エピローグ

 ※ 【再掲】注意!!

 解答編およびエピローグは文章が長めです。

 分割しようかと思いましたが、PV数にこだわりのない作者&分割しない方がゆっくりひたれるかも……?という判断です。



 ・解答編  (  済  )    約13,000文字(目安時間:26分)

 ・エピローグ(このページ)    約10,000文字(目安時間:20分)




【最終警告】

 ★の後、すぐにエピローグが始まります。

 解答編を見ていない方は引き返すこと!




























 ★


 こだま覚悟で乗る気が、ツムギの気遣いによりひかりになった。

 終電確定だったので、これなら一時間以上早く帰れそうだと感じた。

 秋縄は駅弁を適当に見繕ってひかりに乗り込んだ。自由席は意外とすいていた。富士山側の窓際の席に腰を下ろし、通路側に荷物を置くと新幹線は起動音をあげて動き出し、そのままトンネルにもぐっていく。

 暗黒の窓はガラガラヘビのような車内を反射している。映った横顔はひどく疲れていた。それを見るやどっと疲れが押し寄せてきて明日の出勤が嫌になってくる。

 

「ほら、明日早いんだろ?

 乗りかかった舟なんだし、ついでに奢ってやる。やるから、さっさと帰って寝ろ。あと、姉をよろしくな」

 数分前、月並みな別れの言葉を最後に改札から去っていく親友の姿。

 戻るのか、と聞いてみると、むりむり、と手を振ってみせた。

「もうそういう気力がない。俺も年を取ったな。

 宿これから取れればいいんだが。まあビジホでもいいわ。これから動画編集やらないと」

 今夜上げなければ、という執念めいたものがあるらしい。明日ではいけないのだと。

 投稿は定期的に上げなくてはいけないのだという。休んでいる暇なんてない。編集時間が長くても、それを頑張っただけのお金が振り込まれるわけではない。サービス残業に等しい。まあ、そういう経験したことないけれど……大変だな、という印象を持っている。

 と同時に、自分もまた、大変だ、と。

 

 さっき買ったシウマイ弁当は味はしみて美味しいものの、やはり冷めているのであまり箸が進まない。着いてからでもいいか。そう思うだけで、眠りを優先させるだけで、津波のようなどっとした重みが押し寄せてくる。

 ずいぶん疲れているようで、車窓に映る夜景と薄く反射する自分を眺めているだけでだんだんと視界が狭まっていくのを感じる。瞼の上に人ひとり分のおもりが乗せられ、促される。

 

 本格的な眠りの前の、単なる暇つぶしとして、現代病の象徴を取り出した。

「熱海を通過しました」というアナウンスを尻目に、本格的なものが来るまで意味のない指をスマホの上で振り続けた。

 その中には、相変わらず姉からのメッセージ画面もある。

 何の気なしにスクロールする。最後が追い付かないもののつぶやきのような羅列を過ぎて最新の最深部へ。

 ずいぶんと長文だな、まったく、今度はどんな設定が頭に舞い降りたのやら……ああ。長げえ、長げえ。

 上にスクロールをして、最初の一文から目を通して考えているうちに虚ろになる。彼の身体は疲労困憊の波に飲まれていく。

 座っていて身体中の血の巡りを悪くさせて、頭に血が昇らない。明日はもう早いのだ、と疲れに身体をゆだねてしまった。スマホをつけたまま寝てしまった。


 もう最高速は出ているだろう、あっという間に静岡県を貫こうとしている。次の停車駅は愛知県にならないと停車しない。

 ひかりよりも速いのぞみ、そして近い将来完成するであろうリニアはこれよりも格段に速くなる。興味のないネット記事をスクロールするように、あっという間に人生の一部を通り過ぎることになるのだろうか。

 車輪から発せられる衝撃のある走行音。車両ごと揺さぶられる振動。

 それに乗じて力の抜けた腕は投げ出され、手のひらの拘束から逃れようとスマホは床に落ちた。豪快な音が鳴ったようだがほかの乗客からの苦言はない。画面を上にしての着地。その画面はついたままだった。

 

「ごめんね、五月さつき

 過去からは、この一文で始まっていた。



 ★


 

 ごめんね、五月。

 不審には思ってただろうけれども、何も知らなそうにしてくれて。

 ごめんね、五月。

 次第に狂ってきた私から離れないでいてくれて。


 でも、もうダメみたい。

 数年前から私ね、あなたのことが分からなくなっしまったみたいなの。弟がいるっていう認識でさえ、頭の片隅に追いやられてしまって。別の物体が私の中に取り憑いて勝手に身体を操作するの。私じゃない私が、この身体に染みついてしまったの。それは、あの日に植え付けられたんだと思う……

