第10話 忘れるのよ、私

「一年間……?」

「あぁ、婚約破棄をして早々に新たな婚約では、周りにも示しがつかないからな。ということで、マリーリには婚約状態でブレアの地へ行ってもらう」

「え、と……婚姻はせずに、婚約状態のままでってこと?」

「あぁ、そうだ」


 グラコスに呼び出されたと思えば婚約のことだった。

 グラコスもここのところ忙しかったのだろう、目の下にはクマができて顔色も悪く、髪には幾分か白髪が混じり、あからさまに疲弊した見た目である。

 話の内容はこうだ。

 とりあえずブランとの婚約は一度破棄とし、お互いによく考えて問題を解消してから改めて結ぼう、と。

 マリーリはブランに浮気をされてショックを受けているし、睦言とはいえブランはマリーリに気持ちがないと公言しているようではこのまま婚約を進めてもお互いにとってよくないだろうという判断で、一度まっさらな状態にしたという形だ。

 もちろん、ブランの父であるグシュダン伯爵はどうにかその案を撤回して欲しいと何度も食い下がった。

 だが、いくら爵位がフィーロ家よりも上とはいえ、資産が少なく自身の事業に投資をしてもらいたいグシュダン家はそれ以上何も言えず、またバード侯爵家からも婚約の話が出ていると牽制したことで、渋々ながらも認めざるを得なかったようだ。

 そもそもグシュダン家はパキラ子爵家とも揉めているようで、今回の件で至るところに不都合が出てしまっているようだった。


「でも、私は婚約のままジュリアスのところへ行っていいの?」

「うん? まぁ、まだ正式に婚姻は認められないが、婚約という形で行っても差し支えないだろう。ブレアの地は隣の領地とはいえ、いささか離れているからこの件が漏れることもないだろうし、さすがに一年もしたら事態は落ち着いているだろうから、そうしたら盛大に結婚式を挙げるといい。それに色々と急だったからな、ジュリアスくんとの結婚もそこまで急く必要はないだろう?」

「……そうね」


 マリーリがあからさまに気落ちしてるのに気づいたのか、すぐさまグラコスはマリーリを慰めるように彼女の肩をポンポンと軽く叩く。

 だが不器用なグラコスは気の利いた言葉を紡げず、少し黙り込んだあとに口を開いた。


「必要なものは早く言いなさい、用意をさせるから。メイドも何人か連れていくといい」

「ありがとうございます、お父様。お言葉に甘えさせていただくわ」

「何、一年なんてあっという間さ。せっかく新天地に行くのだから楽しんできなさい」

「ふふ、そうね。楽しんできます」


 恭しく頭を下げてグラコスの部屋を出るとふぅ、と小さく息を吐くマリーリ。

 その顔には不安が滲み出ていた。


(婚約状態でジュリアスと……)


 あまり前例がないことだがいいのだろうか、と不安に思う。

 そして婚約も一度破棄とはいえ、まだブランと繋がりはあるということだし、全てが宙ぶらりんのままだ。

 けれど不安ながらもブレアの地に行くことはマリーリにとって楽しみであった。

 あの自然豊かな土地なら、色々なことを忘れられるような気がした。


 ーー趣味が乗馬に狩猟? やだ、男性に媚びを売ってるの? はしたないわねぇ。


 ーーあの女、ちょっと触れたからって俺の手をはたきやがって、誰があんなブス相手にするってんだ。


 ーーまぁ、貴女のおうちは成金ですものね? 品位がなくても仕方ありませんわ。


 あの揶揄する言葉が耳に残っている。

 マリーリは身体を震わせ、頭を押さえた。


(忘れるのよ、マリーリ。私はあんな言葉に屈してはダメ)


 頭を振り、邪念を払う。

 以前社交会で口々に言われた言葉がずっと頭の中で木霊している。

 普段はなるべく考えないようにはしていたが、ふとした瞬間に蘇るトラウマ。

 マリーリはこれらの出来事のせいで精神を苛み、社交界に出られなくなってしまっていて、克服しようと足掻いてはいるのだが、トラウマの根は太く、なかなか払拭することができなかった。


「マリーリさま?」


 声をかけられて顔を上げるとそこにはミヤがいた。

 私の顔色に酷く驚いた様子で、「大丈夫ですか!?」と顔面蒼白になっている。


「ミヤ、大丈夫よ。ちょっと嫌なことを思い出してしまって」

「ちょっとどころの顔色ではないですよ!? 早くお部屋に戻ってください。白湯をお持ち致します」

「ありがとう、ミヤ」


 ゆっくり、のっそりと部屋へ向かう。


(本当に私ったらミヤがいなかったら何もできないのね)


