「なんて綺麗なんだろう」
月の光の下で、ジャックは自分の手足、体の形を確かめました。
小さいけれど、しっかりと動く手。
するりと長い、形のよいしっぽ。
黒く美しい、闇と同じ色のつやつやとした毛並み。
肉球は切れて血がでていましたが、反対の手で押すとぷにぷにと柔らかいのでした。
それから月は、ジャックの姿だけではなく、他にも色いろなものを映していました。
丘に揺れる白い毬のようなぽこぽことした花々、丘の下の木々が自由に伸び行くシルエット。キラキラと光る湧き水。そこからキラキラと水が湧き出し、流れて川となるのかもしれません。
それから月に照らされたものには、影が生まれます。
自分の影、花の影、木の影、草の影。
鳥の影、葉っぱの影、水の影、月自体の影。
月の下では、ありとあらゆるものに、影が生まれます。
ジャックは、たくさんの影の形を見て、ものには色いろな形があることを知りました。
空にいる鳥は、ジャックには触ることはできませんが、空を行く鳥の影なら、ジャックにも触ることができます。
本当の何者かに追いかけられることは、危険ですが、自分についてくる自分の影に追いかけられて、自分の影から逃げ回るのは、心をからっぽにできて、ジャックは楽しい気持ちになりました。
それから、少しの間、動く影を追いかけたり、影に追いかけられたりして、ジャックはお腹が空いていることを思い出しました。
湧き水を辿れば何か採れるかもしれない。少なくとも、水が飲める。
ジャックは痛む足で冷たい大地を蹴って、湧き水をごくごくと飲み、キラキラとした流れに沿って下っていくのでした。
***
ひもじい日は続きました。
疲れて魚も採れず、鳥も採れない日は木の根っこを齧りました。
水の流れる方向に進み、ジャックはたびたび喉を潤しました。
どんどん痩せていきますがお水はおいしいのでした。
そしてある三日月の夜、ジャックはお腹を空かせて、森の中をひたすらに流れに沿って下っていて、そこでウサギの夫婦を見かけました。
お腹は空いていましたが、こんな三日月の夜の気持ちは少し明るくて、ジャックは、少しおしゃべりをしたくなりました。
「こんばんは、うさぎさん」
うさぎの夫婦は振り返ってジャックを見つめて、お互いに何か合図をしたようでした。
「こんばんは、お小さい猫さん」
うさぎの奥さんは言いました。
「こんばんは、黒猫君」
うさぎの旦那さんが言いました。
うさぎの口は三日月の夜のように、口の端で弧を描き、まるで三日月のよう。
「いい夜ですね」
「そうね、お小さい猫さん」
「お二人はお散歩ですか?」
うさぎの奥さんは首を振りました。長い耳が大きく揺れて、風が来たように思います。
「違うのよ。引っ越しなの。ここらへんは嫌な雰囲気がするから。以前はこんな森ではなかったのだけど」
「君は旅の途中かな、黒猫君。このあたりはツリガネ草が綺麗で、いいところだったのだけど、見たら君も早く離れた方がいい」
「ツリガネ草ですか。見たことがないけど、綺麗なんですか」
「あぁ、あの丘の上に咲いているんだが…」
うさぎの奥さんは旦那さんとジャックを代わる代わるに見て、言いました。
「ねぇあなた、最後にもう一度見ていきましょうよ。あなたもどうかしら」
うさぎの夫婦とジャックは連れ立って三日月が輝く丘の上に走っていきました。
青紫のツリガネ草が、三日月と星の光を浴びて一面に咲きみだれる丘の景色が辺り一面に広がっています。
ジャックは今夜この三日月の下で見た景色をきっといつか思い出すだろうと思いながら心が動くような気持ちがしていました。優しい風がツリガネ草を揺らし、三日月と星がキラキラと夜空に浮かんで輝いています。皆で、風に揺られて静かに景色を眺めました。この景色はきっと、ジャックの心のどこかにしまわれて、旅の糧になるのでしょう。
ジャックの毎日は、月の光とともにあるのかもしれません。
「月は僕の旅に、なくてはならないものかもしれない」
ジャックはそんな風に思いながら、しばらくの間その景色を見つめていたのでした。
そしてまたある細い細い三日月の晩、ジャックはいつものように、お腹を空かせながら川を下っていました。ゆきあいの友がいれば、元気も出るかもしれないけれど。
しかし、今日の生き物たちの様子は何かが変です。
見かける生き物たちは、みんなそわそわ、森や、草原をいそいそと走りまわったり、飛びまわったりしています。
ジャックもそわそわした気持ちに駆られて川沿いを急ぎました。するとふと目の前に一匹の大蛇が現れました。
ジャックを一口で飲み込めそうなほど大きな口を持った、大きな大きな大蛇です。
ジャックはとうとう自分の旅もここまでかと観念しました。
「君は僕を食べるの?」
大蛇はキラリと光る銀色の瞳をジャックに向けて、舌を出したりしまったり、シュルシュルと音をさせながら応えました。
「食べないよ、まずそうじゃないか」
大蛇はくるりと辺りを見回し、それから言いました。
「ごらん、森にはたくさんの鳥や、獣が走り回って、美味しそうじゃないか。丸々とした魚も泳ぎ回っている。自分を見たことがあるのかい」
ジャックは細い三日月の明かりをライトにして、水面に自分の姿を映してみました。
小さくて消し炭のような黒いもやもやが水面に揺れています。
「もう少し下れば、小さな鳥が束になって巣を作っている森がある。そいつらは年中卵を産むから、卵やヒナでも狙うといい」
大蛇はそう言うと、ずるずると体をしならせて川の中へと入っていきました。
「待って!」
ジャックは叫びました。
「なぜ僕にそんなことを教えてくれるの」
「月が綺麗な夜だからさ」
大蛇はそう言うと水の中に消えていきました。
***
ジャックは言われた通りに川を下り、小さな鳥が群生する森を見つけ、卵をいただきました。
ジャックはすごく元気が出て、また川を下るのです。
次第に森の生き物たちの動きがいよいよ活発になってきました。
ジャックは不思議に思い、一羽のメンフクロウに声をかけてみました。
「おぅい」
木から木へと飛びまわっていたメンフクロウは、ちょっとこちらを見たようです。ジャックはもう一度、声をかけてみました。
「おうい、みんなどうしてそんなに急いでいるんだい」
フクロウはジャックのところへ降りてきて言いました。
「あなた何も知らないのね。明日の夜は、新月の夜よ。食べ物を用意したり、色いろ準備しなきゃ。何も見えなくなるから、大変だわ」
「何を言っているんだ、フクロウは、夜は得意だろ」
フクロウは、猫と同じくらい、夜が得意な生き物です。ジャックはそれを知っていました。
「得意って言ったって、まったく光がなかったら、さすがに何も見えないわ。猫もそうでしょ。あぁ大変、急がなくっちゃ。じゃあね、猫さん」
メンフクロウは真っ白な翼を広げて飛び立ち、バタバタと木の間を飛びまわって行ってしまいました。
「まったく光がないだって……」
ジャックはおどろきました。
もちろん、月が雲に隠れてしまったり、暗い夜はありましたけど、そういう時は、雲のうしろに月の光が見えたりするものです。それに夜の空には星も昇るので、月の光が暗い夜には、星の光を頼りに行動することができました。
「こんなにいい天気なのに、まったく光がないだって……」
そんなことは信じることができません。
けれど、まわりの生き物たちの様子を見て、ジャックも準備をすることにしました。
柔らかい草をつんだり、獲物を多めに捕まえるように頑張ったり。けれども、半信半疑なのでした。
「まぁいいよ、何もなければ、明日は月を見ながら、いつもの通り川を下るんだ」
やがて夜がやってきましたが、フクロウの言ったとおりのことが起こりました。
細い月はだんだんとさらに細くなって、やがて完全に消えてしまったのです。まわりに深い闇が立ちこめて、空は覆いつくされた闇で真っ暗で、星も一粒も見えないのでした。
「あぁっ」
ジャックは思わず叫びました。
「どうしよう、真っ暗だ」
本当の闇に包まれて、ジャックは感じたことのない焦りを感じました。
「どうしよう、何も見えない、こんなことはじめてだ。ごはんの匂いはしているけれど、これはこまったぞ。僕は何を食べているんだ。それにこんなに暗くちゃ、動くこともできない。僕はどうしたらいいんだ」
ジャックは考えました。
「ひとまず、食事をしよう」
口にものを含むと、少し気持ちが落ち着いてきます。
手探りでもいい。なにか、光がないか探すんだ。
ジャックは手探りで、まわりを探します。
暗闇の中で、滑って、水に落ちてしまいそうにもなりました。
ひげの感覚を鋭くさせて、まわりを探ります。
けれど、ジャックのまわりにはひんやりとした石があるばかりです。
「こんなにひんやりとしたところでは眠れないぞ。本当にこまった」
闇の中で、ジャックは立ちすくんでしまいました。前に行くことも、後ろに戻ることもできません。ジャックの進む道は、突然の闇によって閉ざされてしまいました。
ジャックは、柔らかな草を少しかじりました。
草をかじるとまた少し、気持ちが落ち着いてきました。
ジャックは手探りで、まずは自分のすぐ近くを確かめてみることにしました。
とがった耳、やわらかい毛、長いしっぽ。顔の形、ひんやりとした肉球、いつもの自分の柔らかい体がちゃんとありました。
それからとがった爪。
「ん、なんだか爪があたたかいぞ」
ジャックはなんとなく、爪に力をこめました。すると、前足の爪が、ほんのりと光だしたのです。
その光は、ジャックの瞳と同じ金色でした。
美しい光がまわりに広がっていきます。月のように、優しく、神秘的な光です。
「これはどういうことだろう。僕にこんなことができるなんて」
ジャックはしげしげとその光を眺めました。
まわりの景色が、月の光を浴びたように、美しく輝いています。
川の水面も天の川のようにきらきら光り、ジャックの爪の光を美しく反射しています。
水面にジャックの姿が映り、瞳が、黒い毛並みが、きらきらと美しく輝いています。
