第3話 誘拐
午後の六限の途中、店から携帯に電話が入った。シフトに穴が開いたのかな。僕はそう思った。授業中は電話に出れなかったので、終わってから店に電話をかけた。
「進。すぐ、店に来てくれ」取り乱した店長が、裏返った声で言った。
「今日は、シフトに入ってないっすよ」
「それでも来てくれ。警察が来てるんだ。みんな、事情聴取を受けてるんだ」
「警察?」
「早く、早く」そう言うと、店長は電話をガチャンと切った。
真っ先に頭に浮かんだこと。それは、食中毒だった。店の料理で、お客さんが身体を壊したのかもしれない。食事を提供している以上、いつでもありうる話だ。でも食中毒で、警察って来るのかな?僕は疑問を抱えたまま、自転車で店へ急いだ。
店に到着して驚いた。駐車場に何台も、パトカーが停まっていた。工事用のコーンにロープが張られ、駐車場の中央が黄色いテープで四角く囲われていた。数人の制服警官が、その場にしゃがんで地面を睨んでいた。これは事件だ。絶対に、食中毒問題ではなかった。
「進!」従業員用のドアから入ると、温子さんが駆け寄ってきた。
「おはようございます」
「銀子が、銀子が・・・」
「えっ!?」何で今、銀子の名が出るんだろう?
従業員用のドアを開けると、例の冷凍庫と冷蔵庫が並ぶ通路だ。僕から少し離れたところに、片野さんが腕を組んで立っていた。私服のままで、彼も突然呼び出されたクチらしい。片野さんはうつむき、明らかに沈んで見えた。
通路の一番奥が、レジがある場所になる。店長と、スーツ姿の男が二人、真剣な表情で話していた。店長は予期せぬ事態に怯えていた。彼は、まだ三十だった。大学卒業後このファミレスに就職し、ここの店長をしていた。身長も体つきも平均的なのに、お腹だけ見事なビール腹だった。
「何が、あったんですか?」僕は、おそるおそるたずねた。
「銀子がね、銀子が・・・」温子さんは、もう涙目だった。彼女は常に、心優しい人だった。温子さんは、短大の一年生。地味な女の子で、アニメオタクだった。顔も十人並だが、人はいい。黒髪のロングヘアーに、無地の茶のセーター、下はジーンズだった。
「銀子が、誘拐されたんだ」そう、片野さんが僕に言った。
「えっ?」予想外のことに、僕は呼吸が止まった。「誘拐って・・・?」
「昨日の深夜、この店の駐車場で、黒くて大きな車に連れ込まれたんだそうだ」そう、片野さんが続けた。
「・・・」
僕は、よくわからないショックを受けた。頭が全然回らず、何も言葉が出て来なかった。僕は意味もなく、自分の足元を見た。履き古した自分のスニーカーと、すっかり傷だらけになった店の床を見つめた。
このとき僕は、おぼろげに気づいていた。自分にとって、銀子の存在が小さくないことを。彼女に会えないことが、自分の大切な部分を傷つけることを。それがなぜなのか、このときの僕は答えを持っていなかった。
範子さん、続いて大竹さんが店に到着した。二人は事情を聞いたらしく、最初から厳しい表情だった。二人とも、何も言わなかった。姉御キャラの範子さんは、しくしく泣いている温子さんをそっと抱きしめた。
店内の客席が、事情聴取に使われた。銀子が誘拐されたのは、昨日の深夜2時。勤務していたのは、レジが片野さん、厨房が大竹さんだった。そして僕は、冷蔵庫の椅子でゲームをしていた。僕も現場にいたのだ。だから、僕は大竹さん、片野さんの次に警察に呼ばれた。
事情聴取を担当したのは、二人の刑事だった。最初に名刺をくれたので、刑事だとわかった。僕が席につくと、正面が坊主頭のイカツイ刑事になった。彼は、いかにも武道で身体を鍛えていそうなタイプに見えた。年齢は、四十ぐらい。眼光は鋭く、嘘をついてもすぐ見破りそうだった。
その隣は、痩せて背の高い、温和な五十代の男だった。見かけが対照的な二人だったが、険しい表情は同じだった。
「君は事件発生時、この店にいたんだね」と、坊主の刑事が言った。
「はい」
坊主の刑事は、事件の発生状況をざっと説明した。それから、質問を始めた。
「高校生なのに、その時間まで働いていたのか?」
