第26話 娘さんを僕にください
教授と僕はもう0時近くにもなって美鈴さんの部屋を訪ね、ドアスコープで確認したのか、美鈴さんは慌てて扉を開けた。
「皆川教授!?どうしたんですか!?馨さんも…こんな時間に…どうして…?」
美鈴さんは突然のことに驚き、僕を見て一瞬泣きそうな顔になった。僕は彼女の肩に両手を置く。
「…美鈴さん、君の実家に行く支度をして。僕たちは結婚するんだ」
彼女は僕を見て、おそらく母さんに会ったことを思い出していたんだろう、かすかに首を横に振っていた。
「ど、どういうこと…?だって…」
僕は彼女が母さんから受けた傷が大きすぎたことを知った。母さんが勝手に決めただけのはずなのに、「僕とは別れる」という辛い選択を一方的に突きつけられ、僕の母から拒絶されたことがあまりにショックだったんだらう。彼女は恐怖のあまりそこから動けなくなってしまったんだ。なおさらのこと、僕は美鈴さんを強く見つめて、その肩を握った。
「事情は飛行機の中で説明するから。早く東京を出よう。僕の家族に見つからないうちに」
美鈴さんは大きく目を見開き、頬を硬直させる。彼女はもう半分以上もいきさつの予想がついたようだったけど、そのままそれを受け入れて、「うん、わかった」と言ってくれた。皆川教授のことを不思議そうに見ながら美鈴さんは簡単な旅支度を済ませ、それからすぐに僕たち三人は空港へ向かった。
手荷物やトランクを預けてから、僕たちは飛行機の深夜便で東京から神戸へと向かっていた。僕たちはやっとのことで、通路に挟まれた席を三つ並びで取ることができたので、皆川教授、美鈴さんに僕の順番で座り、シートベルトを締めていた。僕は美鈴さんに事情の説明を始めようとした。
「それで、美鈴さん。僕は今家から…」
僕がそう言いかけた時、教授が「待ちたまえ」と言った。僕は話を遮られたので、教授を振り返る。彼は考え込むような顔をして片手で顎をさすりながら、こう話し始めた。
「この青年は家に閉じ込められていたらしい。君との付き合いを止められて、結婚も許されなかった。だが、どうしても君と結婚するために、どうやらご両親と離れてでも二人で居を構えようと考えたわけだ。しかし、そのためにはこの青年の結婚の証人が必要だ。そして、それは君たち二人の縁を作るきっかけになった私に、是非にとのことだった」
そこで教授は言葉を切って、大きくため息を吐く。
「私は祝福されない結婚を君に、美鈴君に勧めるわけではないが、了承しないままでは多分、この青年は帰らなかっただろう。知らない人間に家に居座られていては私も困る。だから進退窮まったとでも思って、まずはご実家で、お母さんに相談してみたまえ」
それを聴いて美鈴さんはとても喜んだのか、大きく息を吸って、震える声を吐き出した。
「教授…!あ…ありがとうございます…!」
やっとのことでお礼だけを言い、美鈴さんは少しの間泣いていた。僕は、僕の胸に額を押しつけて感涙にむせぶ彼女を抱きしめていた。
しばらくして美鈴さんは僕に肩をもたれて眠ってしまい、僕は教授と話をしていた。
「母は…僕には“一番いい相手を探してやりたい”と思うからか、僕の話すら聞いてくれず、それに父も、母が僕に見張りをつけるのを止めもしませんでした…。家族は全員、執事に至るまで、僕の思うような幸せを優先してくれませんし、だから美鈴さんのことも受け入れてくれません…。教授、教授はさっき、両親に反対された結婚は酷だとおっしゃいました…。僕も、不安はあります…。ですが、僕たちが別れてしまったら…僕は、僕は…自分の人生に期待できることのほとんどを手放してしまわなければいけません…」
僕が教授にこんな話をしているのは、もちろん助言が欲しいからだった。
「そう思うなら彼女を守りたまえ。君ならできるだろう。初対面の人間の家で土下座ができるなら、大したものだ」
僕は教授の部屋の玄関でのことを思い出して、ちょっと両肩を縮める。
「そ、それは…すみません…」
「謝ることはない。褒めているんだ。君はむろん家を出て、たとえ自分が働く場所が今よりもずっと辛くなったとしても、彼女が居て、ほかに邪魔をする人間がいないのであれば万々歳なのだろう。愛情深い、よい人間だ。しかし、彼女は繊細だから、気を配って支えてやるように、これからも気をつけなさい」
僕はそう言われながら、不思議な気分だった。亀の甲より年の功と言うけど、人生を長く生きてきた人というのは、若者の心なんか手に取るようにわかってしまうんだろうか。確かに僕の心は、教授の言った通りだった。
「はい」
「それに、何もまだ本当に家を締め出されたわけではない。もしかしたら、これから理解を得られないとも限らんぞ」
