第42話 センパイ、さようならなんて言わないで
美幽センパイと手をつないで、稲荷神社の赤い鳥居をくぐる。
こうして参道を歩いていると、お母さんと過ごした遠い昔を思い出す。
幼い私もお母さんに手を引かれてよくこの神社にやって来たっけ。
あいかわらず人気のない境内を進み、一匹しかいないさみしい狛狐の像を見やる。
そして、奥に置かれたいつものベンチに腰を下ろした。
「センパイ。なんですか、大事なお話って?」
美幽センパイにここに誘われてから、ずっと胸騒ぎがしていた。
美幽センパイがこれから打ち明けようとする話を、私は聞いてはいけない気がした。
だって、夕日に映える美幽センパイの横顔があまりに儚げだったから。
いやな予感に、表情がしぜんと硬くなる。
美幽センパイは身構える私に柔らかい笑みを向けた。
「旭ちゃん、そんな顔しないで。私、旭ちゃんの笑顔が好きよ」
「センパイ。はぐらかさないで、早く教えてください」
私が急かすと、美幽センパイは困ったようにうつむいた。
そして、夕日を浴びても影ができない足元をながめながら、ゆっくりと話しはじめた。
「私ね、こうして影の映らない地面を眺めていると、時々切なくなるの。ああ、この世界に私が存在することは許されていないんだなって」
美幽センパイの声のトーンは低く、憂いの色がにじんでいる。
「そんなことないですよ。センパイは私の世界の中心にずっと存在しています。許されないことなんてないです」
「ありがとう、旭ちゃん」
美幽センパイは喜びと悲しさが入り混じったような笑みをこぼし、うるおいを増した瞳でまっすぐに私を見つめる。
「でもね、旭ちゃん。誰だって、いつかは自立しなくちゃいけないわ。そうやって人は強くたくましく一人でも生きていける力を身につけるのよ」
「……センパイ?」
美幽センパイがなにを言おうとしているのかが分からなくて、私は息をのみ、こわごわと言葉の続きを待った。
美幽センパイはためらいがちに下を向き、それからふたたび顔を上げた。
センパイの美しい瞳から、一筋の涙が頬を伝わり落ちていく。
やがて、美幽センパイは澄んだ声で告げた。
「お別れしましょう、旭ちゃん」
美幽センパイがなにを言っているのか、すぐには理解できなかった。
私は震える唇で、なんとか声をしぼり出した。
「お……お別れするって、どういう意味ですか?」
「そのままの意味よ。旭ちゃん、私、そろそろ行こうと思うの」
「行くって、どこに?」
「うーん。まだ決めていないけど、とりあえず思い出の地をめぐってみようかなって」
「思い出の地って。センパイ、過去を覚えていないじゃないですか。思い出もなにも……」
「それがね、最近、少しずつ思い出してきたの」
「えっ?」
私に優しく微笑みかける美幽センパイの瞳から、涙があふれ出す。
「……私、思い出しちゃったの。私がかつてどんな生活を送っていたのか……あの時なにができなかったのか……どんなにひどい人間だったのか。だからもう、旭ちゃんとは一緒にはいられない」
「そんなことないです! センパイがひどい人間だなんてこと、絶対にありません!」
深い悲しみが胸を突き上げ、私は涙をふくんだ声で衝動的に叫んだ。
「……ひっく……どうしてそんなさみしいことを急に言うんですか? 私はセンパイとお別れなんかしたくない! ……センパイは私の救いなんです。センパイは私のそばにいなくちゃダメなんです!」
「旭ちゃんには友だちがたくさんできたじゃない。もう私がいなくても大丈夫よ」
「友だちだって、センパイがいたからできたんです! センパイがいなきゃやだ! センパイがいない世界なんて想像したくない!」
私は聞き分けのない子どものように泣きじゃくり、美幽センパイの冷たい身体にしがみつく。
美幽センパイもまた私を抱き寄せ、幼子をあやすように頭をなでる。
「旭ちゃん。こんな私をずっと必要としてくれてありがとう。旭ちゃんとお話しできるようになって、私はずっと幸せだった。旭ちゃんと過ごす日々は、神様が私にくれた最高のプレゼントだったわ」
美幽センパイは頬を涙でぬらしながら、甘い笑顔を私に向ける。
「私はずっと旭ちゃんを見守ってきた。だから分かるの、旭ちゃんがほんとうに心のきれいな優しい女の子だって。その優しさがあればきっと大丈夫。みんな旭ちゃんのことを好きになってくれるわ」
「みんななんていりません……。私は美幽センパイさえ一緒にいてくれれば、それでいいんです……」
「きっと旭ちゃんを愛する人たちが放っておかないわ。それに、たとえ離れていても、心はずっとつながっているから。だから、安心してね」
美幽センパイは泣きじゃくる私をぎゅっと抱きすくめ、震える声で最後を告げた。
「さようなら、旭ちゃん」
こうして、美幽センパイは沈みゆく夕日とともに姿を消してしまった。
絶望に打ちひしがれる、抜け殻のような私を残して。
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