第5話 出立

 翌日の目覚めは爽快だった。とりあえず身支度をして、いつも通りに食堂へ向かう。すでに習慣になっているし、宿泊代に含まれていることもあって、宿にいる間は食べるようにしていた。ライ麦のパンといろいろ野菜のポタージュスープ、それにチーズを一かけと冷やした果汁というセットを味わっていると、そそそそと女将が寄ってきた。


「セラス様。ちょっとお話しが…よろしいですか?」

 口にパンが入ったままだったので無言のまま頷き、空いている椅子を示す。いえいえ、と女将は耳元に口を近づけてきた。


「預かり金、あと一日分になってしまいましたが、どうされます?」

「え?」

「あら、もしかしてお忘れです? 狩りに行くと仰ってから、四日が経ちますよ?」

「……そんなに経つか」

 あの”遺跡”で過ごした時間が長かったのか、うっかり丸二日を寝こけたのか。どちらもありそうだが、とりあえずはこの先が問題である。結局、狩りにならなかったから、持ち金はほぼ変わりないのだ。


「そのままで頼む。仕事次第で出ることになるしな」

「はい、承知いたしました」

 頷いて仕事に戻っていく女将を見送ることはせず、とりあえずの稼ぎについて考える。狩れていればそれを宿へ卸して預かり金なり宿代なりに充てるということも出来たのだが、今となっては捕らぬ狸のなんとやらであった。ちなみに”預かり金”は、飲み食いしたときの分に充当出来る便利な仕組みだ。記憶が戻ってみると、なんとなくチャージ式の電子マネーが思い起こされる。


(そのつもりで見ると、けっこうありそうだな)

 ここへ来るとき乗った馬車は、サスペンションが効いていたし、タイヤもあの形状は空気式のゴムタイヤかもしれない。パンクはしやすいが、木製タイヤに比べたら雲泥の乗り心地のはずだ。…たぶん天然ゴムだろう。劣化や整形をどうやったのは知らないが、世界を作り替える奴らならその程度、なんとかしそうだ。コストなんてものは度外視しているかもしれない。そもそも元素転換装置を使う時点で、どうやっても黒字は見込めないのだし。

 そんなことを考えている間にいつの間にか食べ終わっていたので、食器を返して、セラスは宿を出た。歩いているうちに地面が柔らかい気がして、足下を見ると、木の破片のようなものが敷き詰められていた。


「…ウッドチップそのものじゃないか」

 歩道は煉瓦なのに、馬車道はウッドチップ――木材を加工した小片――で舗装されていた。確か数年ごとに補充なり張り替えなりが必要になるはずのけっこう高価な代物だ。どうして、と思いかけて気づく。昨日入った山は、ある程度の手入れがされているようだった。山を保全するためには、間伐材が出る。材木として使えないそれらは炭にしてもいいが、こういった利用法もある。炎熱魔法Flama varmoで熱源を得られるから薪は必ずしも必要ではないし、自然素材のみで作るウッドチップ舗装も可能だ。確か21世紀には完成していたはずだし、その情報させあれば、再現は難しくないだろう。……ただまあ木材だけで出来るはずがなく、その補完材料をどこから入手するのかというコストを無視しているので、納得はしていない。しかし、食堂で思ったとおり、あのころの名残というか再現というか、そんなものがけっこうあるようだ。


(いっそ、そういうのを探してみるか)

 半分自棄に近かったが、もともと研究職の身でありながらフィールドワークをメインにしていたので、性には合っている。まあ戯れ言なので、目的地――斡旋所についたら、そのことは忘れていたが。


(さて、何かあればいいが、無ければ……そうだな、もう出てもいいか。街中じゃなきゃ、金なんぞ使わないし)

 セラスはあまり、現金を持ち歩かない。紙幣がない世界であるために荷として重いし、スリや盗難を警戒しなければならないためだ。銀行に預けてはあるのだが、大きな街でしか下ろせないのでなかなかと使いにくく、基本的には換金用の装飾品を持ち歩いている。…というか、身につけている。ただここしばらく、銀行のない街が続いていたために、それらはほぼ使い切り、かなりの高額品しか残っていない。正当な評価がされないし、されてもとんでもない額になる代物なので、おいそれとは売れないのである。もちろんそれは、お気に入りで手放したくないからと言う話は、けしてない。