ジャックは静かに空を見上げ、それから、木の葉に反射する光を眺めながら、風が木の葉をゆらす音を聞きました。
空は、灰色のスクリーンを広げたように暗いけれど、ジャックの爪の光を浴びた木々は、とても綺麗です。
「なんて綺麗なんだろう」
美しい世界の中で、心地よい風の音に耳を澄ませていると、その音に合わせるように、ばさばさと羽が羽ばたく音が聞こえました。
「昨日の猫さんじゃない。とっても綺麗ね」
振り返るとそこには、昨日出会ったメンフクロウがいました。
「こんばんは。フクロウさん」
フクロウはジャックの隣で白い羽をすっと伸ばしました。羽が、ジャックの爪の光を浴びて、青白く神秘的に輝きます。
「綺麗で、なんだか気持ちがいいわ。あなた、そんなに素敵なものを持っていたのね」
「うん。けど君の言う通り、準備をしておいたんだ」
「そう」
ジャックはメンフクロウと、この森のことを話しました。
新月の夜のことも。
「今日は新月。太陽の影が月に落ちて、そうすると月が隠れてしまうのよ。雲がたくさん発生するのと、新月の日とが重なると、このあたりは真っ暗になってしまうの。でも、あなたの光があれば大丈夫ね。まるで小さな三日月みたい。あなたの瞳も、満月みたいだわ」
ジャックも爪先の光を、まるで月のような光だと思いました。
それから二人は、小さな三日月の光を頼りに、すこしだけ話し、眠りにつくために別れました。
眠る前、ジャックは一人、ゆったりとした気持ちで考えました。
「僕は自分のことを全部知っている気でいたけど、この爪のことは何も知らなかった。ただの木登りの道具と思っていたけど、月みたいとまで言ってもらえて、僕はこの爪を前より好きになったよ」
ジャックは爪をしげしげと眺めました。
爪は、力をこめればこめるほど強く光り、ふぅと力を抜くと、ほんのりと優しく光るようです。
「空にはまだ光がないけれど、この爪があれば今夜も、それから、また真っ暗な夜がきても、きっと大丈夫だ」
ジャックは力をこめて、まわりを照らしました。
すると、向こう側に一筋の道が見えて、それからその先に感じの良い木が立っています。
ジャックは起き上がり、しっかりとした足取りでその道を進み始めました。
道のまわりには、白い花が咲き、ジャックの爪の光で、ふわふわと光っています。
美しい道を、ジャックは進みます。
「真っ暗な世界の中で、僕はどうしたらいいかわからなくなってしまったけれど、この爪を見つけたおかげで、こうして道が見える」
ジャックは木を目指して走りました。そして光る爪を木にひっかけて、登り始めました。
その木の頑丈な枝に、ちょうど良く木の葉がつもったところを見つけ、ジャックはその上に小さな箱のように座りました。
体の横からちらりと爪を光らせ、世界を見渡します。ここからはまわりを見渡すことができて、それでいて、ジャックの体は木の枝に隠れていて、安全です。
ジャックの爪の光は、光のシャワーのように、枝の隙間から、世界に広がっています。
そしてその光は、空から降る月の光に似ていました。
「本当に綺麗だな、だけど、僕は僕のことも、月のこともよく知らなかった。フクロウに教えてもらえなかったらどうなっていただろう」
ジャックは爪の光を消してみました。すると世界は、闇に包まれます。
ジャックの体の色と同じ、黒い色の夜です。
「寝るにはちょうど良いけれど、一晩じゅうこんなふうだと、やっぱり何もできなかったな。僕はもっと、色いろなことを知らなければならないのかもしれない」
次の晩、細く美しい月が空に昇りました。
ジャックは、絹の糸のような細く美しい月の光の下で、獲物を取り、食事を楽しんでから、川沿いの岩場に座って、あらためて自分の爪を眺めました。
ジャックは爪に力をこめました。するとまわりに、月に似た美しい光が広がります。
「この爪は、三日月に似てるよ。本当にね」
ジャックは自分の前足を空にあげて、くるくると動かしました。
「色は、あの月に似ているよ。金色のあの月に。不思議だなぁ。水面に映る姿も、月のようだよ。おや」
ジャックは水面をのぞきこみました。
「魚がたくさんいるぞ。もしかして……」
ジャックはさらに、爪に力をこめました。
明るい光と共に、遠くから魚が泳いでやってきます。
「この光に集まっているみたいだ。綺麗だものね」
ジャックは、集まって来た中の一匹を素早く捕まえました。
「おいしくいただくとしよう」
ジャックは新鮮な魚を、お腹いっぱい食べました。
「うーん、この爪は素敵だぞ。とても綺麗だし、魚も寄ってくる。それにやっぱり、もしまた真っ暗な夜がきても、安心だ。あっ」
ジャックの行く手を阻むように大蛇が現れ、あっという間にジャックの体はへびに巻かれてしまいました。
「何をするんだ、君はこの間の大蛇じゃないか」
大蛇は、ジャックを締め付けないよう、けれども逃げられないよう、力を調節しているようでした。
「こんばんは、猫君、いい夜だね」
ジャックは逃げようともがきましたが無駄でした。
「離せ!どうしてこんなことを……君は僕を食べないって言ったじゃないか!」
大蛇は面白そうに舌をシュルシュルと出しながら笑いました。
「食べやしないさ。随分美味しそうにはなったけどねぇ。それよりそれはなんだい」
ジャックは持てる限りの力を込めて逃げようと試みましたが、無駄でした。
「答えるのが得策だと思うが、どうだろうねぇ。さぁ、その光っているものはなんだい」
「うっ」
ジャックはきつく巻かれて、息が苦しくなってきました。
「離……せ……離せっ」
ジャックは必至で身をよじりましたが、無駄でした。
「まぁいい……しかし、その光、素晴らしいじゃないか。どうかな猫君、その光を私のために使っておくれ。いいだろう?」
大蛇は愉快そうにシュルシュルと笑っています。
ジャックは悲しくなりました。
こんな力があったって……。
ジャックはやがて、体の力が抜けていくのを感じました。ぐったりとして、手足がもう動かないのです。
悲しくて悲しくて、涙が出そうなのでした。
「猫君、名前は?いや、必要ないね。私がつけよう」
大蛇はおどろおどろしいほどに口を開けて、更に愉しそうにシュルシュルと笑っています。
ジャックは力の入らない体で空を見上げました。
細い月が輝いています。
ジャックは最後の力を振り絞り、はるか先まで響き渡るような声で叫びました。
劈くような、まるで鳥のような声で叫び声をあげます。
大蛇は一瞬ひるんだ様子でジャックを巻き付けていた体が緩みましたが、ジャックにはもう逃げる力はなく、それでも声を振り絞ってニャアニャアと叫び続けました。
理不尽な力に、無抵抗でいるのは嫌なのです。例え、切り抜けることができなくても。
ジャックは声がつぶれそうなほど叫び続けました。
そしてその時です。
急に大蛇の体が緩み、丸太のような重たい体重がのしかかってきました。
「だいじょうぶか」
大きなサルのようなシルエットが、ジャックの上からこちらを除いている気配がしましたが、ジャックはそのまま気を失ってしまったのでした。
***
パチパチパチと炎のはぜる音がして、ジャックは目を覚ましました。
古い生地の布に包まれて、温かい心地がしました。
全身がずきずきと痛み、特に前足や肩のあたりの筋肉が締め付けられているように痛く、ジャックの心臓は急にドキドキと音を立て始めました。
助かったのか、それとも……。
ジャックは静かに回りを見回しました。
たき火の前に、大きなサルのようなシルエットの生き物が、こちらを背にして座って何かをしています。
ジャックは枯れ葉が積まれたふかふかの場所の上に、布にくるまれているようでした。
たき火のほうから、だんだんと鳥肉のようないい匂いがしてきます。
喉がからからに乾いていることに気づいたジャックは、何とかその鶏肉にありつけないかと体を動かそうとしましたが、全身に痛みが走り、涙が出るのでした。
僕の人生はここでおしまいなのかもしれない。
ジャックは観念して空を見上げました。
乾いた木々の隙間から、月が見えます。
ジャックは心の中でありがとうとつぶやきました。
ずっと鶏肉の匂いがしていましたが、どうやらサルはたき火の火を使って、鶏肉をどうにかしているようです。
ジャックは目をつぶりました。ふんわりと鶏肉の匂いがして、小さくお腹が鳴りましたが、サルがそれに気づいたようです。
「起きたか。それ」
サルはなんと鶏肉の匂いのする入れ物を差し出してきました。ジャックは驚いて、それから必死にそれを口に入れました。
「ササミのゆで汁だよ。うまいか」
サルは入れ物に温かい汁をつぎ足して、またジャックに差し出しましたのでジャックはすぐにそれを全部飲んでしまいました。
「仔猫はこれが好きなんだ。あぁ、眠ったか」
ジャックはお腹がいっぱいになり、いつの間にかまた眠ってしまっていました。
起きると温かい”ササミ”のゆで汁をサルが差し出してくれ、ジャックはまたそれを飲み、眠りました。
また起きて、ゆで汁を飲み、そしてサルは次の時には鶏肉も入れてくれていました。
サルは顔以外の部分に前足と後ろ足の先だけ穴の空いた布をいつも巻いていて、ジャックに巻いていた布にも前足と後ろ足の部分に穴をあけてくれました。
ジャックは初めは嫌でしたけど、布を巻いている方が暖かいし、焚き火の匂いがお腹や背中につかないことに気がつきました。
ジャックは次第に元気になりました。
「あなたは誰?」
ある時ジャックは聞きました。
サルは驚いたようにジャックを見つめました。
「君は……いや、僕はドライド。ドライド・サンクレジャー。皆んなはディーと呼ぶよ」
「ディー?」
ディーと名乗ったサルは、今朝と同じように焚き火に黒い入れ物を乗せ、水と鶏肉を慣れた手つきでその中に入れています。
その中の水がぼこぼこと泡を立てると、鳥のいい匂いが立ち上ってくるのです。ディーはそれを木の小さい入れ物に入れ、少しするとそれを差し出してくる筈でした。
けれども、ジャックはその前に尋ねました。
