ch.3 偉丈夫トゥトゥ、若造と睨み合う

 パチャラは何処に行ったのだろう、と悩みながら、アムは車座のギュギたちから出来るだけ素早く隠れられる道を選んで歩き出した。自然とコースは限られる。

 ゆっくり歩いても一周一時間もかからない小さな島だ。

 それでもこのアルマナイマ星の群島域では「やや大きめの」島の部類。

 島の中央からやや東に寄ったあたりに岩山があって、それを挟んで南北にビーチが横たわる。

 中央部は熱帯気候の密林。耐塩性の高い草木(もっとも、この海の星で生育する植物のほとんどは、それなり以上の耐塩性を持ち合わせないとやっていけないだろう)がすだれのように生い茂っている。

 ひときわ高く樹冠を持ち上げているのは立派なホピの木で、これは実を食すという意味でも、食器や衣服や医療にも使われセムタム族の暮らしに欠かせない、地球由来の植物で言うならばヤシの木に相当する種だ。今、アムがセムタム風つみれ汁を入れている椀も、ホピの頑丈な実をふたつに割ったものである。

 北のビーチを反時計回りに歩いて、パチャラの気配を探す。

 熟練の野外生活者であるセムタム族が本気で隠れようと思ったらアムの目など届くはずも無いが、それでも探す。

 パチャラはアムを待っているはずだという確信があったからだ。

 正確には待たれているのはアムではなく食事を、だが。

 闘いに臨む前日に物を食べないとは思えない。

 <龍挑みの儀>に初めて参加するパチャラは補佐舟だが、銛撃ちの勇敢さでギュギの取り巻きに遅れを取る気などさらさらないだろう。首座銛撃ちのギュギを食う活躍をするつもりのはずだ。だから空腹では挑まない。

 それはアムがフィールドワーク中に彼女を観察して得た分析結果である。

 北の浜の端、白砂が岩に取って代わろうというところで一旦足を止めた。

 ここまで来ればギュギたちの目は届かない。そういう死角にいるのではないかと、アムは思ったのだった。

「パチャラ?」

 密林の側に近づいて、静かに呼びかけてみる。

「ごはん持ってきたわ。いるなら返事して」

 頭上からぼとりと鳥の翼が落ちてきた。

 ぎょっとして見上げると、地球産のヒョウのように木の枝に寝そべったパチャラが、満月の瞳を灯してこちらを見下ろしている。

 褐色の肌は木陰に溶けてしまいそうだ。

「びっくりした」

 アムが言うと、パチャラは微かに笑った(ように思う。妄想かもしれないとも思う)。

 音もなくするすると木から降りてきたパチャラはしなやかにアムの横に着地すると、地面に銛を刺し、微かな笑顔の兆候を消して、仏頂面で手を差し出した。

 椀を渡すと躊躇わずに、すう、と口をつける。目を瞬かせながらスープを飲むそのわずかな間だけ、警戒を脱ぎ去った素顔が浮かんだような気がした。

「美味しいでしょ。トゥトゥの自信作よ」

「あなたの料理ではないと知っています」

 急に敬語になったのは、アムが<成人親>であることを思い出したからだろう。

 <成人の儀>の見届け人、すなわち審査員を勤めた成人たちのことを第二の親としてセムタムは敬う。

 アムとトゥトゥはパチャラの成人親である。

 その当時から彼女はクールでカリスマティックで、いるだけで人々を惹き付けていた。

「あのね、私だって調理は出来るのよ。何たってトゥトゥが師匠なんだもの。それから、あなた食事は座って食べないタイプなの?」

 その気性をきっかり表した鋭角な眉越しに、パチャラは鼻に皺を寄せる。それから、すとんと腰を下ろした。

 アムも横に座る。

 椀からかぐわしい香りが立ち昇って、鼻をくすぐった。

 パチャラは指を椀に突っ込んでつみれを掬い上げ、ぱくりと口に放り込む。その動作すら綺麗なのでずるいとアムは思った。

 ギュギの気持ちも分からなくはない。

 そして、パチャラがあんまりにも美味しそうに食べるのでアムのお腹はぐうぐう鳴る。

「……」

 ふと気付くと、パチャラが口を真一文字にしてアムの顔を見ていた。

「えっ」

 アムが我に返って思わずもらすと、

「物欲しそうな顔をしないで欲しい」

 かっと頬のあたりが熱くなるのがわかる。

「その、ふたりぶん持ってくるとギュギたちにすぐ感づかれるから駄目でしょ」

「先に食べてこればよかったのでは?」

「うん、はい、そうですね。そうですとも。パチャラが全面的に正しいと思う」

 アムは浜の小石を拾ってぽいぽいと投げた。それをまたパチャラが怪訝な顔をして横目で眺めている。どちらが年上なのか分からなくなって、アムはますますやるせない気持ちになった。

