(11)
帰宅後。飯を食ってひとっ風呂浴び、タオルで髪をわしわし掻き回しながらソファーに身体を投げ出す。忙しい仕事から解放されて一番のんびり出来る時間なのに、頭の中に次々浮かび上がってくるのは不安要素ばかりだ。
「うーん……」
くしゃくしゃのタオルを手にしたまま、考え込んでしまう。
二年前退社した時、何もかも取り上げられてしまった俺は空っぽだった。目に入る全てのものが底なしの暗黒にしか見えなかった。そして、崖っぷちにいたのは間違いなく俺だけだった。美春も千秋も新しい生活が始まることに胸を躍らせていて、俺の窮状なぞまるっきり眼中になかっただろう。
失職による底なしの喪失感に孤立までトッピングされるのは、言い表す言葉が見つからないほど辛い。もしさのやと出会わなければ、俺は生き続けることを諦めていたかもしれない。田村さんの告白……追い詰められて死を考えたというのは、俺にとっては人ごとじゃなかったんだ。
さのやで必死に体を動かしてきた二年の間に、俺は少しずつ心を修理し、どん底を脱した。自分のことだけではなく、周りを見る余裕が少しだけできた。そんな風に視野が広がるのはとてもいいことだと思うんだが、目に入ってくるのはいいことばかりじゃない。それが紛れもない現実なんだ。好ましくない事態が、もっと悪化しそうな予感と一緒にここ数日一気に押し寄せてきている。
スタッフへの事前連絡なしに突然半休を取った店長。帰り際に残された尻切れとんぼのセリフも気になる。千秋がやる気をむしり取られる形で仕事を辞め、美春が全身全霊を注ぎ込んできた出版社が倒産した。田村さんは孤立無援のままで、まだ窮地を脱していない。
自分がいっぱいいっぱいの時には、そういう事実があるとしか受け止めなかったかもしれない。だが今の俺は「じゃあどうする」を考えてしまう。自分に何ができるわけでもないんだが……それでもね。
立ち上がって、窓辺に置いてあるポインセチアに目をやる。いつも主人の愛情を求め続ける動物と違って、植物は己の生命力を燃やしながら静かに生きる。俺らが彼らにできることは、「生きる」営みを手助けすることだけだ。
人間社会における互助のありがたさと難しさ。俺はその意味を、単独でひたすら生き続けるポインセチアからじわりと問われ続けている。おまえらは窮屈な生き物だなと言われているように感じる。
「確かに窮屈だよ。だが、俺らは一人では生きていけない。生きていけないんだ」
ふうっ。ポインセチア相手に愚痴ったところで、どうにもならないな。
「お?」
ぶるったスマホを覗き込んで発信者を確かめた。千秋か。今日はかけてこないと思ったがな。
「お疲れさん。どうだった?」
「うん、すっごいよかった! パパが生き返ったわけがわかったわ」
千秋の声が弾んでいる。いつも乾いた声ばかり聞かされていたから、感情のこもった声を聞くとほっとする。
「ははは。そうか」
「高村さんも木田さんも、自分の仕事にプライドを持ってるの。こんな仕事って、絶対に言わない」
「そらそうさ。さのやは一回閉店の危機に直面したんだ。今の店長がだいぶ盛り返したって言っても、先の見通しが明るいわけじゃない」
「……そうなの?」
「ああ。それなら今いるスタッフは、自分のプライドをいい意味で全開にしないとならない。こんなもんでいいと思った時点で退化が始まる。閉店まっしぐらだ」
「うわ、そっか」
ポインセチアにちらっと目をやって、続きを話す。
「小売り店の原則はどこでも同じさ。いいものを、少しでも安く、気持ちよく買ってもらうこと。生き残るには、その当たり前のことをしっかり実行するしかない。だから、今のスタッフは誰も手を抜かない。みんな基本に忠実なんだよ」
「うん! それがよーくわかった」
「店長がほめてたぞ。おまえなら、どこでも引っ張りだこだってさ」
「へへ……」
千秋は確かに喜んでいる。だが同時に自分を使おうとするやつへの不信、使われてしまう自分への不満も感じているだろう。
「ああ、そうだ。パパ」
「うん?」
「ママに電話してみたんだけどさ」
助かる。今は、千秋を介してしか情報が入ってこないからな。
「どうだった?」
「二年前のパパと同じ」
「ゾンビ、か……」
「そう。今年に入ってすぐに、会社の経営状況がよくないことがわかったらしいの」