「ディーはサルかい?」
ディーはまた少し驚いたようにジャックを見て、少し口の端を上げたようでした。
「そうだな……猿と言えば猿だし、猿じゃないと言えば……いや、ヒトも所詮は猿でしかないしな」
「ヒト?」
「食べるかい」
ディーはいつものように、木の小さい入れ物に入った鶏肉の匂いのする汁と鶏肉を差し出したのでジャックは急いで食べました。これは、鳥のうまみが口一杯に広がっておいしいのです。
ディーはその間中ジャックをじっと見ています。食べ終わるとジャックは満足して、口の周りや手をペロペロと舐めていると、ディーは言うのでした。
「君は猫なんだな」
***
翌朝、ジャックは蛇にやられた痛みがだいぶ薄れているのを感じて、ふかふかの草から起き上がって周りを確かめました。
ディーはの辺り一帯に木で壁を組んでいてその囲いは日差しを避けるように上の方まで続いているのでした。
ジャックは壁の外に出て見て驚きました。
「なんだこれは……」
外に出たと思ったジャックは、すぐに木で組んだ壁に突き当たり、木の壁で組んだ壁で囲まれた通路をどこまでも進んでも、いつまでたっても木で組んだ壁が続いています。
ジャックは迷路の中に閉じ込められてしまったようです。
しかたなく来た道を戻り、ジャックは枯れ葉に布を敷いたふかふかの草の上に戻りましたが、怖くて仕方がありませんでした。
少しそうして震えていると、迷路の奥の方から足音がしました。
「ディー」
ジャックは小さく声を出しました。
「ジャック、おはよう」
ディーはいつものように、おいしそうな鳥を背負っていました。
素早く焚き火を起こし、いつものように鳥を焼いたり、水の入ったうつわを火にかけて、鳥肉を温めています。
おいしそうな匂いが辺りに広がりますが、ジャックは無言でした。
「そら、食べろよ」
ディーが鶏肉と鳥の汁が入ったうつわを差し出しました。
「少し待ってからだ。熱いから。その前にこれを食べるといい」
ジャックは小さく言いました。
「……ありがとう。ディーも食べなよ」
ジャックは差し出された細い緑の草を、ディーに押し返してみました。
ディーは困ったように頭をかきます。
「これは」
ディーは草を一口齧り、プッと吐き出しました。
「僕にはおいしくないんだ。君の消化を助ける猫草だ。おいしくはないかもしれないけど」
ジャックは猫草を食べてみましたがおかしな味はしませんでした。
「ディー、君は僕を食べるの?」
猫草はさっぱりとした味で、起きたばかりのジャックにはちょうど良い爽やかさでした。
「食べないよ。僕は君を食べない」
「蛇もそう言ったんだ」
「あの蛇かい?」
「うん」
ジャックは鳥肉の匂いを嗅いで、そろそろとひと口舐めました。
少し熱いですが、もう食べられるくらいになっているように思い、はふはふと口に含みました。
少し熱いのですが、鶏肉のふわふわとした美味しい旨味が口の中に広がり、美味しい湯気がジャックを包み込みます。
ジャックはそれから、ぺちゃぺちゃと鳥の汁を舐めます。喉からお腹が暖かくなりました。
「痛かったかい?」
ディーからそう聞かれ、ジャックはこの前のことを思い出しました。
旅は寒くて辛くてお腹が空いて、けれどもジャックもお腹が空いたら鳥を狙うのです。
あの大蛇も、お腹が空いていたとしたら……。
「うん」
ジャックはそれだけ言いました。
森で長く生きる蛇。
凄い力でした。
「あいつを殺したの?」
ジャックは炎で鳥が焼かれるのを見ながら、ディーに尋ねました。
「あの蛇をかい?殺していないよ。僕は蛇を食べないからね。蛇は猫を食べるけど、助けたかった」
ジャックはうつわの中身を空にしました。
「ディーは色々知っているんだね。猫のことも」
ディーは悲しそうに笑っただけでした。
***
数日後、ジャックはすっかり元気になりました。
ディーはキャンプを解体する。と言って、荷物の中から美しい剣を取り出し、木で組まれた迷路の壁を真四角に切り裂きました。
「行こう、猫君」
ディーは木の壁を次々と四角に切り裂き、やがて元の森に出ました。
「ありがとう、ディー。僕はもう元気だから」
ジャックはディーにお礼を言うと、再び川の流れを下ろうとして、水の匂いがする方へ走ろうとしました。
「どこに行くのさ」
ジャックは足を止め、振り返りました。
「どこって、あてはないけど、川を下っているんだ」
「なぜだい」
「そうしたいからさ」
ディーの笑顔を見届けて、ジャックは元気よく走り出しました。
数日、おいしい鶏肉ばかり食べ、ジャックの力はみなぎっていました。
全身から勇気が沸き立つようです。
ジャックは叫び出したい気持ちを抑えて、足跡を消して、ひっそりと川沿いを下っていきます。
すると後ろから元気よく走る足音が聞こえました。
ジャックは後ろを振り返り振り返り進みましたが、やがて足音に追い抜かれ、ジャックがそれを追う形になりました。
二つの影が川をくだり、やがて夜になりました。
少し走ると、今朝と同じ笑顔でディーが待っていました。
「やぁ猫君、魚でもどうだい?」
***
「ディーも川を下っているのかい?」
「実はそうなんだ。この先の村に用があってね」
ディーが獲った魚は美味しく、ジャックは骨の周りのカリカリの部分をポリポリと音をさせながら聞きました。
「ムラ?」
「そう、人間の村さ。僕みたいな猿みたいなやつらだ。小さくて水の綺麗な村なんだけど、ひと月前から、ドラゴンが現れてしまって、村人を襲うそうなんだ。それを退治しにね」
「ドラゴン?オソウ?タイジ?それは蛇よりも凄いのかい?」
ディーの話すことはジャックには初めてのことばかりでしたが、ディーはひとつひとつしっかりと教えてくれました。
ディーは人間で困った人を剣技や力仕事で助ける仕事をしていて、次の仕事はこの川を下った先にあるムギルという村のドラゴン退治だということ。
ドラゴンは蛇と鳥を合わせたような怪物で、種類によっては凶暴で遊びのために人を襲うこと。猫は食べないこと。猫は生き物の中では、そうおいしくないこと。だけれども、どんな生き物も食べる大きい生き物からしたら、食べ物やおもちゃになってしまうこと。
そのために気をつけたほうがいいこと。いろいろ教わりました。
そしてディーは言うのです。
「ねぇ猫君、旅は道連れだ。君と僕が川を下る限り、一緒に旅してみないかい。この川は、聖なる七色の沼に繋がっていて、僕はそこを目指しているんだ。どうだろう?」
ジャックは頷きました。
***
「ジャック」
三日経った晩、先を歩いていたディーはジャックを呼ぶように声をかけました。
追いついたジャックにさらに続けて言います。
「ほら見えるかい?あれが村の灯りだ」
ディーが指差したほうを見ると、たまご色のぽわんとした光がぽつぽつと光っているまとまりがありました。あれが村です。
「見えるよ、綺麗だね。あれが村か」
「そう、金属の箱の中に小さな焚き火をいれて、周りが見えるように明るくしているんだ。さあ行こう。ムギルの村だ」
ふたりはムギルの村へと歩いていきました。
***
村に着くと、ディーは村長という人の家を最初に尋ねました。
村長はふたりを暖かく迎えてくれて、ジャックには暖かいミルクをくれました。
村はドラゴンに脅かされているにも関わらず、村の人は優しくて、生きる力を感じました。
少し休んで、村長はふかふかの寝床に二人を案内してくれました。
それはディーが作ってくれたふかふかの草よりもふかふかで、ベッドというそうです。
ジャックは初めてベッドに乗ってみて、すぐに瞼が重くなりました。
ドラゴンは毎日は来ないそうです。
やつは決まって満月の晩、村に降り立ち、村人が建てた小屋を壊したり、家の中から怯える人を引き摺り出し、食べることもせず、ひどい時は動けなくなるまで鋭い爪で弄ぶそうです。
ジャックはディーに尋ねました。
「ねぇディー。村の人たちは何故あんなに優しいの?ミルクもくれたし、諦めていないようだった」
ディーも眠いようで、むにゃむにゃと応えが返ってきたのでした。
「うーん……そうだな。……。たぶん、好きなんじゃないかな、この村が。お互いのことも……たぶんね」
ジャックには好きな場所も好きな人も特にいませんでした。いつか気持ちがわかる日がくるのかもしれません。
「ディーはいろいろなことを知ってるね……」
ジャックなふかふかな布団に吸い込まれるように、眠りに着きました。
***
翌日から、ディーは村の壊れた建物の修理の手伝いを始め、ジャックも木の枝に引っかかったネジなどを見つけたり、手伝えることを手伝いました。
ある村人は息子さんのお下がりの小さなベストをジャックに着せてくれて、それを着ると寒い風が背中を冷やさないのです。
ジャックは一生懸命頑張りました。
お昼ご飯も、夜ご飯も、温かいものを村の人が用意してくれ、朝は、ディーがパンケーキを焼きました。
「少しだよ」
と言って、ディーは蜂蜜をパンケーキに垂らしてくれて、それは金色にキラキラ光っていい匂いがするのでした。
村の暮らしは初めてのことばかり、覚えることばかりでしたが、ジャックはやれることを頑張りました。
いよいよ明日は満月の晩です。
ジャックは布団に丸くなりながら、ディーをチラリと見ました。
「明日、怖いかい?」
ディーは読んでいた何かをおいて、ジャックのほうへ寝返りを打ちました。
「怖くないよ。……もしもドラゴンが話の通じるやつなら、ちゃんと話すし、通じない猛獣なら、眠らせるか動けなくする。それだけさ」
ディーは立てかけた愛刀を見ました。
「ディーの剣は美しい剣だね。使い込まれた感じもするけど、美しい剣だ。僕には大きいけれど」
「そうかな。猫はしなやかで器用だし、ジャックならもしかして。持ってみるかい?」
「いいよ。もう眠いんだ……でもいつか……」
そう言いながら、ジャックは夢の世界に落ちていきました。
***
翌日、ディーとジャックは早起きして、朝ご飯をたくさん食べました。
それから二人で川に釣りに行き、お昼ご飯に魚をたくさん食べて、ぽかぽかの太陽の下、たっぷり昼寝をしました。