 だからごめんね。これから読む文章は私にとってはあまりに残酷で救えない結末なんだろうけれど、あなたは夢だと唾棄だきしてしまっていい。妄言だと突き放してもいい。

 これは懺悔、後悔、過去の塊。今あるありったけの正気の欠片を握りしめて書くつもり……

 

 私を襲った五年前の悪夢……、ほんの数時間前の出来事のように思い出すことができる。あの時、あの日……私は吹部の副部長だった。最近では大会に向けての追い込みの練習があって忙しかった。

 それで部活動で遅くなることが多くなって、夕食の準備もままならないことが多くなってきてしまって。けれど、そのおかげで準優勝を収めることができた。


 大会は……、当時の優勝校はどこだっただろう。本当に覚えのない。ただ、程度の低い、学力の低いところだったことだけは記憶に残ってる。才能だけでなく努力、マナーなどをひっくるめた、センスに全振りしたような演奏方法だった。

 マリンバやヴィブラフォンの奏者には、耳ピアスが付けられていて、ヴァイオリンのスカートの丈は短すぎるし、ティンパニはそこにいるだけでいいと言いたげに眠たげなあくびを繰り返していた。

 そして、オレンジジュースにでもひたしたような髪色をした生徒が指揮棒を振るっていた。

 メンバーはどれをとっても態度や髪色などはまばらで制服でさえまともに着られていない。でも、県大会に出場するくらいだったから。見てくれはそうでも腕前は一流品。

 極めつきには優勝してしまった。楽器から出る音色が合わさるときれいでうっとりするくらいだった。魔法のようであり、努力の結晶であり。

 雲泥の差。そういった言葉が心を通り過ぎる。感心した。音楽は見た目からは想像もできないのだと。時間をどれだけ費やしても、身なりを整える努力をしてでも、決して越えられない壁があるのだと。

 

 そうして大会を終え、それでも私たち吹部はA高校に準優勝の賞状をもたらした。

 でも、それがいけなかった。悪夢は大会が終わった翌日に起こった。


 大会の翌日、私たち吹部のメンバーは駅前で打ち上げでもすることになった。

 準優勝にかこつけて青春を謳歌したかっただけ。今になるとそのように思う。

 打ち上げ会場はその場の雰囲気で決まったためか、私たちはH駅前のファミレスに駆け込んだ。平日の夕方ともあって席は空いている。パーティ気分ではしゃぐ場面にはもってこいだった。

 豪勢な食べ物が出てくるわけでもないのに、私たちのテーブルの皿は次第に空になっていき、他愛もない話で盛り上がった。

 

 勉強してる? ぜーん然。先月の模試、C判定だったし。

 Cならいいじゃん。私なんてEだよ。記念受験って感じでもう諦めた。メイ、そっちは? ……なんて他愛もない。

 これから私たちは受験に目を向けなければならない。その逃避のための通過儀礼の空気感。この空気をまだ保っていたかったのだと、食とドリンクに気持ちが傾いている。

 このまま終わるなんてとんでもない、高校生活としての目玉の行事はもうほとんどない。九月半ばの体育祭も文化祭も過ぎてしまって十月のこれが終わってしまったら? ……あと残っているのは受験だけ。センター試験、国公立、二次試験……受験だけだなんて、なんて名残惜しい。


 本当に名残惜しくなってきて思いはまだあふれるばかりだった。

 だからファミレスを出て行った帰り、誰かが言った。もうちょっとだけ。もう一時間だけ、と。

 このまま終わるには吐き出し口が少なすぎる。だから、だから……

 私は言った。だったらうち来る?

 その時の反応、同調圧力がすごかった。嬉しすぎて飛び跳ねている友達もいた。

 そうしてそのうちの仲が良かった五~六人の女子とともにどこか二次会をしないかという運びになった。

 

 一足先に私たちはアパートに着いた。

 玄関を開けてリビングに着いて早々、二次会会場に様変わりしていった。もう半年も経ったら大学生になる。大学生の予行演習なのだ、これは。

 二次会でもしようみたいな夢見がちな雰囲気を作り出していって、食べてきたばかりだというのに料理をして待っていた。

 カレーを作っていた。小学生だったころ、小田原のキャンプ場で野外炊事をしていた頃が懐かしい。あの時もみんなでカレーを作って飯盒炊爨はんごうすいさんしていたっけ。あなたも私と同じだから、覚えてるでしょ?