「いいえ、違います。仕事は23時で上がって、裏(冷凍庫と冷蔵庫の通路のこと)でゲームをしていたんです」
「君は、高校生だろう?」坊主の刑事は、蔑むような目で僕を見た。
「はい」
でも坊主の刑事は、それ以上何も言わなかった。事件に関わりのないことは、詮索しないようだ。背の高い刑事も、何も言わなかった。というより、彼は僕のことも見ていなかった。
「被害者の少女は、よく知っているね」
「はい。常連客でした」
坊主の刑事は、テーブルに大学ノートを広げていた。小さな字をボールペンで、ノートにビッシリと書き込んでいた。それ彼の、仕事の流儀らしかった。
「昨夜の深夜2時、君はこの店のどこにいた?」と、坊主の刑事が聞いた。
「厨房裏の、冷蔵庫の前です」
「被害者が、店を出るところを見たかい?」
「いいえ」
「店内に、不審な人物を見たかい?」
「いいえ」
背の高い刑事が、ふと外に目をやった。3月の午後は、まだ寒いけれど日差しは心強かった。陽を浴びたUbarEats の自転車が、店の前を通り過ぎた。配達員は珍しく、若い女性だった。背の高い刑事が注視したのは、彼女に違いなかった。UbarEats の自転車が通り過ぎると、その刑事は、店内に視線を戻した。彼は、少し怒っていた。もしかしたら、事件発生に怒っているのかもしれない。
僕のあとは、大竹さんが事情聴取を受けた。続いて、範子さん、温子さん。片野さんはもう聴取済みだった。まもなく、斉藤さんがやってきた。郁美さんも現れた。
郁美さんについては、少し説明を要する。彼女は範子さんと同じ二十歳で、四年制大学の二年生だった。少年のようなショート・カットで、服装はいつもボーイッシュだった。彼女は、この店のアルバイトで一番かわいかった。整った顔立ちに、大きな目、長いまつ毛、厚めの唇。バスト、ウェスト、ヒップ、太ももと、彫刻みたいに整った身体をしていた。彼女は、一昔前のアイドルみたいだった。
けれど、可哀想に、郁美さんは難聴だった。相手の声は聞こえるのだが、ノイズが入ったように聞き取りづらいのだそうだ。彼女は積極的に発言したが、彼女の言葉は僕たちには聞き取れなかった。たとえば、「あ」と言っているのか、「わ」と言っているのか、区別がつかなかった。
普通のお店なら、ファミレスの接客業は難しい。そこで店長は、郁美さんを厨房で雇った。彼女がかわいいから、というのがもっぱらの理由だ。だが店長は、自信があったのだと思う。大竹さんや斉藤さんなら、彼女に優しくするだろう。女性たちも、郁美さんを温かく迎えるだろう。
かくして、郁美さんとの会話は、iPad miniを通じて行われた。僕たちの言葉を画面に表示して、彼女に読んでもらうのだ。厨房では彼女が一番下っ端なので、みんなは彼女に指示を出せばよかった。そのうちに、言葉を交わさずとも、僕たちは郁美さんの意思がわかるようになった。とても不思議だけど。
郁美さんの事情聴取には、店長が付き添った。こうして全員の取り調べが終わった。けれど、得るものは何もなかった。なぜならば、誰も現場を見ていなかったから。警察から事情を聞くまで、事件発生を誰も知らなかったのだ。むしろ僕たちが、警察から昨夜の出来事を教えてもらったくらいだ。
昨夜、午前2時。銀子と友達二人が店を出た。会計は、片野さんが担当している。銀子は友達に会計を任せて、先に店を出た。友達二人は、店が発行した期限切れのクーポンを出して、使えないかと片野さんに頼み込んだ。銀子はそんな二人に構わず、店を出たそうだ。
片野さんが期限切れクーポンを断り、諦めた銀子の友達が店を出た。その時ちょうど、銀子が黒い大きな車に連れ込まれた。銀子の友達は、その瞬間を目撃した。車に乗っていたのは、多分男。でも、よくわからなかったそうだ。銀子を乗せた車は、腹を立てたようにアクセルを踏んで、けたたましい音を立てて走り去った。
話がややこしいのは、銀子の友達二人が誘拐だと思わなかったことだ。二人は、銀子と黒い大きな車の運転手との会話を聞いていない。ただ、車に連れ込まれる銀子だけを見た。二人は、銀子の親が迎えに来たと勘違いした。銀子の親が怒っている。そう考えて、二人は疑念を抱かなかった。