それから、晩ごはんには村の人と一緒に鶏肉をたくさん食べて、夕陽を見ながら村の周りを散歩しました。
山の向こうに夕陽が落ちていくのを、ディーとジャックは静かな気持ちで眺めました。
茜色に藍色が混ざり、紫がかった夜の訪れと共に、朽ちた金色の大きな月が夜空に浮かびました。どこか懐かしいような、謎めいたあの色を琥珀色というのだと、ディーは静かに教えてくれました。
「なんだか寂しい色だね」
ジャックは胸がきゅっとなるような、ドキドキするような不思議な焦燥感に駆られました。
「古い化石の色もああいう色なんだ。古い歴史と思い出の色だ。月もね。たまにああいう色をしていて、哀しいような苦いような気持ちになる」
「ディー、怖いって思うかい?」
「……本当は少しね。こんな月夜は特に。だけど……」
ディーは腰に下げた剣に手をかけ、辺りを伺いました。
「ジャック、龍は黒いものを追えない。ベストを脱いでこっちに渡すんだ。そして合図したらあの木に登るんだ」
ディーは夜空に向けて、剣を反射させ、ドラゴンに存在を知らせているようでした。
「それまでは僕の後ろを離れないで」
ジャックは言われた通り、ベストをディーに渡し、ディーの足元にピッタリと寄り添いました。
「ジャック、行って」
それは一瞬のことでした。
ジャックは振り返らずに目指す木に登り、木から見下ろすと、ディーの三倍くらいの黒い、大きな何かが地面にバタンバタンとのたうち回っているのでした。ジャックは息を飲み、枝にしっかりとしがみつきました。
グワーーー!という獣の叫び声が、琥珀の夜に響き渡ります。ディーは無事なのでしょうか。
痛い!痛い!と泣き叫ぶような獣の鳴き声は止むことなく、ジャックは悲しい気持ちになりました。永遠に続くような叫びは気が付いたら止み、ジャックの眼下には月の光と風の音の世界が静かに広がっていました。
気づくとジャックの爪は、木の枝にしっかりと食い込んでいました。外すのに苦労をしながら、ジャックは音を出さないように爪を外し、眼下の光景を見守りました。
獣は動いていないようでした。月の光を浴びたそれは、小さな丘のようにも見えました。ディーは無事なのでしょうか。
「ジャック!」
ディーの声がして、ジャックは素早く木を滑るように降り、もといた場所に走りました。
これを着て、村の人を呼んできてくれ。
「うん、大丈夫?」
ドラゴンの体は弱々しく上下しており、息があるようでした。
「大丈夫。眠り薬を打ち込んだから、直に眠る。行って」
ドラゴンは尾の先をディーの剣で地面に縫い止められているようでした。
「尾の先の方は再生するんだ。見た目ほど痛くない」
辺りにはドラゴンの血が溢れていて、甘いような苦いような、不思議な香りがしました。ドラゴンは眠り始めたようです。
ジャックはベストを素早く羽織ると、琥珀の夜を駆け出しました。
***
村人たちは待ち構えていたように、ジャックを迎えてくれました。
ジャックは村長に、ドラゴンは眠ったことを伝えました。
松明や大きな鉄球が付いた鎖、ジャッキ、大きな手押し車を皆んなで運んで、ジャックの案内でドラゴンの居場所に戻ると、ドラゴンはさっきよりも深く眠っているようでした。よく見るとドラゴンは尻尾だけでなく、背中や手足も怪我を負っていて、ディーはその血を拭うように、柔らかい草を当て、手当てをしている様子でした。
「痺れ草を当てていると思うので大丈夫だと思いますが、剣を抜くときに起きるかもしれないので下がってください」
村人たちはディーに大きな鎖を渡すと、言われた通りに距離をとりましたのでジャックもさっきの木の上に戻りました。ジャックの爪が食い込んだ跡が、月の光に照らされています。
ディーは鎖の先に付いた輪っかをドラゴンの足に付け、外れないように錠をかけました。
それからドラゴンの尾と地面を止めてある剣を素早く引き抜きましたが、ドラゴンは叫び声をあげ、それからまた動かなくなりました。
ディーの合図で皆んなでドラゴンを囲み、丸太を使ってドラゴンを何とか手押し車に乗せた頃には、空は白んできていました。
それからドラゴンは、村の側の洞窟の奥に収められ、入り口は金属の扉で三重に閉められたのでした。
***
「ドラゴンはどうなるの?」
次の日、お礼の会が開かれ、ジャックはあちこちで村人に囲まれたディーを探し出して聞きました。
「ジャック、楽しんでるかい?」
ディーは水のように透明な器に入った、琥珀色の飲み物を愉しそうに飲んでいます。それは、昨日の晩の月の色に似ていました。
「何を飲んでいるの?月の涙かい?」
「これはエールさ」
ディーはエールを一気に飲み干して、ふっと息をつきました。
「月の涙とは風流だね。ジャック、あっちに行こう」
ディーは人の波を離れて歩き出しましたので、ジャックもそれを追いかけました。
「ジャック、昨日は眠れたかい?おっと……」
二人は昨日と同じ色をした琥珀色の月の下の田舎道を歩いていました。ディーは手に持った水のように透明な取手のついた器を空にくるくると放っては掴み、放っては掴んでいました。
器の中から零れた雫から、甘いような苦いような香りがしました。
ディーについていくと、大きな家につきました。ディーはこれは蔵だと教えてくれました。
「こっちだ、ジャック」
ディーは蔵の中に入って行き、ジャックもついて行きました。
蔵の中は薄暗く、ランタンに灯りを灯すと、丁度、月明かりの夜のようでした。
ディーは一つの大きな樽を調べるように探り、蛇口を見つけて透明な器を蛇口の下に差し出して蛇口を捻りました。
蛇口からは香ばしくて苦い匂いの少し甘い香りのする泡が出てきて、それは時間と共に減って、液体に変わって行くのが面白いのでした。
入口から差し込む月の光に器を差し出すと、器の中の液体は昨日の満月と同じように、琥珀色に光ったのでした。
「綺麗だろう」
ディーは愉しそうに言って、それを飲み干しました。泡が器の縁にレースのような輪を描いています。
「うん」
ジャックもそれを飲んでみたくなりました。
「この村はね、エールの産地なんだ。猫はダメなんだけど、香りが好きかもしれないね。嗅いでみるかい?」
ディーは再び樽に着いた蛇口を捻り、透明な器いっぱいにエールを入れました。
差し出されたエールをジャックはさっと舐めてみました。
「あっ」
ディーは心配そうに器を引っ込め聞いてきましたが、ジャックの下はピリッと痺れ、応えることができませんでしたが、痺れはすぐに消えて、寂しいような苦味と、香ばしさと、ほんのりと甘い香りが不思議といい匂いでした。
「どうして猫のことを知ってるの」
ジャックは気になっていたことを聞きました。
「舌は大丈夫かい?」
ディーに水入れを差し出されて、ジャックはそれを舐めました。
「いい匂いだよ」
ディーは悲しそうに笑い、それはジャックが何度か見たことのある笑顔でした。
樽にもたれてディーは座り、ジャックはその隣で手を舐めました。
猫の舌はざらざらなので、ざりざりとした音がひんやりとした蔵の中に響きます。
「村の人が、今回の報酬で一樽くれたんだ。君には猫草とホップを」
「ホップって何さ」
「昔……。猫の家族がいたんだ。ホップはエールの材料の植物だ。香りが好きだった。リラックスできるらしくてね」
ディーはごくごくとエールを飲んでいます。
「ピリッとしないのかい?舌が痺れたけれど」
「それがいいのさ。ピリピリ舌が痺れて、苦くて。香りがよくてほんの少しだけ甘い。寂しくて優しくて、いろんなことを思い出してしまう」
ジャックは蔵の入り口の方から聴こえる風の音に耳を澄ませました。
水を口に含んでいると、舌の痛みはいつのまにか完全に消えていて、香ばしい、少し甘い香りがします。
「白い猫だった。桜色の鼻でね。……桜っていうのは、ピンク色の……君の舌を、もっと白で薄めたような綺麗な色でね。肉球もピンクさ。君の黒い肉球も格好いいけどね」
ディーに言われて、ジャックは自分の肉球をザリザリと舐めました。この村の土の匂いが少しします。
「僕はたぶん、君みたいだった。いや、君みたいにあろうとした。本当は僕は、生きるのが怖くて堪らなかった。でも、そんな時にね、出会ったんだ」
ディーは透明な器を空にして、また蛇口からエールを継ぎ足して器を一杯にしました。そして懐かしそうな顔でエールを一口飲み、樽に背中を預けて座りました。
ふぅーと大きく息を吐いたディーの体から、少し甘い香りがしました。
気がつくとこの蔵全体から、香ばしくて少し甘い香りがするような気がします。
「シロはね、ただ、生きてた。毎日。今のジャックみたいに、風の匂いを嗅いだり、日向で寝転んだり。美味しいものを食べたり。好きなことをやれる時にやりたいようにやる。それは普通のことではないんだ、たぶんね」
シロ、というのは、猫の家族のことかもしれないなとジャックは思いました。
「僕はねジャック、大人になることや、生きていくことが怖かった。生きる意味がわからなくて怖かったんだ。だけどシロに出会って、生きる意味なんてなくてもいいんじゃないかって思ったんだよ」
「ディー、オトナってなんだい?」
ディーは楽しそうに笑いました。
「何だろうね」
いつも、色々なことを丁寧に教えてくれるディーですが、この時ばかりは楽しそうに笑うばかりで、答えはありませんでした。ディーはもしかして、今もオトナになる途中段階なのかもしれないとジャックは思いました。
「オトナになりたいって今は思うかい?」
ジャックの問いにディーは真面目な顔になって言いました。
「なりたい時も、そうでない時も。でも今は、秘密基地みたいな場所でいい気分でエールを飲んで……」
ディーは大きく伸びをして、蔵の床に大の字になって寝転がりました。
ジャックは、なぜか、ディーが泣いているように思いました。
「ジャック、ここに乗ってくれないか」
ジャックは頼まれた通り、そっとディーのお腹の上に乗りました。
