第17話

 二度目の幽体離脱は出来ぬまま、朝になった。

 身体の痛みが数時間も引かなかったせいで、精神を落ち着けるなどどうやっても不可能だった。インフルエンザに罹って迎えた熱帯夜のような、文字通りの悪夢をひたすらに耐え続け。ようやく痛みが落ち着いた頃には窓の外で雀が鳴いていた。

 ヘロヘロになりながら何とか朝食を済ませた。消耗した体力を回復しようとベッドに寝転がるが、眠れない。一人にしてきた彼女のことがどうしようもなく心配になる。

 悶々としたまま時計の針を眺め続け、ようやく夜がやって来た。

 夕食とお風呂を済ませ、いつものように意識を微睡みへと溶かした。もはや手慣れた手順を踏んで、僕の魂は肉体から離れていく。

 車の往来が絶えない県道を通り、僕は駆け足で三橋神社を目指す。途中でジョギング中の青年とすれ違ったが、無視してそのまま突き抜けた。

 やがて木々の間に鳥居が見えてくると、僕の足は次第にスピードを落としていく。

 突然自分を庇って轢かれ、更には姿を消してしまったのだから、きっと彼女は心配している筈だ。

 どんな顔をして会おうか? 笑顔かそれとも険しくいくか。考えて、結局いつも通りの表情に決める。

 石造りの階段を上り終えたところで、熱を帯びた視線が僕へと向けられるのを感じた。

 そちらを見る。これまでと同じく平たい大岩の上に、彼女は座っていた。

 潤んだ瞳で何回か瞬きを繰り返し、それからゆっくりと立ち上がった。微妙にふらついた足取りで彼女はこちらへと近付いてくる。一人言のような安堵の呟きが僕の耳に届いた。

「……よかった」

 そのまま僕の服にしがみつき、胸元に顔をうずめた。

「無事で、よかったぁ……!」

 肩が小刻みに震えている。

 涙混じりの声に色々な感情を抱かされながら、僕は彼女の背中を優しくさすった。

「優くん……! 私、優くんが死んじゃったのかと思って……!」

「……大丈夫。僕はここにいるから」

「本当に、本当に優くんですよね。偽物なんかじゃないですよね」

「本物だよ。一ヶ月一緒にいてまだ見間違えるの?」

「その言い方は優くんだ。やった。嬉しい! 戻ってきてくれた……!」

「ありがとう。僕のこと心配してくれて」

 絶対に離さない。とでも言うかのように、彼女は僕を抱きしめてくる。背丈の関係で、その頭頂部がちょうど僕の鼻の位置にあった。

 甘い香りが鼻孔を付く。愛しさが掻き立てられる。

「あの」

「何?」

「……痛く、なかったですか」

「……ちょっとだけ」

 嘘だ。後悔こそしてないけど、結構痛くて、怖かった。だがそれを言ったら彼女を責めるみたいになるから、僕は笑って何事もなかったように振る舞う。

 ……もしかしたら、見透かされているかもしれないけど。

「ごめんなさい」

「君のせいじゃない」

「でも、私がちゃんと確認していれば……」

「信号は青だったでしょ。無視したトラックが悪いんだよ」

 彼女が顔を上げた。

 悩んでいたのだろう。端整な美貌に焦燥の残り香がある。不謹慎な話だが、初めて見る彼女の弱々しげな表情は、早朝の薄靄のように儚くて美しかった。

「……役得かもね、これ」

「……っ!」

「気にしないでとは言わないけどさ。君を助けたのは僕がそうしたいって思ったからなんだよ。だから……ね?」

「……優くんは、優しすぎますよ」

 まったくだ。そこだけは流石に言い返せない。

 そのまましばらく静けさを分かち合った。彼女が落ち着いた頃合いを見計らって、僕は気になっていたことを口にする。

「あの時、動けなかったのはどうして?」

 トラックが接近していることに気付いた瞬間、彼女は異常なほどに怯え、竦んでいた。昼間に考えて思ったのだ。それには何か特別な理由があったのではないか、と。

「思い出したんです」

「何を?」

「私が撥ねられた時のことを」

 息を飲む。

「事故か、それとも自分でそうしたのかは分からないんですけど。昨日みたいに車に轢かれて、それで私は死んだんだと思います。すごく……怖かった」

「だろうね」

 経験したから分かる。

「つまり、その時の恐怖が蘇ってきて……」

「何も出来なくなりました。突き飛ばされて我に返ったら、目の前で、優くんが」

 無残な目に遭っていた、そういうことだろう。

 トラウマを抉られ、さらには僕の死に様まで見せられた。彼女の心境は想像することすら出来ない。

 昨夜から今夜までの一日は、彼女にとって本当に苦しいものだった筈だ。死因が事故死というのは判明したけれど、今更である。

「記憶喪失の原因、それかも」

「え?」

「人ってね、とんでもなく恐ろしい目に遭ったとき、自分を護るために記憶を消すんだよ。それか、撥ねられた時に頭を強く打って記憶を忘れてしまった。どっちかじゃないかなって」

 あくまで推測に過ぎないし、しかも分かっても意味の無いことではある。それでもあえて口に出すのは、彼女の気分を少しでも紛らせてあげたいからだ。

 けれどすぐに話は途絶えて、再び何もない時間が始まる。

 沈黙は傷を癒やすのだろうか。僕が無言のまま彼女の背をさすっていると、彼女は足を組み替えて、縋りつくように華奢な身を委ねてきた。

「……もう少し」

 息継ぎ、一つ。

「もう少しだけ、このままで居させてください」

 断る選択肢なんて無い。

「……分かった」

 ああ、駄目だ。

 耐えられない。

 いけないと分かっていても、彼女の一言一言に心が揺さぶられ、惹き寄せられる。

 彼女の柔肌を今よりも知りたいと願ってしまう。

 こうして触れ合うこの瞬間が、永遠に続けばいいのにとすら思ってしまう。

 叶っても、すぐに失うと知っているのに。


 その夜、僕は目を背けていた一つの事実に向き合う覚悟が出来た。

 疑いようもなく恋だった。

 彼女という人に、魂が恋をしてしまったのだ。

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