彼は誰?
第1話
初夏のこと。一気に暑さが増したせいか私は体調を崩し熱を出していた。
食べ物も受け付けず、何か口に入れてもすぐに嘔吐し、薬さえも吐く始末でなかなか治らない。そんな私を心配そうに母と鈴が入れ替わり立ち代わりで看病をしてくれている。
そんな折、陸軍士官学校の休みだといって兄が家に帰って来た。
「大丈夫か、藤花、藤花!」
意識も朧にそんな大声で叫ぶ龍彦兄さんの声が嬉しくて、大好きな龍彦兄さんに早く会いたくて頑張って熱を下げて身体を起こしたいと願う。
そんな翌日の事である。朝からじわりと汗ばむ蒸し暑い日であった。
昼を過ぎた頃にすっきりと目が覚めると傍らに和馬がいて「わっ」と声をあげてしまう。あまりに驚き過ぎて心の臓が止まりそうだった。いやこんな所で死んだら人生をやり直している意味が分からなくなってしまうので死ぬつもりは毛頭ないのだが……。
「何でいるのっ?」
「ああ、藤花。良かった。今小母さんを呼んでくるからね」
――何故ここに和馬が? 一体いつから?
和馬が部屋を出て行ったと思ったら今度は騒々しく龍彦兄さんがやって来た。
「藤花!!」
「龍彦兄さん? 帰っていらしたの? お帰りなさいませ」
「ただいま。いや、そんな事より藤花〜〜〜、もう会えないかと思ったよ」
大袈裟だな、と思いつつも私も兄に会えて嬉しくて顔が綻ぶ。
「何だか龍彦兄さん大きくなりましたのね?」
単純に背が高くなっただけではない。白い開襟シャツを着ていても筋骨隆々とした上半身が見て取れる。
「ああ、毎日厳しい訓練があるからな」
「ご苦労様です。大変ですか?」
「大変と言えばそうだが、仲間もいて楽しくやってるさ」
龍彦兄さんの微笑みの後ろから心配そうな顔をしたお母様が部屋に入って来る。
「まあまあ藤花ちゃん目が覚めたのね、気分はどう?」
「龍彦兄さんが帰って来てくださったお蔭で気分はいいです」
ほっ、と息を落としたお母様は鈴を呼び、私の身の回りを整える。
そして一旦着替えましょう、と言う事になり部屋に鈴だけを残してみんなは出て行った。
鈴には先に身体を拭いてもらい、それから着替えを手伝ってもらう。
「ねえ和馬はいつから来てたの?」
先程から気になっていた事を鈴に尋ねると鈴は微笑む。
「和馬様は早朝から来て下さっていましたよ。昨晩ご実家に戻られて松子様にお嬢様が寝込んでいると聞いたそうで」
「それで早朝から? ……早すぎない? 迷惑でしょう」
「ふふ、お嬢様をとても心配しておられるのでしょうね」
「心配ね……」
そうね、和馬は剛田由真と出会うまでは昇格の足掛かりに私を利用したいはずだから、利用出来る間は心配くらいするのかもしれない。
「そっかあ」
鈴は着替えの終わった私の肩に手を置く。
「はい、出来ました。お嬢様も皆様がおられる広間へ行きますか?」
「うん。では、少しだけ」
「体調が優れないようでしたらすぐにお部屋に戻りましょうね」
私は過保護な鈴に腰を支えられながら広間へ足を運んだ。
広間へ行くと、そこには母と龍彦兄さんと和馬と、それからもう一人見覚えのあるようなないような殿方が円卓を囲って座っていらっしゃる。元々和室の広間は畳の上に絨毯を敷いて大きな円卓と椅子を六脚置いていた。
龍彦兄さんが自分の隣の椅子を引いて、ここにおいで、と私を座らせる。
そこは左に母そして和馬と並び、右には龍彦兄さん、その隣に存じ上げない殿方がいらっしゃる。
「藤花、こちらは
「村本様? 初めまして、妹の藤花でございます」
「初めまして藤花ちゃん。村本貴男と申します。君の事はよく龍彦くんに聞いているよ。聞いていた通り実に可憐だね。私に様付けは要らないので貴男と呼んで下さいね」
「はあ」
何と答えて良いのやら……。それに『可憐』だなんて誰にも言われた事なんてないのに。
熱は下がったはずなのに顔が熱い。
それに真っ直ぐにぶつかる色素の薄い貴男さんの瞳がとても澄んでいて吸い込まれそうになる。微笑みの顔にあるその瞳を綺麗だと思った。和馬とはまた違う種類の整った顔立ち。まるで西洋の
「貴男とはすっかり意気投合してしまってね、お互いに良い好敵手なんだ。それで休みが頂けたと言うのに帰るような家はないなんて言うからさ、ウチに連れて来たと言う訳だ」
「突然すみません。ご厄介になります」