「あなたは、厚かましい」

 と、パチャラ。

「うっ」

 アムは鼻の頭がツンと痛くなる。

 パチャラは指先に小石を掴んで見つめ、そして静かに元の場所に戻した。

「石ひとつとっても居場所がある。あなたは厚かましく他人の心に入ってくる。そんな職業はわたしたちセムタムにはないし、そもそも余所者あなたがなぜわたしたちのことを気にするのか。全然わからない」

「それは――」

 アムはパチャラの瞳から視線をそらして空を見た。

 そこには煙も無く、ひとつの機影も無い。

 ネオンサインも無ければ、天を貫く軌道エレベーターも無い。

 汎銀河系文明に取り込まれた星の空には当然見えるべきものが何ひとつない青。

「――それは私にも良くわからないの、パチャラ」

 ずり、と珍しくパチャラが肩透かしを食らったようなポーズをした。

「話にならない」

 立ち上がろうとしたパチャラに、アムは言う。

「わからないことが、そんなに悪いこと?」

 ひくり、とパチャラの手の中の椀が震えた。

「わからないのに好き。好きだけど私には何もわからないの。この世界、あなたたちセムタムのことが。だから私は知りたいと願う。汚されないように力を尽くしたいと思う。それは変かしら? そういうものってあなたには無いの、パチャラ?」

「わたしには……」

 言いかけた言葉の先を、しかしパチャラは噛み殺してしまった。

 代わりにこう言う。

「あなたは変だ」

 突き出された椀を受け取って、アムは小さくため息を吐いた。

 パチャラは歳のわりに頑固のような気がする。

 いや、ティーンエージャーだからこその頑固さなのだろうか?

「じゃあ、食後のご挨拶だけはしときましょう」

「は?」

「いただきますとごちそうさまをちゃんと言わないと怒っちゃうのよ、でっかいトゥトゥ師匠がね。私たち、いただきますを忘れたから減点一が入ってるわ」

 パチャラが反発しようとしたまさにその時、ぎゃあっ、と間近で男の悲鳴が上がった。

 草むらが激しく揺れ、アムは慌てて立ち上がってつんのめり、パチャラは銛を構える。

「てめえ、何を食事時を台無しにしようとしてやがる、このくそったれ。背骨折ってやろうか、ああ?」

 丈の高い草を押し割りながらトゥトゥが出てきた。

 ギュギの取り巻きのひとりの首根っこを片手で掴んで引きずっている。

 兄貴分にそっくりに髪を刈り上げた青年で、確かヒリと呼ばれていた。

「助けて! 助けてください! そういうつもりじゃなかった!」

「じゃあどういうつもりだったんだボケナス。食事をしてるときに背後から近づいて」

「ギュギがやれって言ったんだ」

 トゥトゥが腕を振り上げると、立派な成人男子であるはずのヒリが小鳥を持ち上げるように軽々と宙に吊り上げられる。必死に足をばたつかせるヒリを、トゥトゥはホピの木の幹にガツンと押し付けた。短い悲鳴がヒリの喉からこぼれる。

 トゥトゥは低い低い声で唸った。

「何をだ」

「首、首が……」

「てめえの首なんざ誰も心配してねえ。早く言え、昆布みたいな馬鹿」

 昆布みたいな馬鹿?