 だから……、だから、学生生活としての最後を飾る料理はカレーにふさわしいと思えた。


 買い出し担当の子と合流した。

 手提げ袋のビニールからじゃんじゃんとペットボトルと缶が出てきた。その中には俗にいう大人の飲み物もあった。「ほろよい」と書かれたソーダ味の缶チューハイが、ジェ〇ガの一番上に置かれたピースのようにビニール袋のてっぺんからはみ出している。

 当然私たちは高校生だ。制服姿で、なぜ酒が買える?――と思っていると、玄関から見慣れない人物がいた。

 一人多い。男子……、いや、〝男性〟と言った方が詳しい。

 

「ちょうど、エントランスホールで会ったものでね」

 見たことがあった。大会で見かけたコーチ、優勝校の顧問の先生だった。禿頭とくとうの目立つ中年男性は、何でもこのアパートの一階に住んでいるという。

 すごい偶然だ、今も一階の自室でこの部屋と同じように数人で打ち上げをしていると言った。その人物は提案する。合同でやらないか、と。

 

「こうして準優勝の子たちと出会えたんだ、何なら一緒にやろうか。違う学生だとは言え、とともに合同で打ち上げができるとなると、こちらとしても大いに喜ぶところなのだが……」

 

 大人の男性ということもあり、油断していたのだろう。風紀が乱れたC高校とはいえ、顧問で、大人なのだから。何も起こらないとたかをくくっていた。

 優勝校である男性顧問は、ニコニコと宴会の準備の輪を押し広げていく。私たちによく冷えたアルミ缶を持たせ、景気づけの乾杯の音頭を取った……見るからに手馴れている。甘い味付けが施しているとはいえ、私たちの年齢では飲んではいけない代物なのに。

 私たちは飲むしかなかった。その男を連れてきた人からの圧力がすごかったのだ。彼女は言葉巧みに勧めてくる。大丈夫だよ、私も飲んだけど、ジュースみたいな味だったよ。私たち十七歳とか十八歳とかでしょ。四捨五入すれば〝大人〟だって。

 それに、この人やさしい人だから。あたしの知り合いがそこに通ってるんだけど、って……と。

 

 たしかに、と思ってしまった。

 偏差値の高い自分の高校。道徳のような講習が毎年数回は行われる。

 ――未成年者の飲酒は危険です。

 ――脳が委縮して、頭が悪くなってしまいます。

 ――依存症になってしまって自分が壊れてしまいます……と、クドクド言われる。


 けれど、この誘い水のような甘い言葉には全く通用しなかった。

 私は憧れていたのかもしれない。品行方正、とまではいかないが、部活に明け暮れた毎日を送り、母が死んで弟を養わなくてはいけない。けれどもこれから勉強をしながらそびえたつ壁ともいえる受験に向かわなくてはならない。

 大人の階段、イニシエーションのため……その言葉とともに私たちは一口飲んだ。甘い香りと炭酸飲料の刺激が舌の上ではじけた。越えてみれば、なんだ、とも思った。なんだ、ただのジュースじゃないか。

 なんでこんなのを大の大人は危険がるように教え込むのだろう。

 何が飲んではいけないなのだろう。何が頭が悪くなるだろう。

 あの時まじめに受けた講習は、誇大広告じゃないか。二口三口と飲んでいって、後半からはごくごくと喉を鳴らしていった。

 隣はもう二本目に手を付けている。負けるか、と敵対心をむき出しにして、私も飲み干して二本目のプルタブに指をかけた。

 カシスオレンジという明かるげなポップにオレンジのアルミ缶。それを手にして……そこから先は記憶にない。

 


 

 誰かが私の体をゆすっているような感覚があって、薄目を開けてみた。

 最初はああ、二次会ってこういう物だよね、と半ば俯瞰的な立場でとらえていた。

 はじまりは極端に記憶が刻まれて、後半になるにつれて脳の記憶媒体に異変が起き、勝手に消去され、その代わりにぼんやりとした覚醒に導く。


 大体、悪い物というのは「はじまり」が甘いのだ。そうでなければ人間を堕とせない。タバコは熱い煙を吸い込んでむせる人が多く、そのままやめる人が大半だというが、その一方で薬物とアルコールは一度手に、口につけた時点でもう戻れないところにまで踏み込んでしまっている――そう講習で習ったような気がする。