ディーのお腹は呼吸に合わせて上下してましたが、悪くない気分でした。ディーの手が、少し震えながら伸びてきて、ジャックの額にそっと触れました。
少し、ビクッとしましたが、なぜかジャックの喉はゴロゴロと震え、ディーは安心したように息を吐きました。
ジャックはお腹の上でグイッと伸びてみて、仰向けになろうとしましたが、お腹の上はバランスが悪かったので、ころりと転がり、ディーの腕と体の間に収まると、背中はヒヤリとしましたが、頭をディーの肩に乗せるとなんだかちょうど良かったのでした。ディーはまた泣いているようでしたが、ジャックは気にせず頭の位置をさらに調節して、ディーにお腹を摩られると安心した気持ちになったのでした。
そしてディーはまた大きく息を吐いて、ジャックを膝に乗せて床に置いた透明な器を掴みました。
「うまいよ、本当に」
ジャックはディーがどんな気持ちなのかわかりませんでしたが、ディーがごくごくと喉を鳴らしてエールを飲む音を静かに聞いていました。
飲み終わるとディーは蛇口の蓋をしっかりと閉め、村に戻ろう、と言いました。
蔵の扉もしっかり閉じて二人は月夜の道を歩きます。
空の透明の器はジョッキということをジャックは聞きました。
それは月明かりをピカピカ反射して、いつまでもいい匂いをしていました。
「この村の人たちの生きる意味は、おいしいエールを作ることなんだ」
ディーは独り言のように空を見ながら言いました。
「意味があるっていうのはどうしたって格好いい。苦労してもがいて、諦めず、苦しい時も前を向いて……だから憧れる」
ジャックはディーの視線の先を見つめました。
「だけど、エールと同じ色をしたあの月も、誰の目にも美しいのさ」
ジャックはディーの言うイミがわかる時がくるのかもしれませんし、わからないかもしれません。
けれども、ジョッキにピカピカと反射する、銀色のような、金色のような光も、空に浮かぶ月も美しくて、寂しくて、苦くて少し甘いような不思議な気持ちがしたのでした。
***
翌日二人は昼くらいに起きて、夜はまた村の人たちとご馳走を食べて、ディーはまたエールを飲みました。
ドラゴンは7日後に、もっと大きい、村よりも大きい、クニというところからヘイシという人たちが迎えにきて、群れに戻す計画になったとジャックはディーや村の人たちから聞きました。
「あれは子どものドラゴンなんだ。砂漠に棲むイエロードラゴンと言って、群れで暮らしているはずなんだけど、はぐれたんだろう。ちょうど、彼らの血は何故かエールのような匂いがするのさ」
***
それから七日、ドラゴンは無事に大きな馬車へ積まれ、砂漠の国へと旅立っていきました。
「付いて行かなくていいの?」
「運ぶのはできないからね。兵士に任せるさ」
「初めから兵士に任せるのはダメだったのかい?」
ディーは七日で樽の中のエールをほとんど飲んでしまいました。今日も蔵の中で、残り僅かとなった琥珀色のエールを大事そうにジョッキに入れ、味わうようにゆっくり飲んでいます。
村の人から、ジャックは猫で、なおかつまだ小さいから飲まないほうが良いとも言われましたが、大人になったら飲めるかもしれないとも言われました。
大人というのは、自分のことを自分で出来て、なおかつ、自分が知っていることを他の人に教えたり、周りを許したりすることができる生き物のことだと、村長がある時教えてくれました。
なるほど確かに、ディーは色いろなことが出来るし、色いろなことを教えてくれます。だけど、村の人に色いろしてもらったり、教えてもらったりもしていますし、エールを飲んでふらふらと楽しそうに転んでしまったりもします。ディーは大人の時もあるのかもしれませんが、大人ではないのかもしれません。
とりわけ、エールを飲んだ時のディーはだいたい楽しそうに、世界は知らないことばかりだ。と笑うのでした。
もちろんジャックも大人ではありません。ですが、ホップの香りはジャックも気に入っていて、サシェにして持ち歩いていました。それの香りと共に村人たちと話していると、すごくリラックスもできましたし、不思議と一緒にエールを飲んでいるような仲間のような気持ちが感じられるのでした。
「ふむ……まぁ確かにこの村は小さいけど……エール産業で蓄えはあるからね。でもここの人たちは子どものドラゴンは食べないのさ。無益に子ドラゴンを脅かしたり傷つけないように僕が雇ってもらったわけさ。きっとね」
「食べたらおいしいのかい?」
「どうだろうね」
ディーはエールを静かにすすり、チーズという美味しいもちもちした食べ物を口に含んで、ジャックの口にも入れてくれました。チーズはもちもちして、少しキュッとして、不思議な匂いがいつまでも口の中に残って、おいしいのです。それに、ホップの香りと似合うような気がしました。
「ドラゴンか……僕は食べたことがないんだ。ドラゴンは希少な……珍しい生き物だし、本来は狩ってはいけないんだ。人や自然や、他の生き物に害を与えた時にだけ、退治してもいいことになっていてね。ドラゴンの肉を食べると、若返りの効果があるみたいだし、ドラゴンの血は、採り続けると永遠の命、いつまでも死なない体になると言われているけどね」
「エールと一緒じゃ。エールも百薬の長と言われておる。お前さんたち、こんなところにいたのか」
村長が青白く光るランタンを持って、蔵の入り口から入ってきました。穏やかな気持ちになってジャックは目を細めます。
どこかでみた、美しいツリガネソウの花畑をジャックはなんとなく思い出していました。
「見事なランタンですね。こんな繊細な光はなかなか見ない」
ディーの賞賛に、村長は嬉しそうにするわけでもなく、代わりにランタンを高く上げ揺らしました。
「年寄りの道楽だよ。なんじゃ、樽を空にしてしまったのか。残りはお前さんの家に送ってやるつもりじゃったがな」
「家はありませんから。美味しかったです」
「流れの傭兵も多いと聞くがな。しかしお前さんの名前は良く知っていたよ。本当にあんなもんでいいのか。昔は百小隊を雇うより難しかったと聞くが……」
「ムギルエールが好きなんです。それで」
ディーは名残惜しそうにジョッキのエールを飲み干しました。
「それは嬉しいのう……。もう一樽、どこかの城にでも送るか。次はどこへ行くんじゃ」
「決めてないんです。また来ますよ」
ディーは大きく伸びをして、エールの樽の蛇口をぎゅっと閉めました。
「ごちそう様でした!」
ディーは笑顔いっぱいの大きな声で村長にお礼を言いました。
「……何をいっておる!今夜はお前さんらの送別会じゃ、主役がおらんでどうする!今夜はムギル秘蔵のエールを蒸留したウィスキーも振舞われているんじゃ。早く戻らにゃあ、それ」
「いいですね」
ディーの目は輝き、ジャックはそんなディーを見て楽しい気持ちになりました。
「猫にはスモークチーズじゃ、それそれ」
「ニャアー」
もちもちのチーズを想って、ジャックは思わず声が洩れました。
蔵の扉を閉めて、村長が持つ青白いランタンの光の中、三人は村の中心の広場に向かいます。今夜の空には青白い小石みたいな楕円の月。
光の下で、ディーとジャックはムギルの村の歴史を聞きました。村長の家族の話も聞きました。
この世界は知らないことばかりだ。
ディーの言葉が頭に浮かんで、ジャックは村長の話を心に刻んだり、風に流したり、たくさんの話がわくわくする日の風の音のように、ジャックに沁み込んでいく気がするのです。
ディーも嬉しそうだったり、大人のようだったり。
そんな三人をそっと楕円の月が見ているのでした。
***
ムギルの村を出るのは翌々日になりました。
昨日は雨が降っていたせいか、ディーはずっと布団に伏せていて、ジャックも昨晩、お腹いっぱいに魚やチーズを食べ、雨の音を聞きながら眠っていたい気持ちだったのです。
雨は、冷たくて悲しいものでしたが、今日の雨は穏やかで優しくて、あったかいように感じられました。
村長も部屋で布団に入っていたので、村長の奥さんがディーとジャックにあたたかいスープを持ってきてくれた以外は二人はずっと布団にくるまってうとうととしていました。
夜、やっとめざめたディーは、ジャックを誘って村長の家の雨上がりの裏庭に行きました。
地面が雨で濡れていて滑るせいか、ディーは心なしが足元がふらふらしているように見えましたが、軽く走ってみせたり、剣を振ったり、次第にいつものディーのようになりました。
ジャックは木の上でそれを見たり、ジャックも少し走ってみたりしていると、次第にぼんやりとした気持ちがすっきりとしてきたのでした。
「ジャック」
体をくるくると回転させながら、ディーがジャックを呼びました。そして、持っていた剣をさっと鞘に納めると、ディーはジャックが登っていた木の枝を見ながら、こう言うのです。
「これをジャックに」
ディーは腰につけた革袋から、小さな剣を取り出しました。
小さいといっても、それはジャックには大きくて、ジャックの体くらいの長さの件でしたので、ジャックは木から降りてそれを受取ろうとして、剣を落としてしまったのでした。
「握るのが難しいや。でも思ったより軽いんだね」
ジャックはディーがそうするように、剣を持ってみました。
初めはうまく握れませんでしたが、剣の柄はジャックが握れるくらい細くなっていたため、肉球にうまく挟まるのです。それに、柄にはギザギザの模様がつけられていて、そこに爪を食い込ませると、しっかりと持つことができたのでした。
「どうだい」
「うん、しっかり持てたみたいだ。どうしてこれを?」
ディーは革袋から更に何かを取り出して、ジャックの背中にくくりつけました。
「鞘はこれなんだけど、ジャックには背中に背負うのがいいと思うんだ。よし、これでいい」
ジャックはきょろきょろと首を振って背中を確認しました。革の細いふくろが取付られているようでした。
「村の人と、僕からだ。今回の報酬として。龍の鱗で作った剣はね、貴重なんだ。だいたいの者は貫ける。たとえば……」