 初めて聞いた罵倒語だわ、とアムは脳内に書き付けた。

「ギュギが、今ならパチャラを襲えるかもって言って。どうせドクターは抵抗できないだろうから……っ!」

 トゥトゥの筋肉が全駆動し、投げ飛ばされたヒリは濡れた洗濯物をコンクリートに打ち付けたときと同じ音を立てて砂浜にキスをした。

「帰れ!」

 こちらの鼓膜を危うくする音量でトゥトゥが吼える。

 ヒリは顔面を真っ赤にして、振り返りもせず逃げ出した。その手から編みかけのアンクレットが滑り落ちる。砂浜に赤い血が点々と残っていた。

「クソガキが」

 ふん、とトゥトゥが鼻を鳴らす。

「……ありがとう、トゥトゥ」

「どういたしまして、ドク。なあ、もうちょっと警戒してくれよ」

「ごめんなさい。トゥトゥが見てるから大丈夫かな、って」

「お前もだパチャラ。ドクはとろいから仕方ないにしても、お前、それで<龍挑みの儀>をしようなんざよく考えたな」

「トゥトゥ、そんな言い方しなくたって!」

「何だ。とろいだろ」

「違うそこじゃない! そこも怒ってるけど!」

「あのなあドク。こいつは明日にゃあ命がけの勝負をしようってんだぜ。おい、そうじゃねえのかパチャラ? お前は龍がどっから襲ってくるか分かってんのか? 分かんねえだろ。もう明日だぜ? そんな時に楽しくお喋りしてたからって真後ろにいる馬鹿に気づかねえなんてのは駄目だ。すぐ死ぬ」

 ぐう、とパチャラが言った。

 言ったというか、感情の渦が喉から出てしまった、という音を発した。

 振り返るとパチャラは顔を歪めて、奥歯を噛み割りそうになっている。

 アムは何も言えない。腕を組んだトゥトゥから漂ってくる本気の怒りに気圧されている。彼は怒って、そして心配しているのだ。

 死ぬ、ということ。

 どれだけ本当に心配をしたことがあっただろうか、とアムは思った。

 汎銀河系のテクノロジーの中で育つと、死に対する意識が希薄になる。長命化処理は当たり前のものだし、身体の一部を失っても再生技術でいくらでも治った。そして大金を積めば神経マッピングとクローンへの全転写によって、ほとんど不死の存在として生き続けることもできる。

 けれど、この星ではそうではない。

 カヌーが転覆して溺れ死に、嵐の中の低体温症で死に、食あたりでも死ぬ。怪我をすれば一生ものだ。病院は無いし手術室なんてものも無い。あるのは民間療法と祈祷だけである。

 それに、彼らセムタム族は食物連鎖の頂点に座る知性体ではない。

 <ファル>というもう一種の知性体が、この星の最優勢種である。

 成体になればほとんどがセムタムを一口で食べるサイズにまで成長し、最大個体は汎銀河系の最新鋭戦艦を易々と撃ち壊す能力を有するという途方もないファルという存在を、アムは汎銀河系の人々にも響きやすいよう<龍>と訳した。

 パチャラは明日、その龍と闘おうとしている。

 爪に当たれば死ぬ。

 牙に裂かれても死ぬ。

 尾で潰されても死ぬ。

 翼に轢かれてもやはり死ぬだろう。

 ほんのひと呼吸間違えただけでパチャラは死ぬのである。そのことを、アムはトゥトゥの怒りによってはじめて(情けないことに)実感した。

「頭冷やせよパチャラ」

「すみません」

「俺に謝る意味あるか?」

「いいえ」

「明日になりゃあ意味がわかるさ。ああ、それからドクとは仲直り出来たんだな?」

 トゥトゥは不意に語気を緩めて、いたずらっ子の笑顔を浮かべる。

「は……」

「ドクがなあ、お前に嫌われたかもしれねえって暗い顔してたんだぜ!」

「はあ?」

 ひ、ひ、と笑い出したトゥトゥはアムとパチャラが無言で戸惑っているのが可笑しくなったようで、やがて止まらなくなった。

 腹を抱えている。

「ちょっと、ねえ、あなた笑い過ぎよトゥトゥ。パチャラからも何か言ってやって」

「何を」

「何かをよ」

 パチャラは心底困っている顔で呟いた。

「そういうのは苦手だ。……です」

 ふと、トゥトゥが笑いを引っ込める。

 どやどやと賑やかな声がして、ギュギたちの一団が砂浜を踏んで近づいてきた。

 ギュギは鼻血の後の残るヒリの肩に手をかけ、しきりに慰めている様子。

 ヒリはすっかり小さくなってとぼとぼと歩いている。ここに戻ってきたくはなかったのだろうが、リーダーの言うことなので仕方なく聞いている、という感じだ。

 セムタム族は基本的に独立独歩で生きているものの、経験の浅いティーンエージャーは同世代同士でそれなりにつるむ。地球産の雄ライオンも野生ではそのような社会形態を取るというから、似たようなものかもしれない。