 そう自嘲してはマリーリはまたズキンと胸を痛めながら、ミヤに支えられながらふらふらと自室へと戻るのだった。



 ◇



「もちろん、お引越しには私をお供に連れてってくださいますよねぇ!?」


 ずずい、と顔を近づけてくるミヤ。

 いくら可愛らしい顔立ちと言えど、近くで見ると圧力が半端ない。

 マリーリはミヤの大きくて澄んだ瞳に羨みながら、「もちろん、ミヤにはついて来てもらうわ」と言うと、とても嬉しそうにミヤは跳ねてマリーリの顔に豊満な胸を押しつけた。


「ありがとうございますぅ〜、マリーリさま!」

「だ、だから、息ができないって……!」

「あらあら、うふふ、私ったらつい嬉しくてぇ。それで? 新天地には何を持っていくんです?」

「何を持っていけばいいのかしら、と思って」

「あらあら、まぁまぁ。確かにマリーリさまはそういったことは疎いかもしれませんねぇ。でしたら必要なものをリストアップしておきますわ」

「ありがとう、ミヤ」

「いえいえ〜、これも仕事のうちですから」


 再び、我ながら何もできないと自分の無力さにずぅん、とマリーリは沈みこむ。

 よくよく考えてみれば、マリーリにできることは絵画と乗馬と射撃のみである。


(女らしさの欠片もないわね)


 これだとジュリアスから愛想つかされるのも時間の問題ではないだろうか、とだんだん不安になってきた。


(顔だってイマイチ、胸もあるわけでもなければ教養だって大してない。愛嬌も全然ないし、私のよさって何だろう?)


 ミヤはこうしてなぜか慕ってくれているが、みんながみんなこうではない。

 両親は別として、キューリスだって本音では見下していたし、ブランだって私のことを……とマリーリは悪いほう悪いほうへと考えてしまう。


「マリーリさま?」

「な、なに!?」

「最近ぼんやりしてること多くありません? 大丈夫ですか?」

「え、えぇ、大丈夫よ」

「だといいんですけどぉ。とにかく、考えこんではダメですよ? マリーリさまは考えこむとろくなことしませんから」

「ろ、ろくなことって……言い方酷くない?」

「でもでも、そうですよ〜! マーサさまに怒られたときだって、もう家にいられない! って家出しようとなさりますし〜」

「そ、それはだいぶ前の話じゃない……!」

「そうですかぁ? グラコスさまに叱られたときだって、もう生きていけない! 木の上に登っておりなかったこともありましたよねぇ?」

「よくそんなこと覚えているわね」


 どれもこれもマリーリにとって黒歴史だ。

 マリーリは昔から極端に考えこみすぎてしまう傾向にあるのはある程度自覚していた。

 とはいえ、そのクセがすぐに治るはずもなく、ふとした瞬間にフラッシュバックしてはつい考え込んでよからぬほうよからぬほうに考えてしまう。


「ですからぁ、マリーリさまは考えこむとろくなことしないので、今は刺繍に専念してくださいませね。で、進みました?」

「うぐ。痛いところついてくるわね……。まだイニシャルが終わったところよ」

「まぁ、……それで? 鷲のご予定は?」

「ちゃ、ちゃんとやるわよ!」

「ではさっさと仕上げないと。いくらご婚姻が延びたとはいえ、せっかくですもの、早くお渡ししたほうが喜ばれますよ?」

「……わかってるわよ」


 わかってはいるが、どうにも苦手なものになると億劫になるものだ。

 マリーリはどうも苦手なものからは目を背けてしまう性格で、なかなか思うように進まない刺繍もあまり手をつけずに放置気味だった。


「ジュリアスさまにお渡しするんでしょう?」

「す、するわよ」

「だったらちゃんと縫ってください〜。今日から私とマーサさまでつきっきりで監視致しますからね?」

「えぇ!? お母様まで!??」

「もちろんですよ! ふふふ、ビシバシいかせていただきますよ〜?」

「お、お手柔らかに、お願いします」


 とんだ大事になってしまったと思いながらも、監視がいないとやる気が起きないのもまた事実なので、マリーリは大人しくその提案を受け入れざるをえず、渋々了承するのだった。

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