ディーはジャックから剣を受け取り、地面に転がった石を放り投げました。
そして落ちてくる石をこなごなにしてしまったのです。
「わぁ……」
ジャックは剣を受け取り、落ちている石にぶつけてみましたが何も起こらないのでした。
「きっとコツがあるんだね。ディー、ありがとう。やってみるよ。今日もウィスキーを飲むのかい?」
ディーは心なしか青い顔になったようでしたが、すぐに笑顔になって言いました。
「今日はやめとくよ。もどってスープをいただこう。明日はきっと晴れるはずさ」
ジャックはディーに手伝ってもらって、剣を鞘に納めました。
それから、鞘の外し方とつけかたも聞いて、布団に戻りました。
ディーが眠りについてから、ジャックは自分の剣をとりだして、窓から入る月明かりの下でしげしげと眺めました。
剣は魔法がかかったように、光っているようにも思えましたし、龍をつないだ鎖のように、冷たい金属のようにも思えました。
龍の黄色の鱗の色が、磨かれ、削られ、月の光を浴びて、それは金色のように光っているようにも見えました。
「どこかで見たことがあるな……」
ジャックは思い出して、自分の前足の爪を光らせてみました。
久しぶりに輝いたその爪は、力をこめると、輝く黄金の満月のように美しい光を放ち、力を弱めると、ちょうど、月の光を浴びた龍の鱗の剣のような色をしていました。
「ジャック、なんだいそれは」
ディーが眠そうに目を覚まし、ジャックに尋ねました。
ジャックはこの爪の光と大蛇のことをディーに話しました。
「猫ってこうなのかい?」
ジャックの質問に、ディーは首を捻りました。
「どうかな……シロにはなかったように思うけど。美しいね」
ディーは夜空を見上げた時のような表情でそう言ったのでした。
「ありがとう。……生き物は、美しいものを求めるのかい?」
ディーは起きてきて、ジャックの隣に座りました。
「そうだね。時にそれで争いが起きることも……。でもジャック、君はどう思う?その爪が嫌いかい?」
ジャックは爪の光を見つめました。
「……いや、嫌いではないと思う。忘れていたけれど。でも」
ジャックは力を弱めたり、強めたりしてみて、それを美しいと思ったのでした。
「なんだか、僕の剣に似ているって思ったんだ、ほら」
爪の光を弱めると、しんしんとした金色の光がジャックを包んだのでした。
「本当だね。それに君の目にも似てる気がする。シロもね」
ディーは首にかけた紐のようなものを取り出し、その先には満月のような金色の石がついていたのでした。
「強く光らせた時の金色の光が、君の目にそっくりだと思う」
ジャックは、きっとシロの目もこんな金色だったのかもしれないと思いました。
「まさかそれはシロの目かい?」
「まさか」
ディーは首から紐を外し、ジャックに見せてくれました。
それは少しひんやりしていて、確かに、天気の良い日の川の水面に映ったジャックの目の色と似ていると思いました。
「買ったんだ。たまたま見つけてね。熱い国だった」
ディーは懐かしい出来事を思い出すように、目を瞑りました。
「シロは……」
なぜいないのか、という質問をしようとして、やっぱりやめたのでした。
「クニっていうのは、村がいっぱい集まってできた大きい村だって言ってたけど、クニもいっぱいあるのかい?」
その代わりに、ジャックはクニについて聞いたのでした。
「そうだよジャック。熱い国や、宇宙に近い国、花が美しい国や、果実のお酒が美味しい国もある」
「ディーは全部のクニを見たのかい?」
「まさか!ジャック、世界は広いんだ。僕も知らない国はたくさんある。ジャックはどんな国に行ってみたいと思う?」
「チーズの美味しいクニかな。あるかい?」
「あるとも」
ジャックはディーの行ったことのあるたくさんの話を聞きました。それは、ジャックの心をわくわくさせるものばかりで、ジャックは色んな国に行ってみたいと思いました。けれども、ジャックの心には一つの思いが出てきたのです。
「色んな国があるんだね。行ってみたいところばかりだ。でも」
楽しそうに話していたディーは、真剣な顔でジャックを見ました。
「綺麗なものを見たい。綺麗な景色を。聖なる七色の沼を見てみたいんだ」
「七色の沼はね、ジャック」
ディーは窓を開けました。
涼しい風が部屋の中に入ってきて、村の土の香りがほのかにしました。
「おとぎ話って言われているんだ」
ディーは布団に座り、ジャックもベットに飛び乗りディーの横に座りました。
「オトギバナシ?」
「魔法のような、空想上のお話ってことだ」
「本当にはない話ってことかい?」
「うん、この川はねジャック。この世界で一番果てしない川だって言われているんだ。まだ流れの先に辿り付いた生き物はいないんだよ」
「そこに辿りつくことが、ディーの生きる意味なのかい?」
ディーは驚いたようにジャックの瞳を見つめました。
「……」
ディーはしばらく何も言いませんでした。
聖なる七色の沼は本当にないのだろうか。もしもあったならどんな景色なんだろうか。ジャックはそんなことを考えていました。それは月よりも綺麗なのでしょうか。
「ジャック……もしも、もしも聖なる七色の沼が、無かったら。無かったらどうするんだい?」
ディーは不思議なことを聞くなぁと思いながらもジャックは応えました。
「なかったら考えるよ」
ディーは笑いました。
「そうか」
ディーは布団に横になりました。ジャックは剣を鞘にしまって、自分も布団に丸くなります。ディーはすでに寝息を立てているようでした。
ジャックはディーに聞いた、流星の丘やオーロラの輝く夜空、それから桜も見てみたいと思いました。
桜色ってどんな色なんだろう。
ジャックは楽しい気持ちで眠りについたのでした。
***
翌日は快晴でした。
村の人は村の出口までディーとジャックを送ってくれて、食べ物もたくさん持たせてくれました。
村長は、いつでも待っているといってくれましたので、ジャックはまたチーズが食べたいと言うと、村の人達は笑顔になったのでした。
それから二人は、川を下りました。
川上から川下へ、川沿いを伝って、ディーとジャックは旅をしていました。長い、長いこの川のように、長い、長い旅になるように思いました。
川には魚がいて、ディーとジャックは魚を捕りながら、それを食べて暮らしていました。
旅には色いろなことがあります。
時には新しい村に立ち寄り、仕事を受けて、ジャックも少しずつ手伝いました。
大きい村に行くことも、お城に行くこともありました。
かくして、ディーとジャックの旅は、楽しいものでした。
ある時ディーとジャックは言いあいました。
「そろそろ一休みしよう」
それは冬が終わり、花が芽吹き、ぽかぽかと心地よい春の日でした。
二人は川沿いの広い草原の隅に、小さなテントを張りました。
のんびりと釣りを楽しんで、釣れた魚をたき火で焼いて食べます。
ジャックは魚釣りも、水に浸かって魚を獲ることも上手になりましたし、森で鳥を捕まえることもうまくなりました。
それから、食べられる植物のことも知りましたし、春には、たくさんの美味しいやわらかい葉っぱや山菜、いい匂いのハーブが色んなところに生えていました。
ピンク色もどんな色かわかりました。夜と朝の間に、空が優しいピンク色になることも知りました。
色いろな村に寄り、色いろな生き物と出会い、色いろな仕事をして、今日はお休みの日でした。
ディーとジャックはお腹いっぱいに魚を食べて、イチゴを口に含み、それから草原に横になり、夜を待ちました。
この辺りは星が綺麗に良く見える。もちろん月も。とディーは言いました。
二人は何もせず、風に吹かれて夜を待ちました。
夕日の草原で少し眠り、紫色の夕べが通り過ぎ、やがて夜がやってきました。
可愛らしい満月が夜空にぽっかり浮かびます。
しばらくしてディーは起き上がり、焚火の火を消しました。
そうすると、月はさらに輝いて、辺りをきらきらと照らすのでした。
心地よい風が通り過ぎ、焚火の残り香が漂う夜空は、明るい満月と、うっすらとした星の光で、きらきらとしたもやがかかったようでした。
「ジャック」
ディーは起き上がり、手の平をくるくると動かしています。
「テントを見て、ほら」
ジャックも起き上がり、テントを見ると、月に照らされて影ができて、ディーの動きに合わせて色いろな形に変わっていきました。
猫、うさぎ、蝶、オオカミ、きつね、白鳥。
ジャックも前足を動かしていろいろな形を作ってみました。
にわとり、さかな、チーズ。山、川、月。
それから、月に照らされた影たちは、場所や、時間によって、色いろな形に変わっていくことも、ジャックは面白いように思いました。なぜこんなことが起こるのか、不思議です。
自分の影も、さっきは近くにいたと思えば、風の匂いに身をゆだねたり少ししたりして、ふと気づくと、遠くの方に伸びて、すごく背の高い猫の姿になっていたり、少し辺りでランニングを楽しんで、ふとみると、まるで猫には見えず、ほかの生き物、たとえば鳥のように見えたり、木のように見えたり、逆に、空を行く鳥の群れの影が猫のように見えたり、木の影が生き物のように見えたり、形が変わって行くことも、ジャックには不思議で、面白く思えました。
「僕は猫なのに、影は猫じゃないなんて、不思議だね。ねぇディー、ほら、耳の部分が、僕自身はとがっているのに、今の影は、全体が丸くなっていて、まるで遠くに見えるあの山のようだよ。僕は猫だけど、山とも似てる部分があるかな。山は大きくて、雄大で、僕にもそういう部分があるのかもしれないよ」
「猫と山か……」
ディーも月の光の中で、寝転んだり、宙返りをしたり、草笛を吹いたり、穏やかに過ごしていました。
「そうかもしれないな。猫の後ろ姿も、山のように見える時もあるし、石のようでもある。哲学的だね」
「哲学って、考えることだろう?」
「そうだね、猫の得意なことさ」
ディーは悲しそうに笑った気がしました。
ジャックはしばらくの間、月の下で不思議な気持ちになったり、面白く思いながら、影の形を観察していました。