教授はそんなことを気楽に語って、椅子に座る楽な姿勢をもぞもぞと探り始めた。
「そう、でしょうか…」
不安だったので、僕は自分より少し背が高い教授を見上げる。教授は僕の方を見はしなかったけど、その顔は初めて会った時とは違って、だいぶ柔らかく、そして親しみ深い微笑みだった。
「彼女も、君の両親に許された方がよっぽど気も楽だろうし、罪悪感なく結婚を楽しめる。いいかね、上田君。最後まで諦めないことだ」
「は、はい…」
朝になる前に僕たちは神戸に着陸して、空港から、市街地へのバスに乗った。美鈴さんはまた眠ってしまって、教授も眠たそうに目を閉じてしまった。僕は一人起きていて、自分が異常な興奮状態にあること、そして、疲労で体がぐったりしてしまっていることがわかった。
眠らなければ体がもたない。でも僕は、飛行機の中でも眠らなかった。それより解決法を考えたかった。でも、何も思いつかない。
たとえば“人の気持ちを変える方法”なんてものがあるなら、誰だってそれを欲しがるだろうし、誰もが欲しがるということは、誰もできないということだ。僕はそこまで考えて、一旦は目を閉じようとしたけど、瞼をすり抜けてバスの室内灯が微かにチカチカと見えるのが気になってしまって、やっぱり眠れなかった。
そこは、閑静な住宅街の中にある、小さく古い家だった。不動産会社の名前の看板が貼りだされているところを見ると、借家みたいだ。美鈴さんがその家を指さして案内した時、門が開いて一人の女性が箒とちりとりを持って家の中から出てきた。その女性は、ものすごく小柄な体を割烹着で包み、髪をひっつめて、きびきびと箒で枯葉を集め始めた。
「お母さーん!」
美鈴さんがそう叫んだ時、僕は張り詰めていた緊張が頂点へと達し、手のひらが汗ばみ始めた。それをコートで拭っていると、彼女のお母さんらしき女性が顔を上げる。その人は本当にびっくりしたようで、口を開けてそれを片手で押さえた。そして美鈴さんが駆け寄っていくと、美鈴さんの両腕を包んで、嬉しそうな顔で笑顔になる。
「美鈴!?急にどうしたん!?」
「あ、お母さん…急に帰ることにして…あの、こちらが、皆川教授と、上田馨さん…」
「ええっ!?あなたが!?まあまあ教授、遠いところをわざわざ恐縮でございます!それに馨さんも、美鈴からよくよく聞いていますとも!私は美鈴の母親の京子と言います!」
美鈴さんのお母さんはそう早口に言って、僕たちそれぞれに忙しく頭を下げてくれた。その笑顔はとても明るくて、きびきびした動きも見ていてとても元気が出てくる。
「さ、ではお上がりになって、どういうことなのかお話聞かせてもらいましょ!」
美鈴さんのお母さんはそう言って、朝早い突然の訪問者である僕たちに向かい、ちょっといたずらめいた楽しそうな微笑みを返した。
美鈴さんのお母さんは教授と僕を奥の畳の間に通し、ストーブに火を入れて、お茶とお茶菓子を出してくれた。
「まあまあどうぞお召し上がりになって。ものごとは食べたあとに喋った方がいいから。お茶のお代わりも遠慮なく申しつけて下さいね」
僕たちは四人で低いテーブルを囲んでいる。僕は座布団の上で教授の隣に座らせられ、教授の前に美鈴さん、僕の前に美鈴さんのお母さんの順だった。僕はわけがわからなくなるくらいに緊張してうつむいていたけど、ちらりと目を上げて、テーブルの上を見る。目の前には抹茶のカステラらしいものが乗った皿が三つ乗り、それぞれに緑茶が注がれた古い茶碗が添えられていた。美鈴さんのお母さんの前には大きな急須が置いてあり、それを今にも誰かの茶碗に注ごうとうずうずしているように、急須の取っ手に右手を添えていた。
「わっ!「久仁」の抹茶クリームカステラ!?いただきます!」
「はいはい」
お菓子にはしゃぐ美鈴さんに、お母さんは呆れるような顔をしながらも微笑ましく頷き、僕たちにももう一度「どうぞ、召し上がって」と勧めてくれた。
「…それでは、有難く頂きますでな」
「ぼ、僕も、すみません、頂きます…」
僕たちは美味しいお菓子を食べ、お母さんの言う通り、一人ずつお茶をお代わりさせてもらった。美鈴さんのお母さん、京子さんの、明るいながらも仕切り上手な様子に、教授すら口を挟む暇はなく、今度はビスケットがお盆に乗せられて、テーブルの真ん中に置かれた。
「さ、どうぞ頂きながらお話しましょ。その方が話も心地よくできるわ。それで?皆川教授と馨さんは、どうしてこちらへ?」
教授はあえてなのか黙っていて、口を閉じている言い訳のように、ゆったりと茶碗からお茶を飲んでいた。美鈴さんもあまりのことに気後れしているのか、ちょっとうつむいている。僕は、座布団を降りて畳に膝と手をついて、美鈴さんのお母さんに頭を下げた。
