(20)
俺も席をたち、ポインセチアの鉢をひょいと持ち上げた。赤くない貧相な葉をしげしげと見回す。
「俺だけじゃない。生花コーナーを持たされるのはいつも新入りで、俺みたいに必ず失敗をやらかすんだよ」
俺を凝視していた美春が、こそっと言った。
「忙しいから後回し、でしょ?」
「そう。どうしても気が逸れる。管理が行き届かなくなるんだ。そしてな、一番最初に大失敗をやらかしたのは、商品を大事に扱うという戒めのために生花のコーナーを作った店長自身だったんだ」
「んなー」
「うわあ」
千秋と美春が同時にずっこけた。まあ、第三者が聞けば笑い話だよ。でも俺にとってそれはどうしても欲しかった赦しであり、もっとも大事な示唆だったんだ。
「自分もやったから、俺がやらかした時にも責めなかったんだよ。失敗から何を学ぶか。次に同じ失敗を繰り返さないためには何が必要か。その意識が育てば、必ず店員としてステップアップする。店長自ら最初に学んだってことなんだろう」
「うーん、やっぱ佐野さん、すごいなー」
千秋なら心酔しそうだな。これまでの上司がろくでなしばかりだったから、店長が
「すごい人だよ。ただ厳しいだけじゃないんだ」
「うん」
「でもな、俺がダメにしちまったこのポインセチアは、店長のすごさだけじゃなくて、他にも大事なことを教えてくれたんだ。それはさのやや店長とは関係がない」
「ふうん……」
「それは……なに?」
食い入るように俺を見ていた美春が、そう訊いた。改めてポインセチアを掲げ、美春の問いに答える。
「生きることへの執念だよ」
「……」
「こいつの葉は萎れ、下葉の色も黄色く変わっていた。まるっきり売り物にはならない。見切り品としてすら店頭に出せない」
「うん」
「でも、それは商品としての終わりであって、こいつの終わりではなかった」
俺はこいつが生き残ることを最初から信じていたわけじゃない。生き延びることを最後まで諦めなかったのはこいつなんだ。
「処分苗を持ち帰って、植え替えた。葉が落ちてバランスが悪くなっていたから、半分くらいにばっさり切り詰めたんだよ。そうしたらこれでもかと芽吹いたんだ。こいつは生きてた。しぶとく生きてたんだ」
田村さんも、今頃ポインセチアのものすごい生命力に驚いているだろう。その顔をふっと思い浮かべ、笑顔で応える。
「こいつは、太い根や茎まで腐ってしまわない限りすぐには枯れないのさ。芽吹いたやつを暖かくなってから外に出したら、すごい勢いでもりもり伸びた。これでもだいぶ切り詰めたんだ」
「うはあ! すご……」
「すごいよ。こいつには負けていられないと思ったね」
そう。俺もあの頃はまだ、喪失感から完全に抜け出したわけじゃなかった。一人きりで放り出されたことが本当に辛かった。でもこのポインセチアは俺が連れ帰るというワンチャンスを逃さず、しぶとく生き抜いた。嘘偽りなく、こいつには負けていられないと思ったんだよ。
ふうっと大きく息を抜いて。持っていた鉢を床に置く。
「このポインセチアには、慰められたんじゃなくてどやされ続けたんだ。おまえ、まだちっとも全力で生きてないだろってね」
「そっかあ……」
「まだある」
ポインセチアの葉を指差し、にやっと笑って見せる。
「ポインセチアなのになぜ赤くないんだ。そう思わなかったか?」
「うん。それがポインセチアだなんて思わなかったもん」
「わたしも」
「だよな。こいつは、人の都合のいいようには動かないんだ」
今年もやっぱりクリスマスに間に合わなかったなあと思いながら、傷んだ下葉を外す。
「ポインセチアは勝手に赤くなるわけじゃない。俺はそれを知らなかったんだ。まるっきり無知だった上に、手間をかけることの大事さがちっともわかってなかった」
「どういうこと?」
美春がせっかちに突っ込んでくる。ああ、二年前の俺と同じ目だ。自分に何が足りなかったのか、それを素直に思い返すことができない。惨めな自分しか見えない。その狭い視野しかない。でも、ずっとそのままってことはないんだよな。
一息ついて、丁寧に説明を始める。
「ポインセチアの赤い部分。苞っていうんだが、それは花じゃない。葉っぱだ。花は地味で目立たないから鑑賞価値はない。俺たち人間には無意味なんだ」
「うん。それで?」
