第十二話 声の談義
「――さて、どういうことになるのかな?」
夕闇の気配が這いよる時間帯、その車内にて。運転席にいた男が口火を切った。車はすでにエントランス前に横付けされており、あとは隣室の弟を待つだけになっている。
「赤く彩られた恋文や不法侵入、家具の位置が違っていたり、自己主張するようにして未使用コンドームが破れていたりした。それらの大半はあの姉の仕業に違いない……」
――深夜の声以外は。
三〇二号室はたしかに空室で、ストーカー女+散歩者こと姉が部屋の主導権を握っていた。だが、昨夜はこちらに来ていた。昨夜音をたてたのは彼女ではない。では、正体はいったい誰か?
カーナビでルートと到着時間を確認しながらの余興のような雰囲気だった。
飲んでいたカフェオレ容器はすでに空になっており、すでに二本目に突入していた。空の分は脇のホルダーに刺さっている。途中でSAに寄る時間などないのだから、自分が捨ててこようか、とも声を掛けづらい。カフェオレ中毒で腎臓に悪影響を及ぼしているに違いない。
待ち時間を有効活用するような行動だろうが、おそらくそう思う気力があるのはツムギ位だろう。
一方彼女は違った。
サツキはいつの間にか後部座席に乗り込んでいて、回転寿司のように運ばれて来るしかなかった。
心は今すぐにでも逃げ出したいくらいに怯えきってしまっている。駐車場での指摘は、それほど恐怖の刃が身体を切り刻んできた。
ここまで来たのは、たまたま目の前にあった手頃な乗り物を選んで逃げてきただけなのだ。
余裕のない彼女。余裕綽々な彼。見事な対比だった。
「ねぇ。音の正体、どこまで分かってるの?」
サツキは聞いた。声は震えずにはいられなかった。
「ほぼ全部、と言ったら?」
震えが増大した。だからこそ、疑心が確信に進化する。
「そう……今度は勘じゃないのね」
何も返ってこない。
「……っていうの」
サツキの声はかすれ気味となり、意味深な言葉を呟いていた。ツムギの耳には届かなかったのだろう、
「その前に確認したいことが一つ」といって、逆質問された。遮られる。
「本当に女の声だった?」
「……まあ、そうなるね」
そうか、と言って黙る。
そう改まって聞かれると、幻聴だったのか、と思ってしまう。
――本当の幻聴? いいえ、違う。これ以上、自分の耳は疑いたくない。でも……だったら、あれは何の音?
物音か、動物の鳴き声か。
やっぱり気のせい、と来て、浮上するのは人の声、でも、いや……
こうして無限ループに陥ってしまう。認めたくないのか、謎は謎のままでいたいのか。
あの謎めくうめき声は、単なる聞き間違いだと一言で片づけてしまっていいものなのだろうか。
「可能性は二つ。幻聴か、否か。まあ十中八九幻聴だろうな」
ツムギとの会話はこれ以上は不要だった。けれど、相槌のように口は回るものだ。
「まあ、気持ちはわかるよ。俺も幻聴の一つや二つ、聞いたことあるし。散々お前にバカにされたしな」
「……悪かったと思ってる」
「別に。気にしてない。それに、真相が〝それ〟だと俺も面白くない」
日没近いため、車内に暗闇が立ち込めてきた。
カーナビの光だけでは全く歯が立たず、車内灯のスイッチに手を伸ばした。滲んだオレンジ色が上部から降り注ぎ、私たちの顔は明るくなる。
「まあ、幻聴でもいいんだが、お前は違うって言ってるから一旦捨て置いてやる」
――そうだ、幻聴ではない、とすれば……あの声はどうなるんだろうか。
「物音か声か。甲高いという特徴なら女性の声だろう。ここで女性と聞いて浮かび上がる容疑者は主に三人。だが、あの狂女は抜けるから二人になるか」
「この辺に二人もいるもん?」
「とりあえずお前も入れとこうかと」
ミラーを見ると〝お前〟の目の先はこちら側に向けられていた。「わたし? 言っとくけど、わたしじゃないからね」
「知ってる。一応入れといてるだけ。年齢的に自作自演をするようなバカはしないだろう」
バカはほんとうに余計だ。
「俺は深夜帯での呼び声は聴いちゃいないんだ。ただ、別のパターンなら聞いたことがある。どれもお前と同じ、女性のうめき声だ。
大学から即帰宅したときに聞いたのが何回かと、
適当に会話をつなげる。「ふーん……。ずいぶんと活発的な女ね。狂女の一人遊びっていう可能性はないの」
「ねぇ……と、思う。周波数とか撮ってるわけじゃないんだが、感覚的に同一人物っぽいんだよな」
「でも、あんたに惚れてたらしいけど? 逮捕されたお姉さんとやらは」
新しい容器にストローを突き刺しながら、
「お前が怒って帰った夜のことだ。警察に突き出す前に好奇心で一目見たんだよ。いちいち俺に突っかかってきてちょっと会話したんだが、声は少し低め。ハスキーまで行かないが、まあそんくらいの音程だな。