「お母さん、僕に、美鈴さんとの結婚の承諾を下さい」
僕はそう言ってすぐに顔を上げて、畳に手をついたまま、美鈴さんのお母さんが両手で口を塞いでいる間に話を続けようとした。でも、どう言おう?僕は一瞬それを考えるのにお母さんから目を逸らしたけど、それはいけないと思って慌ててお母さんを見つめ直し、とにかく話せるものをすべて話してしまおうとした。
「でも、僕はまだ自分の両親の許可がもらえていません。両親は、古い考えに囚われているんです。それで…誰にも婚姻届の証人になってもらえないので、教授にお願いして、サインをお願いしたんです。もし最後まで両親が許可してくれないのであれば、僕は、家を離れようと思っています…。ですが、美鈴さんにそのような結婚をしてほしくないというのであれば、どうぞそう言ってください。僕は、美鈴さんのお母さんまで置いてきぼりにしようとは、思いません…。それに、これからだって、もう一度でも、両親に認めさせるため、努力します。お願いします…!」
話が終わり、僕はもう一度、黙って頭を下げた。場はしんと静まり返り、誰も何も喋らなかった。誰かが姿勢を直すのに畳がきしむ音を聴きながら、僕はゆっくり顔を上げる。
見てみると、美鈴さんのお母さんは目元にハンカチをあてがい、声を立てずに泣いていた。美鈴さんはお母さんの肩をさすっていて、教授は元のようにお茶を飲んでいる。
「まあ、まあ、そうですか…。美鈴のためにそこまで…おまけにあたしのことまで忘れずにねえ、本当に…。でも、ご両親のこと…ご心配でしょうに…」
僕は言葉に詰まった。もちろん僕も両親のことは気に掛かっているし、二人に受け入れてもらうより良い結果はないんだろう。でも、可能性がほとんどない。僕は、昨日の晩に母さんの口から放たれた、あまりにも歪んだ言葉を思い出した。
「…父と母が頷いてくれるなら、僕もそれより嬉しいことはありません…。でも、二人の心は頑なで…」
僕は辛かった。そんなことを、美鈴さんのお母さんにまで話さなければいけなかったのが。自分の娘が、結婚する相手の家から拒絶されていると知らされるのは、きっと並の悲しみじゃない。美鈴さんのお母さんは下を向いてしまった。そこへ、美鈴さんがまたお母さんに寄り添って、声を掛ける。
「大丈夫よ、お母さん。私、馨さんと一緒になれれば幸せだもの。だから、どうか許してちょうだい」
美鈴さんのその台詞を聴きながら、お母さんは左右の目に忙しそうにハンカチを当て、必死に頷く。
「そうでしょうねえ、そうでしょう…まあ、馨さん…!」
美鈴さんのお母さんは涙を払って顔を上げて、僕を見た。その時、ちらりと閃光が宿るその瞳を見て、「ああ、本当に美鈴さんのお母さんだ」と、僕は思った。そして美鈴さんのお母さんは、何から喋ればよいのやらといったように、興奮しながら喋り出した。
「この子は上京してから、「お友だちができた」といつもあなたの話をしてましてねえ、中学、高校と…いつも元気のないようだったけど、久しぶりに帰ってきたら、すっかり明るくなっていてねえ、あたしもびっくりしたけど、それからずっとあなたの話を嬉しそうにしているから、ああ、いいひとができたんだなって安心して…。ええ、ええ!どうぞこの子をよろしくお願いします!」
あちこちに顔を向けてから、お母さんはそう言って頷いてくれた。僕はもう一度頭を下げる。
「ありがとうございます」
その時、ピンポーン、と、玄関のインターホンの音が大きく鳴った。美鈴さんのお母さんが、涙を拭いながら立ち上がる。
「誰かしら、ちょっと見てきますね。あ、お菓子を召し上がって。美鈴、お茶を入れて差し上げてね」
そう言って席を立とうとしたお母さんを、「待ってください」と僕は引き留めた。
「多分、僕の家の者だと思います」
その場がぴりっと張り詰め、美鈴さんとお母さんはどうしたらいいかわからないように顔を見合わせていた。
「僕が行きます。皆さんはここで待っていて下さい」
僕は全員を残して、玄関までをきしきしと床を鳴らして歩き、インターホンの「応答」ボタンを押す。
「…公原さんですか。それとも、父さんですか」
インターホンの向こうから、憤懣やるかたないといった調子で、「私もいますよ馨。みんないるわ。ここを開けてちょうだい。話をするくらいならかまわないでしょう」、という、母さんの声が聴こえてきた。
Continue.
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