芝居は舞台の上のみにあらず
星 霄華
序章
繁栄を極める都の一角、山の高台に鎮座する建物の一隅で、がちゃがちゃと扉から鍵が抜き取られる音がする。男には、それが己の終焉を告げているように聞こえた。
実際、そうだろう。男がたった今閉めたこの扉の向こうには、彼がこの建物にいる理由が詰め込まれている。彼にとっては己の半生そのもののような部屋なのだ。
だが、男はこの扉を再び開けるつもりがまったくない。部屋にあるものすべて、窓から差し込む陽光に焼かれてしまえばいいとすら今は思っている。
いや、本当は我が身さえも焼かれてしまうべきなのかもしれない。痩身で色白、見るからに頼りない、冴えない顔立ちのこの身体は、異形の獣の吐息で容易く燃えてしまうだろう。罪深い身なのだ。そのほうがいいのかもしれない。
鍵を持ったまま踵を返してしばらく歩くと、都の街並みが男の視界に広がった。
深緑色の屋根瓦が、地面を埋め尽くすかのような街並みだ。その合間に道があり、人々や牛馬、荷が行き交っている。中には、客寄せや大道芸をする姿もある。それらを見ているだけでも、耳に喧騒が聞こえてくるようだ。
都の賑わいを煽るかのように、巨人のような真っ白な雲との対比が鮮やかな青空から降り注ぐ陽光が眩しく人々の肌を焦がす、真夏の午後だ。ただでさえ人気の少ない建物の奥であるこの一角は、この苛烈な日差しと蒸し暑さのせいで、日陰だというのに誰の姿もない。こうして佇んでいると、世界に己一人だけで生きているかのような錯覚を一瞬でも男に抱かせる。
――――――――そう、一人で。
男が己の決意を振り返った、そのとき。彼の背後で爆音がした。
男が先ほどまでいた建物の一隅に、赤々と燃え上がる大きな火が生まれ、様々な臭いと陽光に匹敵する熱を辺りにまき散らす。
己の人生の欠片が詰まった部屋の終焉を、しかし男は見届けない。爆音と突如生まれた赤く揺らめく影に慌てふためく者たちが部屋へ駆けつけてくるのを尻目に、上着の頭巾を目深に被り、混乱に乗じてその場を離れた。
足早に建物を出た男は、高台に灯った大きな火に驚き食い入るように見つめる人々を尻目に、城門へ向かった。人ごみに紛れて城門をくぐると、中が満員になるのを待つ、西の港町行きの乗合馬車に乗り込む。
運がいいと言うべきか、男が乗り込んだところで乗り合い馬車は満員になった。城壁の内部から聞こえた爆音でざわつく中、御者は御者台に座ると、手綱を引いて馬を歩かせ始める。
絶えない馬車の揺れに身を任せ、男はようやく詰めていた息を吐き出した。肩から鞄を下ろし、外へと顔を向ける。
遠くなっていく。町が、男の願いを理解しようとしない者たちが。まるで他人事のように、男から遠く離れていく。
丘の上の建物で何があったのかと推測しあう乗客たちの声を聞くともなしに聞きながら、男は声もなく、ひっそりと口の端を上げた。
一体何をしているのだと、余人は非難するだろう。男とて、今でも疑問を持っている。何故自分はこんなことをしているのか。どんなことになるのか理解しているのに何故、と。
だが、いっそ捨ててしまうほうがいいという捨て鉢な考えは、あるときふと胸に浮かんで以来、どうしても消えず、むしろ日に日に強固になっていった。もう男自身ではどうしようもない。こんの思いを抱えてここにいることなど、できるわけがない。
ただ、たった一つだけ心残りはある。
『行かないよ』
そうはっきり言って、男の手を振り払った子供がいる。痩身の彼の手でもすっぽりと包み込める小さな手を横に振って、呆れているのか嫌悪しているのかわからない顔で否を示した子供が。
男の手よりも別のものを選んだあの子供には、男が味わうもの以上の苦難が待ち受けているだろう。殺されないだけましという目に遭うかもしれない。
――――それでも、振り返ることはもうできない。
「…………すまない」
だが私は。そう言いかけて言葉を飲み込み、男は鞄に手をやった。
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