翌朝になって、継母が銀子が帰っていないことに気づいた。継母は、銀子が友達に家に泊まったと解釈した。午後になり、しびれを切らした継母が、銀子の友達に電話した。こうしてようやく、銀子が犯罪に巻き込まれたと気づいた。
冷凍庫と冷蔵庫前は、お通夜みたいな雰囲気だった。椅子に力なく座る者。立ったまま、冷凍庫や冷蔵庫に寄りかかる者。みんな判を押したように、下を向いていた。パトカーがたくさん駐車場に停まっているから、お客さんは一人も入ってこなかった。みんなが押し黙る中、空っぽの店内には害のない映画音楽が流れていた。
「あ・・・」静寂を破ったのは、郁美さんだった。
「何?郁美」すぐさま、範子さんがたずねた。二人は大の親友だった。
「郁美が、下向いてたらダメだって」と、範子さんが言った。
「まあ、それはわかるけどさ・・・」と、大竹さんが似合わない気弱な口調で答えた。
「最後に、銀子を見たのは自分だからな」と、片野さんは悲しげに言った。
「ねえ、最後って言い方やめようよ」と、温子さんが抗議た。
「いや、最後だろう」と、斉藤さんが醒め切った口ぶりで言った。「この手の犯罪は、獲物を捕えたら即レイプ。終わったら、殺害だ」
「バカ!縁起でもない!」範子さんが、本気で怒った。
「銀子がいきて、昨日から数日だよなあ。犯人が、銀子を生かしたまま連れ回してたらだけど」斉藤は、常に現実的だった。
「でも生かしていたら、絶対に人目につくよな」と、大竹さんがため息混じりに言った。
「あ・・・」郁美さんが、手を上げた。範子さんが彼女んp代弁をした。
「私たちはさ、思っていた以上に、銀子を可愛がっていたんだと思う。だから、こんなことになってみんな参ってるんだよ。事件解決は、警察に任せるしかない。だからみんなで、できる限り協力しよう」
「そうだな。俺たちが落ち込んでたって、事件が解決するわけじゃない」と、店長が言った。
「そりゃ、そうっすね」醒めた斉藤さんも認めた。
「俺、何か手がかりがないか、考えてみるよ」と、片野さんが言った。
「そうだ。みんなそれぞれ、小さなことでもいいから。手がかり、探してみようぜ」と、大竹さんが場をまとめるように言った。
こうして僕たちは、今夜は解散することにした。みんな家に帰り、仕事の人は残った。でも僕は、家に帰れなかった。自分は汚れていて、家に入る資格がないと思った。なぜなら、銀子をさらった犯人は、風呂を覗いた僕と同じだからだ。
僕は家ではなく、多摩川に向かった。川沿いの遊歩道に自転車を停め、土手に下りた。あえて外灯の光が届かない場所を選んで、腰を下ろした。膝を抱え、顔を押しつけた。落ち着こう、と考えた。いや、落ち着くな、と考えた。
僕は、銀子が好きだったわけではない。けれど、見知らぬ誰かが銀子を好きだった。いや、好きですらなかったかもしれない。
好きならば、「好きです。付き合ってください」と、頼めばいい。一か八か、賭けてみればいい。好きならば、真夜中に車に乗せてさらったりしない。ご家族も知らないところへ、連れ去ったりしない。
つまり、性欲のせいなのだ。自分勝手な性欲が、罪を犯すのだ。僕が覗きをしたとき、期待と喜びが罪悪感を軽く上回った。悪いことだけど、我慢出来なかった。そういうことなんだ。僕や犯人の中に住む、性欲。これが罪の源泉なんだ。たまたま、銀子が犠牲になった。姉も、犠牲になった・・・。
僕は、下唇を強く噛んだ。そしてさらに、自分の右手で、自分の顎を思い切り殴った。
ゴリッ!
口の中で、不気味な肉の音がした。間髪入れず、下唇に激痛が走った。とんでもない痛みだった。勢いあまって、下唇を噛み切ったかと思った。右手でおそるおそる口触れると、下唇は幸い繋がっていた。でも赤い血がポタポタとこぼれ落ち、手に血がベットリとついた。痛みに慣れると、口元から顎へ流れる血を感じた。血は顎の先端に集まり、ジーンズの膝に落ちて大きな染みを作った。
これでいい。そう、僕は思った。あの夜と同じだ。償いには、血が必要だ。
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