「でも、ポインセチアにとっては苞よりも、種子を残すための花の方がずっと重要なんだよ。苞は地味な花を引き立てるために色づくんだ。だから、花芽が出来ないと赤くならないのさ」
飛びつくようにポインセチアを覗き込んだ二人は、揃って首を振った。
「花なんかどこにもないよ?」
「だから赤くならないんだよ」
「どうやったら花芽が出来るの?」
美春がでかい声を出した。
「ポインセチアは、日が短くなって初めて花芽が出来始める。短日条件と言うんだけどね。外で自然に育っているなら、秋から冬にかけて自然に花芽が出来て苞が赤く色づく。でも、日本じゃそうは行かない」
「どうして?」
「日本の秋冬は、ポインセチアには寒すぎるんだよ。どうしても室内に取り込まないとならない。それが花芽を作るのを邪魔するんだ」
「どして?」
千秋が首を傾げたから、電灯を指さす。
「ポインセチアは、月の明かりでも目を覚ますと言われるくらい光に敏感なんだ。夜のはずの時間に一度でも光が当たると、短日条件がリセットされてしまう。花芽が出来始めるまでには二ヶ月くらいかかるから、室内じゃなかなか赤くならないんだよ。クリスマスに赤くするなら、日が短い状態を人工的に作ってやる必要がある。それを短日処理って言うんだけどね」
「どうやるの?」
「午後五時から翌朝まで鉢に段ボール箱を被せて真っ暗にするっていうのが、俺らの出来る方法だ。ただ、俺は仕事の関係で帰りが遅いから、そうするのは無理だよ」
「そうかあ」
がっかりという表情で千秋がポインセチアに顔を寄せた。
「あ、でもちょっとだけ赤っぽい葉があるような……」
「だろ? 自然の状態でもだんだん日が短くなる。俺は日中家にいないから、ぎりぎりまで外に出しておけば自然に短日条件をクリアできる。でもその場合、花芽ができて苞が色づき始めるタイミングがどうしても遅くなるんだ。最終的には赤くなるけど、その時にはとっくにクリスマスが終わってるんだよ」
「なにそれー」
千秋が、遠慮なくげらげら笑った。まあな。消費者としての俺は、面倒な手間をかけてまでクリスマスに苞を色づかせることなんか考えないよ。でも……。
「自分でやってみるとわかるのさ。俺らがたいして深く考えずに買っているポインセチアの鉢植え。その生産者が、どれくらい手間暇をかけて商品を作っているのかが、ね」
「あ……」
千秋が、もう一度ポインセチアをじっくり見回している。そう、管理が手抜きでもそこそこ育つ。でも売り物にはならないんだ。さっきの逆さ。
「赤くするための短日処理が大変なだけじゃない。温度と十分な日差しを確保する。適切な量とタイミングで肥料と水をやる。見栄えするように苞を大きく育てる。コンパクトに仕上げるため茎を伸ばし過ぎないようにする。摘芯して樹形を整える。害虫がつかないようにケアする。いろいろな品種を育てる。一鉢のポインセチアを仕立てるために、生産現場ではとんでもなく多くのコストと手間暇をかけているんだ」
「うん」
「自分で育てても、こんなちんちくりんにしかならない。だからこいつを見ると、かけられた手間の重さを思い知らされるんだよ」
田村さんには、生産者がアンバランスな苗を作っていると言ったけど、俺が生産現場にいればおそらく正反対のことを言うだろう。こんなに手塩にかけて育てても、売るやつ、買うやつが粗末に扱う。本当に忌々しいと。
そうなんだよな。立場が変わらないと見えないものが確かにある。それをきちんと正視しないと、狭苦しい価値観の中に閉じ込められて出られなくなる。考え方がひどく偏ってしまうんだ。
成功と失敗。幸福と不幸。希望と絶望。ひどい状況に陥ることなんか誰も望んでいないが、事実としていいことばかりはやってこない。図らずもどん底に落ちてしまった時に見えたもの。自ら望んでまで見たいとは思わないが、それはどん底でしか見られないんだ。だから、決して忘れてはいけないのだろう。
もう一度鉢を持ち上げ、二人に向けてかざす。
「これは。このポインセチアは俺だ。一度死にかけて、今もちんちくりんで、時期が来てもちっとも赤くならない半端者さ。それでも生きてる。生きてるんだよ。俺なりにね」
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