 ついさっき口を付けたアルミ缶は学生では本当は飲んではいけない飲み物で、ジュース感覚で飲めるように「はじまり」が甘く設定されている。ビールなんか苦い味じゃだめだ。我先に友達が飲んで、次々に口を付けていって、雰囲気に飲まれて飲まされてしまって……酔ってしまった。

 

 酔ってしまったのだ。そう、この意識の覚醒具合は酔った時のものなのだと。

 酔ったことがない私にとって、これが「酔う」感覚なのか……とぼんやり頭はそう思っていた。だが、異様に頭がぐわんぐわんとかき混ぜられている。身体はあつぼったい毛布にくるまれたように倦怠感に襲われている。

 風邪をひいたかのように身体は火照って、とても暑い。


 そして、シーツなり床なりに飛び散るあの状況を見るに、それがアルコールのせいだけでないことがようやく飲み込めてきた。

 部屋は凄惨さそのものが広がっていた。人が二重に見えてくる。いや、違う、違う、違う。二重どころではない、人が増えている。これは、夢じゃ、これは、そう……と。それから混乱してくる。

 

 アルコールだけの眠気じゃなかった。

 缶の中身に眠り薬でも混入されていたのだろう。おぼろげな目で見回す私のリビング……ぼやけた三〇二号室リビングは乱痴騒ぎと化していた。

 つまみなどが乗せられたテーブルは役目を終えた松葉杖のように、足を折り畳まれて隅に立て掛けられている。十人では到底効かない。カレーは結局食べたおぼえがない。多分そのまま煮込まれたままだ。


 それよりも注目しなければならないことがある。

 どこから湧いて出てきたのだろうか、このだらしない学生たちは。

 五人、十人……いや、ひとクラス分は居たかもしれない。目の前で繰り広げられていたのは、私たちと同年代の男女……のようだった。

 絡み合う獰猛な身体のぶつかり合いと嬌声の数々。生まれたままの姿。

 この見知らぬ男子たち、この見知らぬ女子たちはどこから来たのだろう。

 知らない人だらけ。五・六人から始まった小規模な女子会のはずが……床から湧いてでたように男が占拠している。

 

 私はというと、例外ではなかった。

 なぜか両肘を曲げ、腕を下につけて自重を支えている。なぜか全身に汗をかいている。服は脱がされている。お腹を掴まれている。後ろに気配がある。

 そして腰の違和感。ちょっとした痛み。針が刺されたわけでもない。それよりも大きく、腸の奥をかき混ぜられているこの感じ。

 誰かに四つん這いにされていた。後ろから強く押され、また身体がゆり戻される。振り向くと見ず知らずの男が片膝をついて腰を打ち付けている。

 赤めの軽く伸ばした短髪にマントのように羽織っただけの学ラン。その下は裸だ。鼻と耳にピアスをしていて、ちろりと口を開けるやその中にもピアスがあって……、浅黒いものを刺していた。


「うっ」


 中で何かが飛び跳ねて動き、達した。

 ずるりと棒状のモノが引き出された。先端には白い液体を包んだ緑色の袋が付けられている。私の後ろには行列でもできているのだろうか、続けて入れられる。

 頭が眠ってしまって拒否の言葉が継げない。だから同意だ――という、ひどく勝手な論理。十七年もの間、純潔を守っていたはずなのに。誰にげるべきか迷っているうちに、勝手に泥棒に入って金品を巻き上げられた。そのまま逃げてくれればいいのに、ついでに襲っとくか、という感じで好き勝手やられていた。

 私の初めては、知らない間に奪われた。不感症じみた感触でとっくに終わっていた。

 

 どうやら目覚めたのは終盤といった具合で、大半の者たちはだらしない制服を着てピロートークをしている。

 最低限の避妊ことはしているようで、色とりどりの小さな袋が、床にシーツにと投げ捨てられている。口を縛り、ある程度の膨らみがある。それでも刺激性の強い嫌な臭いが部屋中に漂っていた。禿頭が目に付く中年男性はリビングにはいない。

 どこにいると思っていると、


「そういえば弟がいるんだっけ」

 その声はベッドから聞こえた。

 リビングから外れ、廊下越しに見える寝室。私が毎晩そこに寝て、朝を迎えるはずの場所。そこで誰かに占拠されている。誰かに伝える風でもなく、単に呟いただけといった感じで。