それから月は、ものに色いろな影を生み出すだけでもないように思いました。
月は、その光を浴びたものの姿を美しくさせるのです。
自分の毛並み、瑞々しい木の表面、真っ白い花びら、青々と生える草。
空を行く鳥の羽、風の中を舞う木の葉、輝く水面。
月に照らされたあらゆるものは、昼間とは違った色で輝きます。
ジャックは、月の光に照らされた色いろなものや、風景を見て、世界の美しさに感動し、幸せに思うのでした。
「それにね、ディー」
ジャックは思います。月は、その日によって、色いろな色で輝きます。
ふんわりとしたたまご色。
神様がおりてきそうな神秘的な白い色。
ジャックの瞳と同じ、金色の日もあります。
何通りもの色が、月の世界からジャックのいる世界に降り注ぎ、ものや、景色の色を変えたり、光らせたりします。
「月はなんて不思議で、なんて綺麗なんだろう」
世界が月の光で輝く時、ジャックは何もせずに、ただ、その風景を眺めます。
そうしていると、心が穏やかになって、旅の疲れがなくなっていくのでした。
ジャックは特に、川や湖や、沼に映る月の光が好きでした。
月の光が降り注いだ水面は、空の星にも負けないくらいの美しさで輝きます。
時々木の葉が落ちたり、魚が跳ねたりすると、水面がゆれて輝きが広がっていきます。
水面が静けさに包まれる風のない夜は、空へ向けて跳ね返る優しい光を、ぼんやりと見つめます。
水面に映った月は、空に浮かぶ月の姿をそのまま映したようにはっきりとした姿の時もあれば、ゆらゆらと水面に光が伸びて、水に光が溶けているようなあいまいな姿の時もあります。
そんな月の光を眺めては、ジャックは色いろ空想したりするのでした。
「ディー、さっきから川の中に月のドロップが見えるよ。あれをすくって、一口なめたら、きっと甘くておいしいに違いない。ハチミツみたいに。でも酸っぱくて、すっきりする味かもしれないよ。とても爽やかな色だもの。昨日は、水面に月の道ができていたのを見たんだ。あの光の道を辿って、月まで辿りついたら、きっと素敵だろうな」
ディーは、まだ悲しい空気を纏っているようでした。
「その道を辿ったら、聖なる七色の沼に辿りつけるのかもしれないな。シロの居場所にも」
ディーの表情はわかりませんでしたが、泣いたりはしていないようでした。
凪いだ月の湖。
今のディーはそんな風なんじゃないかとジャックは思いました。
「ねぇディー。月は、その日ごとに形を変えてさ、色いろな形になると思うんだ。丸い形は、おまんじゅう。楕円の形は、草原に横たわる羊の背中。ふわふわの。三日月は、笑った時のウサギの口の端の形に似ている。月の形は、たくさんの形を持っていて、色いろなことを思い出すと思うんだ。綺麗なものも、楽しいものも。悲しい日の月も。色いろなことが頭の中に巡るのが月だ、きっと」
ジャックは日ごとに変わる月の形を見て、美味しいものを思い出したり、気持ちの良い心地を思い出したり、楽しい気持ちになったりするのでした。でも今は……。
「女の子の猫だったよ。でもいなくなってしまった。猫っていうのはね、ある日、いなくなってしまう。それが猫だ。それでいい。あの子はどこにいたとしても、幸せでいる。あの子のいる世界を守る。あの子のいる世界を知る。それが僕の生きる意味……。きっとね。約束したんだ。いつか一緒に聖なる七色の沼を見に行こうって。シロも言ったよ。無かったらその時考えるって」
「探さないの?」
ディーは驚いたように、問いかけたジャックの瞳を見つめました。
「探す?」
「シロのこと。でも、探しているのかい?」
ディーは世界中を回っています。ジャックは、ディーがシロを探しているような気がしていました。
ディー夜空のハチミツのような月を見て、ため息をつきながら草原に寝転びました。
「……そうなのかもしれない。でもね、ジャック、いいんだ。あの子が決めたんだと思う。家族だから、わかるんだ。あの子のタイミングだったんだ。でも会えるなら」
「僕も探すよ、ディー。シロはどんな子なの」
ディーはシロのことを色いろ話してくれました。
時々嬉しそうに、時々悲しそうに。そして、幸せそうに。
シロは、ディーをたくさん幸せにしたのです。ディーもシロを幸せにしたに違いありません。ジャックは家族について考えました。
家族は、認めるもの。一緒に過ごして、過ごした思い出とかけらを月の光のように優しく纏って、纏った光とずっと一緒に前に進むもの。ジャックはそう思いました。
シロに会いたいと思いました。
シロにはジャックが、自分もそういうところがあるなと思う部分もいくつかあって、自分とは違うなと思うところもいくつかありました。
シロはディーを大切に思っているように思いました。
ひとしきり話したディーは、シロに会いたい、と言いました。だけど、いいんだ、とも。
「ディー、僕は僕のために、シロを探すよ。僕の人生のどこかで、もしかしたら会えるかもしれないんだ」
「そうか」
ディーは消えそうなほど優しい表情で、今日の淡い星の光のように笑ったのでした。
***
それから二人は、また旅を続けました。
しかしある時、ディーは急に、この先には進まない。そう言いだしたのです。
ジャックは不思議に思って、ディーに理由を尋ねましたが、ディーはここからは迂回して川の先を目指すと言いました。
ジャックは賛成するふりをして、川の流れに沿って走り出しました。
「ジャック……!」
ディーはジャックを追いかけてきました。
「ディー、なぜだい!」
ジャックは何か予感がして、走るスピードを上げました。
「ジャック、待つんだ、そっちは……」
ジャックは猛スピードで走りました。すると、ほんのりと甘い、新しい新緑の匂いがふっとしたかと思うと、目の前に素晴らしい若緑色の並木道が現れたのでした。
「村だ…」
並木道の向こうに、小さな村が見えました。
「ディー、村があるよ」
優しい命を感じる、緑の並木道の向こうに、赤や黄色の屋根を乗せた白い家々が並び、美しい景色が広がっています。
ジャックは村に向かって走りました。
「ジャック……!」
ジャックの足は随分と速くなっていました。
ディーはジャックを止めようとしましたが、するりと抜けて、木漏れ日が射す川沿いの並木道を剣を背負った黒い疾風が通り過ぎます。
村の入り口でジャックは立ち止まりました。
村の道はレンガで舗装されていて、入り口から真っ直ぐ伸びる可愛らしいレンガの道は、丘の上の風車小屋に通じています。
ジャックは何かに呼ばれるように、風車小屋まで走り抜けました。
「ジャック…………!」
ディーは息を切らし、ジャックの後ろに追いつきました。
丘の上からは可愛らしい町を見下ろすことができます。
「ディー、素敵なところじゃないか」
そしてディーが口を開きかけた時、丘のしたから登ってきた村人が持っていたパンを落として驚いたように言いました。
「ディー……なのか……?ディー!」
***
「ジャック、行こう」
ディーは村人を見なかったようにして、ジャックを抱えあげ、丘を降り始めました。
村人はパンにつまずいて、ディーを追いかけてきました。
「ディー!ディーなんだろ!待て!」
ディーは何も聞こえてない様子で走り出しました。
「ディー!待て!……頼む!ディー!」
その声に、いくつかの家々の扉が開きました。
「ディーなのかい!?」
「ディー」
次々と村人が現れて、ディーは観念したように立ち止まりました。
ディーは俯いたまま、ジャックをレンガの道の上に下ろします。
「ねぇ、シロなの?」
若い村人がジャックに尋ねます。
「僕はシロではありません。ジャックです」
気づけばジャックも村人に取り囲まれていました。みんな気遣うように、心配するようにこちらを見つめています。
「ディー、お帰り」
ムギルの村の村長に似たおじいさんが、優しく言いました。
「長旅で疲れているんだ。家で休むから」
ディーが静かにそう言うと、村人たちはこちらを見ながら、家へと帰って行きました。
「ジャック、こっちだ」
ジャックは俯くディーに着いていったのでした。
***
「ポルケの村、それがこの村の名前さ」
風車小屋から少し先に行った森の中に、ディーの家はありました。
ディーは悲しそうに、少し懐かしそうに家の扉を開け、暖炉に火を起こしました。
家の中は綺麗で、誰かが掃除をしてくれていたのかもしれないとジャックは思いました。
「飲むかい?」
ディーはリュックの中からスキレットを出し、昨日捕まえた鶏肉の残りを茹でて、そのスープをジャックに差し出しました。
「ありがとう」
ジャックは木のカップを受け取り、冷めるのを待ちます。
ディーは背中を丸めて、スープを飲んでいました。
その隙にジャックは小屋の中を眺めます。
小屋は広い一部屋で、暖炉、かまど、木のイスとテーブル、居心地の良さそうなベット、なんでもありましたし、ジャックのサイズにちょうど良いクッションが床のあちこちに置いてありました。
それから部屋の真ん中に木て作った作り物の木があって、それは天井まで続いていて、その木を登ると、天井にはジャック一人が通れそうな木でできた道がいくつも張り巡らされているのでした。
ジャックは、ディーがなぜこの村を迂回して旅を続けようとしたのか、なんとなくわかった気がしました。
「ディー、ごめん」
「いいさ」
ディーは窓の外を眺めています。
窓からはちょうど丘の上の風車小屋が見えました。
「ディー!」
バタンと扉が開き、風車小屋の前で出会った村人が勢いよく入ってきました。
「今までどうしてたんだ。村に金だけよこして……」
「レッド」
今度はディーは返事をしました。
「シロは……みつかったのか。帰って……くるのか」
ディーは返事をしませんでした。
レッドは構わず、自分も椅子に座りました。
「食うか。少しだぞ」
レッドはフワフワのパンをジャックにくれました。
ジャックはパンを食べたのは初めてでしたが、フワフワでおいしいのでした。
「ちゃんと猫が食べられる配合にしてある。うまいだろ」
