第11話:師匠

 不思議な力が僕たちの身体を支えていた。温かくて優しい。そして柔らかい。穏やかな巨人の手で、全身を包み込まれているような感覚だった。

 事態を理解する暇もなく、僕たちはそのまま安全な場所まで運ばれる。両足がしっかりと地に付いた時点で、謎の力は唐突に消え去った。

 助かった、それだけは分かる。だけど今のは……?


「大丈夫か」


 珍しく不安げな表情を浮かべる黒羽に、戸惑いながら訊いた。


「黒羽がやったの?」

「違う。多分、あれは……」

『儂がやったのじゃよ』


 遮るように声が響いた。


『よく来たの、人間の若者』


 老人のように落ち着いて、深みのある声だった。それはまさしく雄大な海原、あるいは果てしなく続く大地のよう。声量はそこまで大きくないのに、不思議と周囲の雑音には邪魔されず、脳の芯まで滑らかに染み入ってくる。

 慌てて辺りを見回すも、目が届く範囲に人影は無い。


「誰?」

『山頂近くで待っておる。気を付けておいで』


 こちらの質問に答えることはなく、一方的にそれだけ告げて声は消え去ってしまう。訳が分からなかった。


「師匠の声だな」

「あれが? でも、近くには誰もいないけど」

「この山は師匠の領域だ。中で起きてることは何だって把握してる。私らがやって来たことも、ついさっき落ちかけたことも全部」

「僕らのことをずっと見てるって意味?」

「見るというより感じるの方が正確だ」

「……凄すぎて想像がつかない」

「会えば分かるさ。とにかく、師匠は格が違うんだよ」


 黒羽がそこまで言うのだから、相当だ。一体どんな人なんだろう。

 僕の貧弱な想像力では、道着を着た白髪の姿しか思い浮かばない。座禅を組み、滝に打たれ、正拳突きで大岩を粉々にする老人の姿だ。多分、現実は違うだろうけど。

 黒羽に促されて僕は歩みを再開する。目の前の、細身ながらも頼もしい背中を追って、黙々と。

 疲れた身体に激励を飛ばしながら進めば、傾斜は段々と緩やかになっていった。

 やがて、唐突に視界が開ける。

 辿り着いたのは円形の広場だった。足を踏み入れてみれば、周囲より少しだけ盛り上がっていることが分かる。刈り取られたかのように草木の存在しないそこは、見方を変えれば天然の玉座に見えなくもない。

 僕たちの真正面、目を見張るような大木の根元。

 そこにそれら・・・はいた。

 朝日の輝きが背後からゆっくりと領域を拡大し、二つの巨体を照らし出す。

 片方は、蛇。綱引きの縄のように太く、長い。地面の上でとぐろを巻いて、その口から赤い舌をチロチロと出し入れしていた。端から端まで体表は真っ白。あまりの威厳と神々しさに、僕は自然と膝を付いてしまいそうになる。

 それに輪をかけて神秘的なのが、隣にいるもう一方の獣だった。

 狼。いや、もしかすると山犬だろうか。純白の毛並みが早朝の風に流れて、光の粒子を空中に溶け込ませている。木の幹に身体を預け、悠然とそこに佇む様は、ため息が漏れてしまう程に美しい。

 姿は捕食者のそれなのに、まるで凶暴さを感じないのが不思議だった。


「おや、お客さんのご到着だね」


 深い赤色をした口で、蛇は器用にも人の言葉を話してみせる。一瞬自分の耳を疑ったが、幸か不幸か鼓膜は正常だった。


「それではこのあたりで失礼しようか。楽しかったよ犬神」


 そう言ってから、大蛇は地を這ってこちらへと近付いてくる。黒羽が胸に手を当てて、優雅な仕草で一礼を送った。


「お久しぶりです、蛇神様」

「黒羽も元気にしていたかい? 前に会った時よりたくましくなったようだけど」

「日々、鍛錬を積んでおりますから」


 雰囲気からして顔見知りなのだろう。親しげに話す一人と一匹の様子を、僕はその横で戸惑いながら見つめていた。


「で、この子がそうなんだね」

「はい」

「なるほど、実に利発そうな風貌だ」


 蛇がこちらをじっと覗き込んでくる。ルビーによく似た赤い眼は、僕の心を赤裸々に見透かしているかのようだ。


「ご機嫌よう、青年」

「ど、どうも」

「綺麗な瞳をしているね。心が澄んでいる証拠だよ。これからも同じ道を歩みなさい。さすればきっと、運はそなたに味方してくれる」

「はあ、ありがとうございます」

「縁があればまたいつか会うだろう。幸あれ、若者。未来が実り多きものとなるように」


 白い巨体がそそくさと藪の中へ去って行く。大蛇から励ましの言葉を貰ったのは初めてだった。

 さっきから目に入ってくる光景の全てが、あまりにも衝撃的すぎて実感を抱けない。これは夢か、あるいはよく出来た幻なんじゃなかろうか。

 こっそりと手の甲をつねってみたが、目が覚めることもなく普通に痛かった。


「日南の蛇神じゃよ。ちょっと前までは見上げるほどのデカブツだったのじゃが、信仰を失ってああなった」


 口だけを動かして山犬が言う。わずかに覗くその牙は、包丁のように大きくて鋭い。

 王者の風格に圧倒されつつ、僕はおそるおそる問い掛ける。


「あなたが黒羽の師匠様ですか?」

「いかにも」


 山犬が答えれば、それだけで大気はビリビリと震えた。


「儂の名はマヤ。黒羽の名付け親にして、この山を統べる守り神である」

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