第26話 恐怖の微笑
「感染?何の話なの?」
小手川浩の言葉を聞いた斐伊川紗枝の声には、
驚きと怯えの入り混じっていた。
「紗枝ちゃん、これにはわけが・・・」
有田真由美が斐伊川紗枝をなだめようとするが、
彼女のパニックは収まりをみせなかった。
「前から変だと思ってた。水落さんは顔色悪くなってるし、
小手川さんは左目、銀色に・・・あの化け物みたいになってるし・・・」
斐伊川紗枝の両目から、涙が溢れ出る。
「僕の左目・・・?化け物みたい?」
小手川浩が、呆然とつぶやいた。初めて知った現実に、心がついていってない。
「あたしたちも、その細菌に感染してるの?やだ・・・そんなの!」
紗枝は壁を背にするように、3人から離れていく。
そんな斐伊川紗枝を説得するように、小手川浩が口を開いた。
「君たちは、感染しても発症する可能性は低いと思う。
これは僕の・・・いや、ここにいた研究者たちの推測ですが、
女性ホルモンに含まれるプロゲステロンが、
このRNA-774の増殖を抑えているようなんです。
プロゲステロンは正常な遺伝子と結合して変化、異物質への抵抗力を強め、
それがRNA-774の感染力を阻害してるということです。
このファイルにはそう結論づけて・・・」
小手川浩が黒表紙のファイルを手に、一歩、斐伊川紗枝に近づいた。
彼女を冷静にさせようとしている。しかし、小手川浩の笑顔は、すでに人のそれとは違っていた。
まさに、化け物が笑っているようだった。
斐伊川紗枝は腰から、南部十四年式拳銃を抜いた。その銃口を、小手川浩に向ける。
「斐伊川さん・・・」小手川浩はさらに一歩、彼女に近づいた。
「や、やめろ!紗枝ちゃん」
水落圭介は叫んだ。
「近づかないでッ!」
だが、遅かった。斐伊川紗枝は引き金を引いた。
轟音と共に、銃口から閃光が放たれる。
銃弾は、小手川浩の右肩口に命中し、彼の体は後方にのけぞった。
鮮血―――いや、黒い血がほとばしった。化け物と同じ黒い血だ。
・・・だが、彼の表情は、ほとんど変わらない。
「あれ?痛くないや・・・かなり症状が進んでるみたいだ。頭痛もひどいし・・・殺すなら、今やってよ」
小手川浩は、まだ正常な右目から涙を流していた。
「まだ、ワクチンがある可能性があるんだろ?
気をしっかり持て、小手川君!あきらめるのはまだ早い」
圭介は声の限りに叫んだ。
「ワクチン・・・そうだ、まだ・・・」
小手川浩は、うつろな目でつぶやく。
「小手川さん・・・あたし・・・とんでもないことを・・・ごめんなさい・・・」
斐伊川紗枝はやっと状況が飲み込めたのか、
後悔と小手川浩への懺悔、そして流された涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「いいんだ。斐伊川さんが怯えるのは、当たり前だ。
男の僕だって、このザマなんだから・・・これで少しは怖くないだろ?」
小手川浩は、銀色に変色した左目を閉じた。
「それに外見は化け物じみてきたけど、まだ正気だから。
どうやらRNA-774は、脳細胞に感染するまで時間がかかるらすい・・・」
らすい・・・?彼の口調にも変化が起こりつつあった。
そこで有田真由美が、小手川浩に問いかけてきた。
「小手川君、さっき女性ホルモンのなんとかって物質が、
感染を妨げるって言ってたけど、私、化け物に引っかかれちゃったんだよね。
それでも大丈夫なのかな?」
彼女は笑った。だが頬の筋肉は痙攣している。
「じゃあ、ちょっと傷口見せて」と小手川。
有田真由美は、チノパンをまくって包帯を取った。
包帯は血と汚れで茶褐色に変色していた。
傷口はどす黒いシミのようなものが広がっている。
小手川浩は首を振った。
「だめだ。感染してる・・・有田さんにも、ワクチンが必要だ。あればだけど・・・」
その言葉を聞いて、彼女はうなだれた。一気に気力を奪われたかのようだ。
「ここは、書類ばかりだ。ワクチンがあるとしたら、あと二つの部屋のどちらかだ」
水落圭介は気を取り直して、隣の部屋に続くドアを見つめた。
「水落さん・・・これ・・・」
小手川浩は、震える手でキーの束を渡してきた。圭介はそれを受け取った。
隣の研究室へと続くドアに向かう。鍵穴にキーを差し込んだ。
2つ目のキーで開いた。
ドアノブを握る。何があったのか、そのドアは歪んでいた。
水落圭介は肩を当てて、体重をかけて押し開ける。
鈍い音を立てながら、ドアは開いた。
部屋に一歩入った圭介は、目を見開いた。
そこは廃墟のように、なっていた。いくつもの机、
椅子や錆付いた機材が、散乱し、さらにそのすべてが大破していた。
圭介の後に続いて入ってきた3人も、その光景を見て驚きを隠せない。
だが、そこにはただ一つだけ、ほとんど無傷と思われる、巨大なものがあった。
それはとてつもなく大きい水槽だった。
その中は、得体の知れない緑色の液体に満たされている。
そして、その水槽に入っていた物は、4人に戦慄を走らせるものだった・・・。
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