違うな。会社ぐるみで不祥事をやらかしたとか裏でやっていたマネーゲームで大穴を空けたとかならともかく、収益構造の劣化ならもっと前からわかっていたはずだ。美春が、社の窮状から頑なに目を逸らし続けていただけだろう。
「倒産だけはどうしても回避したいって、必死にがんばったらしいんだけど」
「それが効かなかったということだな」
「うん」
あいつにとっては、社での自分が全てだったはずだ。自分のエネルギーと能力を編集業に注ぎ尽くすため、その足かせになる俺や千秋をばっさり切り離したのだから。俺のように、いつかは社から捨てられるという予感を背中に貼り付けて仕事をしていたわけじゃないんだ。社がなくなるなんてことは微塵も考えていなかっただろう。だからこそ、喪失の痛みはどこまでも大きいに違いない。
「しばらくはそっとしておくしかないな。今はまだ、自分の足元すら見えないはずだ。俺もそうだったから」
「うん……」
「時々電話して様子を探ってくれると助かる。俺と違って、あいつの場合はリスタートに時間がかかると思う。しばらくは目を離せん」
「わかった」
失職中の千秋の身分はまだ不安定だ。本当ならあまり負担をかけたくないんだが、今は千秋に頼るしかない。済まん……。
「惣菜の方はびっしり忙しくなると思うけど、よろしく頼むな」
「おっけー! あ、クリスマスは?」
「こっちで過ごすんだろ?」
「いい?」
「もちろんだ。イブも翌日も仕事があるから、軽くになっちまうけどな」
「へへっ。ぼっちクリスマスよりずっとましー」
「そらそうだ」
電話を切って、ポインセチアに目をやる。置かれた環境で生きるしかない植物と違って、俺らは状況を自力で動かすことができる。それは人間に与えられたとても優れた能力のように見えるが、動かせる範囲が限られている上に、動かした結果が必ずしも生きやすさに繋がるとは限らない。必死に状況を動かした努力が裏目に出ると、その徒労感は絶望だけを倍々に増やしてしまう。
ポインセチアに歩み寄って、問いかけた。
「耐えてもだめ。あがいてもだめ。もしそうなったら、俺たちはどうすりゃいいんだろうな」
◇ ◇ ◇
刻一刻とクリスマスが近づいてくる。街路や店舗がきらびやかなクリスマスイルミネーションで飾り付けられ、人通りの多くなった街はどんどん賑わいと彩りを増してゆく。さのやもささやかながらその人波の一部を引き込むことに成功し、いつもよりずっと客の出入りが多くなっていた。忙しいことは、そのまま売り上げ増を意味する。スタッフ同士で会話できないくらい朝から晩まで走り回っていたが、気分は逆にハイになっていた。
千秋も惣菜での仕事に慣れ、とても生き生きしている。携帯ショップやリサイクルショップでもこんな風に働けるとよかったんだがな。こればかりは巡り合わせがあるから、なんとも言えない。
その一方で、美春は千秋との通信まで遮断してしまった。あいつが俺との接触を徹底拒否している以上静観するしかないんだが、どうも嫌な予感がする。バカな気を起こさなければいいけどな……。
ざわざわと考え事をしながら、生花のコーナーに目を向けた。
「お、さばけたなあ」
さのやの花コーナーを彩っていたポインセチアの鉢植えは、ほぼ売り切れていた。特売のポップは外され、空いたスペースは造花で埋められている。当日まで生花を置き続けることができれば一番いいんだが、クリスマスが近づくほどかさばる鉢花は売れなくなる。管理の手間が割に合わないから、いつまでも引っ張ることはできない。店長はすぱっと割り切ったんだろう。
いささか味気なくなった花コーナーを横目で見ながら品出しをしていたら、いつの間にか店長が真横に立っていた。
「お? 店長、何か急ぎの仕事ですか?」
「いや、横井さんに相談があるんだ」
「私に、ですか?」
「ああ」
相談? 驚いて店長の顔をしげしげと見る。表情は険しい。相談と言っても、きっといいことではないんだろう。覚悟が要るな。
「23日の夜。少し早めに上がる。横井さんも付き合ってくれると嬉しい」
「私は構いませんが……」
「済まんね」
それ以上何も言わず、店長はさっと仕事に戻った。
「なんだろう?」
激しく胸騒ぎがした。
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