 もともと、一つの街には長いしないことに決めている。二つ名を知られれば腕比べを挑まれるは貴族からの勧誘スカウトは来るはで、面倒このうえないことになるためだ。この町に来てもうすぐ十日、そろそろ出てもいいころだった。


(近くで銀行がありそうなのは……確実なのはエディンバラか。行きたくないな)

 首都エディンバラは、貴族の街である。護衛の依頼もあるようだが、絶対に近寄りたくない街の一つなのだ。銀行以外に行く理由はないし、検討の必要も無く却下した。


「いや、だからいらないんだよ、現金それが(ああもう、出よう。うん。出よう)」

 受付の向こうの職員たちが、何やら自分を見て話し合っている様子に気づき、慌てた様子を見せないよう、声を掛けられる前に外へ出る。本当に必要なら追いかけてくるだろうから、基本的には気にしないことにしていた。そんなものに付き合っていたら身体が幾つあっても足りないと、身を以て知っている。


(銀行か。……仕組みは中世の頃からあったんだったか? いや、だがあれは為替だから、個人の口座という意味では違うか。まあ、…そこまで再現しなくてもいいのか、仕組みはあるんだから。なら逆に通貨の統一……は無理か)

 そもそも自国内でも、地域によって貨幣の価値には差が出るのだ。大量生産が出来ず、輸送網を馬車に頼り、保冷を魔法に頼る世界で通貨を統一したところで、国による物価の違いと更には関税が立ちはだかるだけである。それの調整をする手間を考えたら、各国独自通貨のほうがまだましだろう。魔法技術による情報網の発達で、どこの支店でも預けたり下ろしたりが出来るだけでも御の字だ。


(――なあ、ミスティックの頭脳たち。本当にこれが、お前たちの望んだ世界か?)

 化石燃料がないから、産業革命を起こすことは難しい。だが石炭はなくとも木炭はある。不可能ではないだろう。何らかの切っ掛けトリガーがあれば、それは成る。まあその後――どこまで追いすがれるか、わからないけれど。

 ふ、とあの少女を思い出して口の端を歪める。彼女も間違いなく、”神秘の研究機関ミスティック・シンクタンク”の一員だろう。


(あの驚きようからして、たぶん"統率者権限"のことは知らないんだろうな。とすれば後期の参画者か)

 実のところ、”地球再誕計画”は二段階に分かれている。瀬良蘇芳が招聘されたのは初期の計画で、当時はただ、可能な限りの知恵を集め、情報を集めて地球を再生しようという、それだけのものだった。当時から存在していた転移装置を利用して各地へ飛ぶ……予定だったのだが、ほぼどこの国からも協力を得られず、現地へ各自が出向いていたことを憶えている。その道中も楽しめる瀬良蘇芳だったから問題はなかったが、そうでもない研究員たちは、転移装置を自由に使えるという”統率者権限”の実装を心待ちにしていた、らしい。


(……”統率者”がそう何人も出るとは思えないんだがな……)

 つい、苦笑してしまう。もちろん当時の彼らとて、それは承知の上だっただろう。それでも若しかしたらという一縷の望みと、どうせ実装されないだろうと思いつつも夢を見る彼らとは違って、瀬良蘇芳はあまりそのことに興味を持っていなかった。便利だろうなとは思ったが、その程度だったから、どうして自分にそれがあるのか、仕掛け人が誰かは予想がつくけれど、その恣意を測りかねている。その人物はもちろん、残らないはずだった<緊急司令所>をこの時代まで残させた当人――阿曽砂緒教授だろう。


(あいつ以外、やらないだろうな)

 いつの間にか派閥というものを創り上げて、”神秘の研究機関ミスティック・シンクタンク”を動かす一員となっていた彼なら可能だし、彼以外にやるとは思えない。ましてその権限が自分に与えられているのだから、他の答えを出す方が無理というものだ。

 ただ、と思い出した――否、憶えさせられていたその権限の詳細に、げんなりとした顔になる。

 <旧司令所>を初めとする幾つかの研究所が、その支配下に入るらしい。転移装置も自由に使える、ここまではいい。けれど、役職の剥奪権、これはどういうことなのか。管理者その他の任命、解任は、”神秘の研究機関ミスティック・シンクタンク”によって行われるはずなのに。


(こんなの、”神秘の研究機関ミスティック・シンクタンク”を根幹から揺るがせるぞ……? いや、待て。……剥奪? 解任じゃなくて、権利の剥奪か?)