 そこにはまだ行為をする残存者らがいた。狭い部屋の中に男を二人も三人も侍らせて、中心にいる女に自分のものを突き出している。その内の一人があの男だ。

 彼女は禿頭の売女ばいた、お気に入り嬢を気取っている。頭を何度も何度も動かし、オレンジを乱れ髪とさせていた。

 ピンクベージュの口紅が元気なおしゃぶりを咥え、跨って上下に動いている。大会では指揮棒を振るっていた手は、今は別の拙いモノを握っている。

 快感を優先していて、見るからに頭が悪そうで、それを差し引いても色気のある女子だった。


「なら誘ってよ。ねぇ、いいでしょ。一回くらい。……へぇ、強情ね。今回はいつになく頑張るじゃない。

 ああ、今日? 今日はね、優勝祝い。そこの青木ブタに頼んでみたの。たまには『知らないところ』でしない?――って」


 そうしてふらりと部屋を見渡した。千鳥足のような流し目を這わせ、一点を、「私」を見つめてくる――感覚に陥った。ああ、と思った。


 ああ、さらに硬くなってきた……

 そう言ってしばらく経ってからシーツに勢いよく飛び散った。フィニッシュを意味する大げさで、甲高い声が耳障りだった。栓が抜けるとこぷりと中身が零れた。魔女は特別性で〝なし〟なのでまだ続いているのだ。

 快感に全振りしているから誰でもいい。私に狙いを定め、不幸のどん底に落とす理由に明確なものなんてないのだ。

 





 大会から三か月が経過した。それら全てを洗い流すほどの豪雨が夜を襲った。


 季節外れの冬の豪雨。床下浸水、床上浸水、洪水の危険性……。そういった言葉の羅列がテレビ画面に劇的に流れ去って山間部に警告していく。相模川の氾濫が危惧されているものの、ここは三階建て。流石に無理があるだろう。

 深夜二時になって私は外に出た。すでに就寝していると見計らってのことだった。

 あの日から一か月経ったこの時でも、一階に住んでいるというあの男から声を掛けられるようになった。なあ、また貸してくれないかという申し出。何を貸してくれなのか、言わなくても解る。


 その関係は五年も経ったあとも変わらない。私の精神はとうに狂っているというのに、その契りだけは覚えているようだ。

 貸してくれよ、と言われたら、私は貸さざるを得ない……。


 過去の私もまた、その会場にされた。

 参加する学生はもう卒業が確定したようで通学しなくてもよくなったらしい。午前から昼にかけて行われ、夕方に散会する。時折OBも参戦するようだった。

 後片付けは全部私一人に押し付けて帰ってしまう。場を用意したのだから、自分たちはやらなくて当たり前なのだと。

 断ればいいのに、誰かに言って助けを貰えばいいのに、と片づけていて毎回思う。しかし、部活が無くなった分、受験のことを考えなくなった分、私はその申し出を断らなくなっていた。唯々諾々と場を提供し、唯々諾々と……受け入れてしまう。

 的確に喜ばしてくれる、何人もの男たちに囲まれて私は――

 

 もうその快感の虜になっていて、その悪夢の根源ともいえるその呼びかけを待ち遠しく思う自分がいる。掘り起こされ、覚えたてのこの汚れた性欲は、うずくことはあっても尽きることはない。

 そのせいで学校にも行かなくなってしまった。A判定だったものがBになり、Cになり……もうわけが分からなくなっていって、今年はもう絶望的になっていた。

 あなたも心配させてたっけ。あの時はまた来年だなんて言ってはぐらかしたんだけど……。もう勘づいてたよね。


 こうなったのは全部あの時飲んだアルコールのせいだと思う。いや、そんなのはただのきっかけにすぎず、快感の波に持っていかれた末だろう。私の中で芽生えた痴情の嬌声はあの日、頭からぶち破られた。さなぎを通り越し、孵化ふかしたの。

 そうだとしたらもう、あなたの、弟の世話ができる資格なんてないと思ってしまった。


 雨の音を追っていた。

 雨を追うにつれて、雨粒すべてが現実が押しつぶしてきた。針のような細かい痛み、脳天から振り下ろされる斧のように雨が重たい。雨に打たれることで、あの出来事が夢物語のようになれと思った。でも、残念ながらこんな豪雨でも家の中にまで流れてこない。

 相模川に着いていた。立派な土手には通学路として使われるサイクリングロードがある。この道を、私は自転車で走っていた。昔の黒髪は、長い髪で風を捌き、私は通っていた。だけど今は……、