「トゥトゥさん、ドクターさん。それにパチャラ」

 ギュギは最後の一名の名前を殊更に強調していった。

「仲間が失礼なことをしました。勘違いをさせるようなことを言ったのが悪かったです」

 そしてにっこりと笑う。

 何をいけしゃあしゃあと、とアムは思ったが言い返すのはアムの役回りではない。

 アムはセムタム族の成人でもあるが、その前に、あくまでも汎銀河系から派遣されている言語学者なのだ。

 ここにいるのは<龍挑みの儀>という彼らが最高に沸き立つ儀式を詳細に記録するフィールドワークの一環。彼らの社会に干渉しすぎるのは不可である。

「で?」

 と、トゥトゥが言った。

「許していただきたい」

「パチャラ?」

 トゥトゥが促す。

「どうでもいい。失せろ」

 聞く耳が凍えそうなほど投げやりにパチャラは言った。

 ギュギの顔が引きつる。

 こういう表情をアムは大学でよく見た。

 プライドにひびを入れられた学生のそれに近い。

「だそうだ」

 そこに駄目押しの如くトゥトゥが言い添えた。

 ひびの入ったままの顔でもギュギは滑らかに答える。

「そうですか。それなら安心した。明日のことがありますし、僕たちの間に遺恨を残すわけにはいけませんからね」

「ああ良かったな。良かった良かった。それで、お前はそっちのガキに何を吹き込んだ」

「蒸し返すんですか?」

「どうせドクは抵抗できないから、って言ったんだってな」

 ここでギュギの表情筋が笑みの形を選んだことにアムは戦慄した。

 挑発しているのだ、と。

「だって、ねえ。そうでしょう、そのひとは余所者の血が入ってる。僕たちと同じようにはいきませんよ。だから」

「だから馬鹿にするってえのは、どうも器がな、よう、沈まない太陽のナントカ」

 ふたりの男の間に火花が散った。

 ギュギが従える三人がじわりと喧嘩の構えを取る。

 アムは、はらはらしてその様子を眺めていることしか出来ない。

 波の音がやけに耳につく。

 珊瑚砂を引いては押す響きが尾を引いて鳴る。

 先に折れたのは、ギュギだった。

「はあ」

 と、わざとらしくため息を吐く。

「そうですよね、トゥトゥさんの大事なひとだ。ごめんなさい。言葉が過ぎました」

 そして仲間たちと共に頭を下げ、一応しおらしく背を向けて去って行った。

 トゥトゥは小指を立てて、それをひっくり返す仕草をする。

 <お前のカヌーなんてひっくり返ってしまえ>という侮辱のポーズ。

「トゥトゥ」

「よく我慢したな、ドク。俺なら足腰立たねえとこまで殴る」

「喧嘩になると困るでしょ。パチャラが」

 トゥトゥは、にやっと笑ってパチャラに言う。

「だってよ」

 パチャラはうつむいていて、何も返答はなかった。

 傷だらけの足先に力が入っている。

 それがどういう心の表れなのかアムには良く分からなかったが、まあ――、

「私もご飯にしていい?」

 アムが言うと、トゥトゥは大きな手で顔を覆って脱力した声で、

「ここはもうちょい盛り上がる所じゃねえのかよう」

「<空腹のセムタム、沖に出て倒れる>って言うでしょ」

「ドクと一緒にいると気が抜けるんだよなあ。ちくしょうめ」

 炎色の髪に手を突っ込んでがしがしと掻き回しながらトゥトゥがぼやいた。

「あ、そういえばパチャラはごちそうさまを言わないタイプなのよ」

「何だってドク。本当か?」

「何でそれを言う……」

 パチャラは苛々と足を踏みかえる。

「これからはちゃんと言えよパチャラ」

「はあ」

「返事」

「はい」

「ほら厳しいでしょ。食事はすべての基本だから、そうよね」

「おう。命を食って命を繋ぐのは俺たちの基本だからな。忘れないように言うんだ」

「ということで、ご飯にさせて。パチャラもお代わりいるんじゃない?」

 別にいらないと言うつもりだったか、口を開きかけたパチャラに先んじて、

「そうだな、今ので消耗したからな。こっちで新しく作ってやらあ。あいつらは勝手に食ってりゃいいんだ」

 とトゥトゥ。

「よっ、待ってました」

「おう待ってろ」

 待ってない、と呟いたパチャラの言葉はトゥトゥの耳を素通りし、新しい鍋を取りに意気揚々と歩いて行くふたりの背に向かって吐いた溜め息は風にさらわれて散り散りになってしまった。

 それでも律儀にパチャラはそこにいて、帰ってきたふたりに、

「本当に待ってた!」

「お前、意外と真面目だな」

 と言われることになったのである。



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