レッドは嬉しそうに笑いました。
「それで、今何してる。何年ぶりだ。……シロは見つかったのか」
「シロは生きていれば二十歳を超えてる」
ディーは窓の外の風車を眺めたまま言いました。
「ジャックって言うんだ」
ディーに突然名前を呼ばれ、ジャックはパンを食べるのを休んで、レッドに言いました。
「ジャックです」
「レッドだ。ディーの……幼馴染ってわかるか、友だちだ。風車小屋で粉ひきをしている。なんだ、ジャックお前小さい頃のディーみたいだな」
レッドはジャックの背中に背負った剣を見ていました。
「ディー、俺はシロは生きてると思っている。シロのパンも毎日作っている、欠かさずな。みんなもだ。だから諦めるな、シロはきっと……」
ディーは立ち上がって外に飛び出しました。
***
「ディー!ディー!」
ジャックはディーを追いかけました。
ディーはずんずんと森の中に入っていきます。
「ディー!」
森を抜けると、そこは川に繋がっていました。
美しいせせらぎのきらきらとした川です。
ディーは仔猫のように、川べりにある大きな岩の上で丸くなっているのでした。
「ディー……」
ジャックも岩に飛び乗りました。岩は太陽が当たって少しあったかくなっていましたが、ひんやりとして気持ちがいいのです。
「ニャァ」
ジャックは小さな声で鳴きました。
ディーは動きません。
「ディー……。この村は」
ジャックは思いました。
「ねぇディー、みんなシロのこと、大好きなんだね」
ディーはジャックに、猫の命の長さのことは話してくれたことはありませんでした。でもジャックは旅を通じて、少しの字を覚え、それからたくさんの人と話す中で、猫の命の長さを知っていました。
「ここは気持ちがいいね。鳥を追うにも良さそうだ」
ジャックの獲物となるような小鳥たちも、過ぎた春を惜しむように、せっせと虫や木の実を食んでいるのでした。
「ジャック、奇跡は起こると思うかい?」
「きっと起こると思うよ。きっとね」
ディーは寝転んだまま笑いました。
「ジャックがそう言うなら、そうなのかもしれないな。ねぇジャック、奇跡っていうのはね。新月の夜のようなんだ。想像できることを超えて起こる、最高に幸せな結末さ」
新月と聞いて、ジャックの耳はぴくりと動きました。何も見えない新月の夜。怖くて動けなくて、自分がわからなくなって。けれどもディーは新月を幸せなことのように言いました。
「新月は幸せなのかい」
ジャックは尋ねました。
「そうだ」
ディーは川の流れを見ていました。
「ジャック、闇はね、何もかも隠してくれる。悲しい気持ちも、忘れたい過去も。だけどその闇の中には、自分だけの思い出がある。幸せだったことも、楽しかったことも、自分だけの大切なことは、闇の中にあるのさ。ジャックの毛並みと同じ色だ」
ジャックは自分の毛並みを見つめました。夜空のようにつやつやと光って、ふわふわで綺麗だと思いました。
「夢みたいなもの?」
ジャックは気持ちのよい昼寝をするとき、だいたい夢を見ていました。
月夜の夢や、ムギル村のこと。それからディーと一緒に果たした仕事のことや、おいしいチーズの夢です。そういう夢を見たあとは、いいことが起こるのでした。
「そうかもしれない」
ディーは体を起こして川面を見つめました。
「ジャック、村を案内してもいいかい」
***
それからディーとジャックは、しばらくの間、村で暮らしました。
熱い夏は川に入って涼み、秋には山でおいしいものを獲り、やがて二人が出会った冬がきました。
村の人達はみんな優しくて、ジャックに色いろなものをくれましたし、色いろなことを教えてくれました。
ディーにもさらに色いろなことを教わって、ジャックは村の学校にも通いました。
寒い冬もポルケの村の暮らしは温かく、これが家族なのかもしれません。
ある時ディーは、村の入り口の並木道が桜であることを教えてくれました。
春には花見をしよう、二人はそう約束したとおり、桜の花が咲くと、連れ立って並木道を歩いたのでした。
ジャックは桜に感動しました。
それは空のピンクとも他の花のピンクとも違って、ほんのり温かいピンク色をしていました。
「ねぇジャック、この村が好きかい?」
桜舞う並木道で、ある時ディーが言いました。
「もちろん。みんな優しいし、家族みたいだよ」
ジャックははらはらと落ちる桜の花びらを追いかけて、右へ左へと飛び回っていました。
その様子をディーは嬉しそうに見ています。
そして独り言のようにこう言ったのです。
「なんだかさ、猫のような人生だったな……。だけど戻ってこれた」
「え?」
桜の花びらに夢中になっていたジャックには、ディーの言葉が聞こえなかったのでした。
「ジャック、旅は楽しかったかい?」
「どうしたのディー」
ジャックはディーに駆け寄り、尋ねました。
「そろそろ旅に出るのかい?」
「いや……」
ディーは首を振りました。
「ここが終着点なのかもしれない」
「……もう、旅に出ないの?」
ディーは何も言わず、近くの桜の木に登り始めたので、ジャックも先回りして桜に昇り、太い枝の上でディーを待ちました。
「やぁジャック、随分俊敏になったね。君はこれからどんどん色いろ身に着けていく」
「ありがとう。ディーのおかげさ」
ジャックは桜の木から川を見下ろしました。
散りゆく桜の花びらが川の流れでちらちらと浮かび、ピンク色の水面が絵のようです。
「あの子が会わせてくれたのかもね」
ディーはジャックに聞こえないようにそっとつぶやきました。
「ジャック、ありがとう」
翌日、ディーは消えたのでした。
***
ポルケの村は小さな村でした。
村長がいて、親切な村人がいて、丘の上には粉ひきの風車小屋がありました。
道はレンガが敷かれて小さい馬車も通り、小さいですが色いろな店があって、ここにはなんでもありました。
今はディーがいないだけ。
小屋の天井には、ジャック専用の通り道が増えていて、いたるところに居心地のよいジャック専用のベッドやクッションがありました。レッドは毎日、ジャック専用のパンを届けてくれました。
桜の季節が終わり、もうすぐ学校が休みに入ります。
「なぁジャック、風車小屋に住まないか?」
ある時レッドが言いました。
「レッドのパンはおいしいけれど、こなこなになるから無理だよ。僕がシロになってしまう」
レッドは笑いました。
「お前が住むなら、小屋を増やそうと思ってるんだ。粉ひき小屋とは別にな。外壁にお前の通り道も作ろうと思ってる。というか、もう外壁は工事を始めてるのさ。だめか」
「ありがとう、でもね」
ジャックにはわかるような気がしていたのでした。
ディーがいなくなった理由も、どこに向かったのかも。
「レッド、いいんだ。ディーが決めたんだと思う。家族だから、わかるんだ。ディーのタイミングだったんだ。でもきっと……」
レッドは、ディーとは絶交だと言っていました。けれどもジャックは知っているのでした。レッドが毎日、ディーの好きなピザ生地を作り続けていることを。
その夜、ジャックはディーがいなくなってから初めて、森を抜けて川の岩場へと足を運びました。
岩の下をみると、ディーの剣が、ディーの首飾りと大きな袋を地面に縫い留めるようにそこに刺さっていたのでした。
首飾りを二重にして首にかけ、剣を元の場所に突き刺しました。それはシロとディーの思い出の象徴のようにも見えましたし、道しるべのようにも見えました。
袋の中には金貨や見たことのない綺麗な石がたくさん入っていて、ジャックはその中から透明にキラキラと七色に輝く小さな石だけ取り出して、後は粉ひき小屋の扉の横に置いたのでした。
やがて辺りは暗くなり、夜がやってきます。
ジャックは暖炉の灯りで、手紙を書きました。
レッドへ
絶交されたくないので、手紙を書きます。
旅にでます。きっと戻ります。
ジャック
ジャックは暖炉の火をきちんと消して、ドラゴンの鱗の剣を背負い、月夜の道を走り出したのでした。
***
ある新月の夜。
前足の爪を優しく光らせたジャックは、大きな大蛇の飲み込まれそうなほど鋭い視線の先にいました。
大蛇は楽しそうに舌をシュルシュルと出したり引っ込めたり、そして、さらに大きくなった体の一部を水の中にざばざばとうねらせ、ひんやりとした縦長の瞳でこちらを見ていました。
「いつぞやの猫じゃないか。懐かしいねぇ」
ジャックはまっすぐに蛇を見つめました。
「追ってきたのか、あの冬の森から」
蛇は楽しそうに笑います。
「ずいぶん蛇聞きが悪いねぇ……。少しは美味しそうになったじゃないか。また新月の夜に出会うとは、私は運がいい」
ジャックは微動だにせず、代わりに爪の光を強くしました。そうすると蛇の体がすべて見えて、蛇は以前よりかなり大きくなっているようでした。
「今度こそ……逃がすものか!」
それは一瞬のことでした。
ジャックの剣が蛇の冷たい片目を潰し、蛇はその場でのたうちまわりはじめました。
そしてさらにジャックの剣が躍るように弧を描き、蛇の背中から美しい鱗を剝いだのでした。
「もらっていくよ!」
ジャックは素早く蛇の動きを躱し、悔しそうにのたうち回る蛇を背にして駆け出しました。
***
ジャックは静かな草原でごろんと横になりました。
「旅は、いつもいつも、楽しいことばかりじゃない。怖いことも、苦しいことも、月が見えなくなってしまう夜もある。だけど、ある日素敵なものが見つかることもあるのかもしれない」
ジャックは深呼吸して、空を見上げました。
「真っ暗な夜だよ。僕は一人だ。今日は新月で、明日はきっと、細い糸のような月。明後日はどんな月かな……。ひょっとしたら、僕の爪のような形かもしれない。次の日も、その次の日も、月はそこにあるんだ」
ジャックは立ち上がり、前足をぎゅっと握りしめました。
「よし、今日の寝床を探しに行くぞ」
ジャックは元気よく新月の草原を走り始めたのでした。
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