 管理者には、当然数々の権利が与えられるし、必要となる。その権利のどれかを剥奪することが出来る、と考えれば理は通る。人間、向き不向きがあるのだから、向いていない仕事の権利を剥奪してしまえばいい。それが出来る誰かが代わりにやればいい。そこに、任命権は影響しない。……おそらくそういうことなのだろう。”神秘の研究機関ミスティック・シンクタンク”の頭脳たちは、現場の意向など気にしない。自分たちが相応しいと思う人物をそこに据えるだけだ。有能な者ばかりではあったが、だからと言って話が通じるとは限らず、搦め手でどうにかしたことも何度かあった。確かに、剥奪権だけでもあればずいぶんと違うから、助かるのだろうとは納得出来た。

 どうして己にそれがあるのか、そこは理解に至らなかったが。

 考えながら歩いている間に宿へ着き、セラスは引き払う旨を告げた。残る日数分は現金で戻して貰ったので、当座の路銀には問題ないだろう。洗濯物は部屋に届けられていた。何しろセラスは火魔法が使えないので、こういうときはありがたい。

荷造りもすぐに終わり、急ぎ街門で手続きを申し込む。


「では身分証明書を――あ、白銀証ですね。でしたら多少は早く出来ると思いますが……ただ、この季節は旅人が多くて、ですね……」

「ああ、それは仕方ないな。どれくらいかかりそうだ?」

「午後の二時――と言ったところかと思われます」

 受け付けた女性がチラリと見たのは、どうやら審査まちらしき書類の山である。白銀と書かれたものはそれでも少ない方だった。


「……白銀証であれか。……青銅証はどれくらい掛かってるんだ?」

「キカナイデクダサイ」

「……いつもこんな感じか?」

「キカナイデクダサイイイイイイ」

「わ、悪かった」

 やつれた様の乾いた声を聞かされては、それ以上の質問は……時間を取らせるのは鬼だろうと、セラスはその場を後にした。


(まあ妖精フェアリーグレンがすぐそこだしなぁ)

 フェアリーグレンはその名の通りに妖精が棲む谷だ。ちょっとした仕掛けを持てば出会うことは容易だし、上手くいけば使い魔としての契約も結べるらしく、旅人が絶えないとは聞いていたし、セラスもその一人だ。使い魔云々には興味もないが、この街を訪れた理由はまさに妖精が見たいため、である。実際、花畑や水面を行き交う妖精たちを見ることは出来たので、満足している。その辺りは、記憶の有無に何の関係もないらしい。改めて見たいとも思うが、出来ればこの街は引き払っておきたいので、また別の妖精フェアリーグレンへ向かう必要があった。往く宛てなどない旅の身なので、そのことには何の不満もない。

 壁に凭れながら脳裏に地図を開き、セラスは考える。


(南下して街道から妖精フェアリー庭園ガーデンという手もあるが……クライド運河へ出てマン島という手もあるか。船が使えたな……そうするか)

 港までは、セラスの足なら一日で着く。昼に出ると野宿になるが苦ではないし、運河を行き交う定期船にはマン島へ行く便もあるはずだし、無ければ適当にどこかで乗り換えればいい。外洋ほどの酷い旅にはならないというのも、魅力的だった。

 行き先が決まったことで、セラスはいったん外に出た。所持金と相談し、酒を2本ほど用意する。これはもう自分の趣味なので、珍しさからオレンジワインを選択した。それから役所へ戻って、なんとはなしに周囲を観察する。


(そう言えば結構皆、文字が書けるんだな。…いや街を出入りするくらいなら書けないとまずいのか)