「死にたい」

 豪雨の重圧で川面かわもが歪んでいるようだった。それに唯一の願いを落としてみた。今こそ降臨した雨の神に願い出た。

「死ぬのは叶わなくても、狂いたい。忘れたい。人から逃げたい」

 土手を下りて川に近づく。一人で濡れそぼって、長い髪は萎れた海苔になっていた。胡乱うろんな目はもう、洪水寸前の川に向けられていた。

 相模川は豪雨で増水していた。狂った水を下流のブロック敷きの、雨水管からどぼどぼ出し続けている。

 汚穢おわいのような色合いをしている。とても天から流れ出た水とは言えない。汚水の方が少しばかり清廉潔白さがあるだろう。

 自分の家と同じく、汚れ切った濁流。でも、ここよりはいい。清濁併せ呑む水中のほうが、いくらかまし。そう、だから――


 増水した汚らしい水に足を延ばした。

 打って変わって空中を歩くような思いをした。足先から天国に通じる三途の川にいて、泥の身体を神聖なる泥で清めた。足首までしか浸かっていないというのに、もう全体が持っていかれそうになっている。

 ……これでいい。

 もう一歩進んで膝まで浸かってしゃがむように、腰から崩れるように、身体を沈めた。流木になって、汚泥にまみれたい。清廉潔白だったあの時、トロンボーンに初めて口を付けたあの日に戻りたい。

 私は流れた。もう足は離れている。このまま海までに溺れたい。


 だが、できなかった。私より先に到着していた人物がいた。

 こんな夜中に呼んだっけ? ……ああ、呼んだかもしれない。でも来てくれるとは思えなかった。場所も言っていないから。

 そんな風に誰かが増水した川の中で立っていた。

 先行していたようで、流れてきたそうめんでもすくいあげるように私を拾い、川岸へ連れて行った。

 

「どうして」

 雨にすら負けない、吹部で鍛えた喉がちぎれんばかりの叫びでいった。ひどく震えた身体はまだ死の淵にいたがっていた。

「どうしてなの」

 無言だった。でも、行動は激しかった。すでに二人は川岸付近の足のつく場所にまでいた。私の靴はどこかにいってしまった。

 服を着たまま濡れている。プールに浸かって出るときのような、水を含んだ布の不快感が焼け野原みたいに広がった。肩から上は雨に打たれ、下はまだ濁流の中。男の方はというと腰くらいまで浸かっている。

 男は手を伸ばし枝を摑む。もう流れていけなかった。男の歩みで川の外に、外にと連れていかれた。

「まだ死んじゃいけない」

 男はだきついて言った。たまらなかった。

 でも、でも……、今の私にその資格はなかったのに。それでもやさしさを込めた愛で、抱きしめてくれる。すっぽりと身体は抱きすくめられて、どうしようもない水の誘いの力が薄まっていって、死への恐怖が増えていったようだった。


 私にとってはかわいい後輩の男というだけ。部活も違い学年も違う。同じ校舎同じ学生。だから彼とのきっかけはよくわからない。あの日が終わって授業をサボってると声を掛けられて。三か月前に付き合ったばかりで、まだキスもしたことがない。

「もう、諦めたいのに……。どうして、どうしてなのよ……」

 弱々しく抱きすくめられるばかりだった。流される水で体温を奪っていくはずが、なぜか衝動性のある血の巡りは格段に著しくなっていく。上気したように頬は熱い。

 あなただったのに。げるべき最初のは、『あなた』だった。なのに――

「もう狂いたい」

「ご所望なら、一緒に狂ってやる」

 相手の力が弱くなって、顔をあげた。「私の願い、聞き届けてくれる?」

 彼女より二つも年下な男が耳元で囁く。小さな声でも雨粒の音くらいでは負けない。

「もちろん。俺が唯一惚れた女なら」


 

 


 

 長文のすぐ後に狂ったbotが再開される。短文以下の切断された言葉が下から上に押し上げられていく。

 長文は一行ごとに上へ上へと追いやられ、勝手にスクロールしていき、物語が終わると画面が真っ暗になった。時間経過か電源ごとか、こと切れてしまったかのように。

 夜景は黒い海のような暗澹あんたんで、姉の妄言から解放されて闇の眠りに取り憑かれる。誰にも気づかれることなく、今晩、深淵の願いは成就されたのだ。

(エンド)

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