まあ、怒鳴り声はそれはそれは甲高い、金切り声に似たものだったが」
「だったら余計にするでしょ? 隣に実物が住んでるんだから。
妄想とはいえ、動画媒体から具現化してしかも自身の妄想が
「まあ、別にいいんじゃねぇか。あの夜にいなかったんだから」
……あんたが言い出したんじゃないか、といいたくなった。
「じゃあ、あとの一人は?」
頭の裏に手を回して、気持ちだるげにいった。
「これは希望的観測だが……それ以外の第三者」
「へぇ? ……あれ以外にも侵入者がいたっていうの?」
ツムギの言い方では、第三者が有力そうだ。顎に手を添える。
「第三者の女、ねぇ……。そうなると幅広いね。可能性として挙げられるのはアパートの住民たち?」
「いや、そいつらは多分除外していい」
「なぜ?」
「まず、近づく利点がない。あの部屋、めっちゃ嫌われてるから」
「あー……。たしかに」
「さすがに近寄ってくるバカはいないと思う。ポスターに書かれていた通り、犯罪スレスレをやってる女だからな。好奇心は猫をもっていうし。例を出すまでもないんだが、たしか一階の青山さんなんかは小学生の子供がいるけど相当警戒してるぜ。近づかないようにしてるって」
「……青山さん、ね」
少し苦笑を漏らした。「何だ?」
「どうぞ気にせず。私の友達に同じような苗字がいるものだから」
「……つまり、ほかの階もそういう感じだ。四階以上はともかく同層の階は特に」
「物好きはいるかもよ」
「そう来ると思って少し前にここを紹介してもらった不動産屋に電話したんだ。こんな事件が起きたんだしな。今、アクタージュに女性は住んでるのかどうかって」
「ずいぶんと用意周到ね。探偵みたい」
「うるせー。こちとら身の危険を感じてたんだよ」
「でも教えてもらえないでしょ、そんなの聞いても。守秘義務っていうのがあるんじゃない。不動産会社でもそういうのがあるのか知らないけど」
「――と思うよな。ダメ元で聞いたんだがこそっと教えてくれたんだよ。
すると、一階の青山さん以外住んでないときた。隣人として保証してやる。あの部屋に近づいてくる女はいない」
「みたいね。となると、過去の友人とかどう? 例えば高校時代の友達とか」
「昔の友人……旧友か。ミステリでは定番だな」
陳腐といいたいらしい。ちょいちょい茶化してくるのが癪に障る。
「さっきの話だとあれが狂い始めたのは母親が亡くなってしばらく経ってからでしょ?」
「弟の話だと三年は持ったらしいな。五年生あたりは地域のサッカー部でブイブイしてたみたいだけど、姉が不調になったことで叶わず、……ってことらしい」
「ということはあるじゃない。可能性が」
「何が?」
「つまり、狂う前は普通の学生生活を送ってたってことじゃない。
弟さんが京都に渡った後、あの部屋は彼女の独壇場だったんだから誰彼構わず連れ込めるでしょ。たとえアパート全体を飲み込むほどにあそこが没交渉だったとしてもさ、ずっと一人で孤独と戯れてたわけじゃない」
「想像がつかない」
「ひと言で片づけないでよ。でも、いるでしょ? ツムギにだって――」
ぷぁ! というクラクション音。突然のことでびくっと体を震わせた。
「ったく、いつまで待たせる気だ。もうすぐ五時半だぞ」
秋の空を見ては目線を元に戻す。だいぶイライラしているのが見て取れる。
カーナビを操作して渋滞情報を凝然と見ている。ルートである小田原厚木道路が混雑しているらしい。
「それで、ツムギとしてはどう思うの」
「何が?」
「『隣室の声の主』について」
サツキがいう永遠の議題のような文言に鼻を鳴らす。
振り返らずしゃべった。すべてを知るものとしての余裕であろう。
「どういうことだろうな?」
「答えは教えてくれないのね」
「当たり前だろ。だって俺――〝
バックミラーに映る、憎たらしいまでの笑み。
いつぞやの赤い手紙をあしらった時の意趣返しといった感じだろうか。
「それよか早く帰れよ。もう来るぞ。それとも、一緒に来るつもりか?」
「行くわけないでしょ。わたし、これから予定があるんだし。だから、今夜のドライブはぜひとも二人きりで過ごしてくれない?」
「ほう、その予定とは?」
「言うわけないでしょ」
ドアを開けて、車に対して背中を預けた。
まだ決まってない、とは言わない。ただ……
アクタージュの向こう側にある夕闇を見ながら、サツキはいった。
「ただちょっと聞きたいことがあってね。弟さんに、一つだけ質問してから帰る予定」
「内容を聞いても?」
彼女は言った。ピンクベージュの口元が弧を描く。「彼氏がいたかどうか」
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