 識字率が気になったが、見た限りはそこそこの身なりで荷を持って出入りする者が多い。商人か買い出しかはわからないが、ある程度の文字は書けるのだろう。そう言えば丁稚奉公や徒弟制度はどうだろう、今もあるのだろうか。それを言うなら内弟子なんてのもあったな、と周囲の喧噪を聞き流しながらセラスは思いを馳せる。


「……当分かかるな。……手書きアナログ処理だもんな……」

 呼び出しの番号を確認し、まだしばらくかかりそうだと壁に寄りかかって目を閉じた。

 彼には見えないのだが、手続きの申込書は纏めて裏へと持ち込まれ、そこで入場の書類と照らし合わされている。名前で拾い上げ、見つかると筆跡鑑定士が確認し、怪しい者は更に魔法で精査され、問題ないとされたら出国者として綴じられて、許可が出る。街を出るだけなら不要な作業だが、これをやらないと他の街への入場が許可されなくなるので、旅人には必須の時間である。そのため、入国時にも同様の審査が行われている。その書類も一緒にされるのでとんでもない量にはなるが、それらは特殊な水晶の本に収められていて、魔法で検索出来るので、そう言った意味で時間がかかることはない。単純に人間が多く、水晶の本は各街に一冊しかないので、順番待ちが発生しているだけである。

 セラスが名を呼ばれるのを待つ間にいろいろな会話が周囲を通り過ぎていく。


「黒い犬? 別に珍しくないじゃねぇか、城のやつだろ?」

「いや、城じゃなくて街道らしいんだ。酔っ払った奴が倒そうとして、鎖に巻き付かれて死んだそうだ」

 有名な話だなとセラスは笑う。イギリスのピール城に現れた黒い犬の話は有名だ。決まった時間に表れて兵士と共に暖を取ったらしい。他にもたしか、イギリス中に伝承があったはずだ。ただ、とセラスはとあることが気になって目を開く。けれど話し手を見つけることは出来なかった。


黒妖犬ブラックドッグ……いや、鎖があるなら、黒鎖妖犬バーヴェスト? だがあれは棲処が決まっているはずだ)

 脳裏に浮かぶ黒妖犬は、黒く大きな身体と炎のように赤い目を持つ犬だ。真夜中の四つ辻や古い道に現れる、英国伝承の妖精――それも不吉なものとされる類いの存在だ。分類としては、怨嗟から生まれて人を殺す、死の獣。だが、そこに鎖は存在しない。

 黒鎖妖犬は、黒妖犬に角と鉤爪、引き摺る鎖という要素が追加される。出没時間は夜中か、霧の濃い夜。しかし、出没場所が決まっていて、近づかなければ遭うこともないはずだ。もしも本当に倒したいなら、その属領へ出向かなければならない。

 何れにしても、無関係の人間を襲う魔物とは一線を画している。「倒そうとして」という話のようだし、まあ、わざわざ真偽を確かめに行く必要はないだろう。


(――魔物以上にわからないな。怨嗟を形にして、何の意味がある?)

 あのころは世界中を歩いて伝承を集めるフィールドワークを、今は定住せずに魔物を狩って生計を。結局はそれが性に合っているらしいので、文句はない。だが、記憶が戻った今となってはどうしても、疑問が浮かぶのだ。伝承にしか存在しなかった存在――それらに現実の脅威を持たせて存在させる、その必要性はどこにあったのかと。ましてや怨嗟を実体にしたところで、何の意味があるのかと。


(まあ魔法が存在する世界だしな……特に理由はないのかもしれないが)

 いや、その方がいいのだがと内心で溜息を付く。彼らはを懸念していた。だからこそ消費が増えて資源の枯渇を招くのだと。人口増加で消費が増えること自体は否定しないが、因果は巡る。それだけで片付く話ではないというのが瀬良蘇芳の立ち位置だったし、今もそれは変わらない。だからこそ、あの”計画”から退いたのだ。

 思い出したくない過去を振り切ろうとして、目を閉じる。しばらくして気がついたときには、人が減っていて、いつの間にか自分の番号も掲げられていた。

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