第28話 蠢く恐怖

保存庫の中には他にもあった。B5サイズくらいの茶封筒を見つけ小手川浩は手に取った。


その袋を慎重に開けてみる。


中には6本の細くて小さい注射器が入っていた。それは保存状態も良く、


70年以上も前のものとは思えないくらい、真新しい。




「・・・でどうするの?ジャンケンで決める?」


 有田真由美は、おどけた素振りで言った。




「命のかけてのジャンケンか・・・」


 水落圭介もほくそ笑む。勿論、有田真由美の冗談に付き合ったつもりだが。




「このアンプル一つに、10ccあります。一人5ccづつ打ちましょう。平等に・・・」


 そんな二人の冗談に、小手川浩は真面目な声で答えた。


それだけではなく、ふたりのやりとりに少し不快さを感じているようだ。


水落圭介も有田真由美も、決してふざけているわけではない。


ただ、この常軌を逸した現実から、少しでも心理的に距離を置きたいと思っただけだ。


しかし、最も感染の症状が進んでいる小手川浩にとって、


そんな気持ちになるような、心の余白はなかった。




「5ccで効果は望めるのか?」と圭介。今度は真顔でたずねた。




「わかりません・・・というよりあまり期待しない方がいいと思います。


 とにかく、試してみないことには・・・」




 小手川浩の言う通りだ。70年以上前の抗体アンプル。


それが効果を持っているというのは、極めて甘い考えかもしれない。




「じゃあ、水落さん、腕を出してください」と小手川浩。




「小手川君、注射したの経験あるの?」有田真由美は不安そうだ。




「ないですよ、そんなの。でもやるしかないんです」


 小手川浩の声音が荒くなる。そればかりか、彼の呼吸音が変だった。


それはあの化け物の発する、シュッ!シュッ!という息遣いに似ている。


それにわずかだが、彼の体から腐臭らしき臭いも漂っていた。


有田真由美もそれに気づいたのか、無意識に小手川浩から一歩あとじさる。




「消毒液はオレが持ってる」




 水落圭介は救急袋から、オキシドールと脱脂綿を取り出し、


染み込ませた。それで自分の左腕の静脈部分を拭うと言った。




「オレで試してくれ」




 小手川浩は、アンプルを開けると注射針を差し込む。


注射針にはレモン色の液体が吸い込まれていく。


小手川浩は、圭介の腕に針を刺す。ポンプを親指で押した。




「すぐに効果が出るとは限らないですから・・・


 次は有田さん、用意してください」


 有田真由美は小手川浩の言う通りに、左腕を出した。


圭介が、消毒してやる。彼女は針が刺さると、少し顔をしかめた。




「斐伊川さん、こっちへ」




 小手川浩は、まだ化け物の入った水槽を見つめていた、斐伊川紗枝に声をかけた。


斐伊川紗枝は、とぼとぼと3人の所まで歩いてくる。


その顔は、恐怖に蒼ざめていた。そんな彼女を見た圭介は、斐伊川紗枝がわけのわからない抗体を


注射されることに、恐れを感じているのだと、勘違いしていた。




 小手川浩は最後のアンプルを開けた。注射針を差し込む。


だが、彼は奇妙な行動に出た。ポンプ内にアンプルの抗体を全て吸い込んだのだ。




「斐伊川さん、腕を出して。抗体を打つから」




 彼にそう言われて、斐伊川紗枝は左腕の袖をまくって、腕を差し出した。


圭介は訝りながらも、斐伊川紗枝の静脈部分を消毒した。


小手川浩は、斐伊川紗枝の腕に針を刺し、ポンプを押した。


ポンプ内の抗体すべてを、注入したのだ。驚きで圭介は彼の顔を見た。




「どういうつもりだ、小手川君。キミの分がないじゃないか」


 水落圭介がそう言うと、小手川浩は手に持った注射器を壁に叩


きつけた。


注射器は粉々に、吹き飛んだ。彼の行動に、有田真由美も目を丸くする。


しばらくの間。小手川浩は3人に向き直ると言った。




「これでいいんです・・・(シュッ)。もう僕には必要はありますえん」


 水落圭介は、そう言いながらこちらに視線を向けた、小手川浩の姿に愕然とした。


左目だけではない。すでに右目も銀貨をはめ込んだような瞳に変化していた。


呼吸音の異変も、化け物に近づいている。




「まだ(シュッ)なんとか意識シュッ・・・保ててるんですが・・・


 時々・・・(シュッ)この中で、一番助かる見込みがあるのは・・・


 斐伊川紗枝さんだと・・・(シュッ)だから・・・」




小手川浩が言わんとしていることは、圭介にもよくわかった。


確かに、RNA―744に感染していない可能性、


いや感染していても症状が最も軽いのは斐伊川紗枝だろう。


彼は・・・小手川浩は、化け物になりつつある自分を諦めて、


彼女を助けようとしたのだ。




「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・」




 斐伊川紗枝は涙を溢れさせた。




「いいんだ・・・(シュッ)生きて帰ってくれれ(シュッ)ば・・・」




 小手川浩は、必死で言葉をつないでいるようだ。




「小手川君・・・」




 水落圭介は、彼の気持ちを察した。小手川浩は斐伊川紗枝のことを・・・。




 その時、背後で何かにヒビが入るような異音が聞こえた。


4人は振り向く。人体ムカデが沈んでいる水槽から、その音が聞こえた気がした。


水落圭介と有田真由美は、三八式小銃を構えながら、用心深く水槽に近づいた。


見ると、水槽の下から緑色の液体が漏れている。




圭介はゆっくりと、人体ムカデを見上げた。


目が合った。先ほどまで閉じられていた化け物の双眸が開かれている。




「逃げた方がいい・・・」


水落圭介の声は震えていた。隣の有田真由美も、ぎこちなくうなづく。




次の瞬間、2体の上半身の4本の腕が、水槽を内側から殴り始めた―――。

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