兄さんの言葉を聞いておぼろげに思い出す。そういえば一度か二度、泊まりに来た方がいらっしゃったかもしれない。
記憶に残っていないと言う事はすなわち、和馬以外の男性に興味がなかったという事がよく分かる。私はどれだけ和馬しか見ていなかったのだろう。こんな美丈夫の記憶がおぼろげなんて前の私は相当どうかしていたに違いない。
「いいのよ、いいのよ、大勢いた方が楽しいものね! だけれど龍彦が迷惑をお掛けしてませんか?」
「いえいえ、そのような事はありません。いつも良くしてくれるので私も嬉しく思っております」
和馬へチラっと視線をやると、どうしてか貴男さんを睨んでいるようにも見えた。
なるほど。兄のように慕う龍彦兄さんを貴男さんに取られた気分なのだろう。その気持ちは私も分かる。
それから貴男さんが何か口を開くと、決まって和馬が遮るように龍彦兄さんに話しを振る。
「とう──」
「龍彦兄さん、士官学校ではどのような事を学ばれるのですか?」
ほら、また遮っている。しかしそれを貴男さんは特段気にする様子はない。お顔にも不快な表情は表れないので、心のお優しい方なのだろう。
それから龍彦兄さんは学校での話しを和馬にたくさんしていた。誇らしげに話す兄さんを和馬は尊敬の眼差しで嬉しそうに聞いている。
けれど士官学校の話ばかりで退屈になって来た私は部屋に下がろうと思った。
「ご免なさい、わたしお部屋に戻ります」
「部屋まで一緒に行くよ」
和馬がそう言ってくれるが、
「和馬は龍彦兄さんとまだお話していてくれていいのよ。わたしなら大丈夫だから、ありがとう」
私が和馬をやんわりと拒むと、静かに貴男さんが立ち上がる。そしてみんなの注目を集める中、すっと私に手を差し出した。
「ではお嬢様。お部屋まで私がエスコートさせて頂きます」
「まあ、素敵ね」
紳士な貴男さんを母が嬉しそうに褒め、龍彦兄さんまでもが、妹を頼むよ、などと言い出す。
――私は一人でも大丈夫なのに……。
だが期待に満ちたたくさんの瞳に負けた私は恥ずかしながらも貴男さんの手に自分の手を軽く乗せる。貴男さんの手は磁器人形ではなく人間だと分かるほど温かく、龍彦兄さんに負けないくらい大きくてがっしりとしている。
そして貴男さんはゆっくりと私の歩幅に合わせて部屋までの短い距離を真面目にエスコートして下さった。
一度目の人生でこのような事はなかった。それはそうだ。私は和馬にべったりとくっついていたのだから。
そうだ……。こうやって和馬から離れる事で人生を変えていかなければならない。
隣の殿方を見上げると、視線に気付いてにこりと微笑み返してくださる。その真っすぐ下りてくる視線が眩しくて目を逸らしてしまった。
「貴男さん、ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ短い距離ですが隣を歩けて光栄です。身体を横にされますか? お手伝い致しますよ」
「いいえ、そこまででは……」
――恥ずかしい。
思えば父と兄以外の男性と手を繋いだのなんて和馬くらいしかいない。しかもその和馬も最早身内みたいなものだ。
「ほんとに可愛いらしいですね、藤花ちゃんは。そうだ、」
貴男さんはガサゴソと上着のポケットに手を入れそこから何かを取り出すと、手の平を開いてそれを私に見せる。
それは茶色の箱のキャラメルだった。
「お好きですか? キャラメル」
「はい。甘い物はだいたい何でも好きですけど?」
「ではこちらを差し上げます」
「そんな、頂けません!」
「これ、藤花ちゃんに、と思っての手土産だったのですが……。そうですよね、もっと良い品を用意するべきでした。すみません」
「そんな、違います! ……えっと、違うんです。嬉しいです。あの、その、いただきます──」
慌てる私を見て貴男さんがくすりと笑った。
「すみません、あまりに可愛いくて。ゆっくりと休んでくださいね」
そう言うと私の手を取ってそこにキャラメルを乗せるとにこりと笑って踵を返す。
貴男さんの背中をぽおっと見送る頬が熱い。それにしても、
──可愛い、って言い過ぎでしょ!
可愛いと言われ慣れてない私は、それだけでまた熱が出そうだ。両手でキャラメルの箱を持って胸を押さえるが、私の胸はいつもより激しく動いている。
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