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篠崎春菜
鏡越しコミュニケーション feat.美春
「本当にいいの?」
美容師さんの惜しそうな声に私は力強く頷いた。
腰まで伸びた長い髪に銀色のハサミが触れる瞬間を、目を瞑って受け止める。
美容師さんが惜しんでくれても惜しんでほしいあなたが惜しんでくれないならと、別れを決めた、十八の春。まだ冷たさの残る風がやわらかく吹く、日差しの暖かい日だった。
耳元でシャキシャキと軽い音が小気味良く鳴る。三年間延ばしてきた髪が自分から離れて床に落ちるのがわかり、寂しさも勿論あったけれど、それより何より爽快だった。
三年間、楽しい時もあれば悲しい時もあり、嬉しい時もあれば苦しい時もあった。酸っぱい思いを幾度もして、優しいだけの気持ちではなかったそれは、間違いなく恋だった。
一年目は純粋に好きで、二年目は少し切なかった。時が立つにつれ心の中で重く、暗くなっていったその気持ちが、髪と一緒に離れて行くような気がする。
これでやっと進んでいけると根拠もなく思い、止まっていた自分を自覚した。好きだという気持ちが頭にこびり付いて、それがなくてはならないような、なかったらどこか物足りないような、そういう重さを感じていたのだと気付く。
随分と軽くなった頭に意識を向けた時、美容師さんが「どう?」と聞いた。ずっと閉じていた目を開き、鏡に映る自分を見ると、髪の短くなった懐かしい姿が映る。
「すごく、楽になった」
そう、素直な気持ちを言うと、美容師さんは淡く笑った。
「三年間お疲れ様でした」
しみじみとそう言う彼は、三年前にこの美容室にやってきた。初めて切ってもらった時、「短くしたい」と言った私に「失恋ですか?」と聞いてオーナーに頭を叩かれた彼は、それがきっかけでずっと恋の相談相手だ。
身近な人よりもちょうどいい距離で、無暗に背中を押すこともいらぬ詮索もなしに私の話をただ聞いてくれた彼に、私はどうしても髪を切ってほしかったのだ。
「本当に好きだったんだね」
「どうですかね。卒業で諦められるくらいだし」
「諦められなかったから切りにきたんでしょ?」
お見通しですと言わんばかりの顔をして、ケープを回収しながら彼は言う。ああ、そうかもしれないなと思い素直に「そうかも」と頷くと、彼は満足そうだった。
風通しの良い首元が落ち着かず、手で毛先に触れる。定期的に毛先だけを揃えてもらいに来たのとは違う思い切ったカットは、彼に初めて切ってもらった髪形とそっくりそのまま同じで、時間まで巻き戻ったような気がした。
不思議な気分でボーっとしていると、片付けを終えた彼が戻ってきて「どうしたの?」 と小首をかしげるのが鏡越しに見えた。
「三年前に戻ったみたい」
「あー、そうだねぇ」
彼の指が慣れた手つきで私の毛先にサラリと触れた。しばらく髪を触って、鏡の中の私にニッと笑顔を見せて言う。
「三年前、美春ちゃんが何て言ったか覚えてる?」
三年前に自分が何と言ったか? 覚えているような、覚えていないような。彼が初対面で毒気も何もなしに失恋かと聞いてきたのはしっかり覚えていたけれど、自分の言ったことはあやふやだった。
「恋をしたから気持ちだけでもリセットするんです、って」
そういえば、そんなことを言ったような気がする。
中学生気分のまま高校に上がって、そこで彼に出会って、せめて気持ちだけでも新鮮な、新しい気持ちでいたかった。そんな時期が確かにあった。あの頃はただ、ただ彼が好きで毎日うきうきキラキラしていて。
「それ聞いて、いいなーって思ったんだ。だから、勝手だけど最初と同じカットにしたよ。お任せされたしね」
よく覚えているなあと彼の動きを追っていると、彼は鼻歌まで歌っていて、いつもにも増して楽しそうだった。私は不思議に思ったけれど、何を聞いていいのかわからず視線で追うだけだ。
ぼんやりと彼の姿を追う私に気づいて、彼は、「何、見惚れちゃうー?」と軽口を叩きながらも店内のモップがけに勤しんでいて、やがて鼻歌が終わるとともに私の方を向いた。
「また、いい恋ができるといいね」
太陽のような明るい笑顔を私に向け、彼は言う。眩しい笑顔で、さっき終わった私の恋がいいものであったのを疑いもしない表情で、そんなことを。
つん、と鼻の奥が痛かった。目頭が熱くなるのを少し俯いて堪える。泣かないぞ、泣かないぞと、ばれないようにゆっくり深呼吸をして、ああ、と思った。
ああ、本当にいい恋だった。いろんな気持ちを知れた恋だった。酸いも甘いも存分に楽しんだ。彼が言うように「また」があるのなら、それも終わったときにいい恋だったと思えるような、そんな恋であればいい。
すん、と鼻をすする。振り返る彼が、やはり鏡越しに見えた。彼は困ったように微笑んで、モップを置いて私の頭を優しく撫でる。短くなった髪は赤くなった目頭を隠してはくれない。
「……長い髪は勿体なかったけどさ」
私の顔を見ないまま、彼が静かな優しい声で言う。
「俺は美春ちゃん、短い方が似合うと思うよ」
ぽかんとして固まって、ぎこちないその言葉が彼なりの慰めだと気付くと、僅かに頬が赤くなるのを感じながら小さく笑った。
綺麗な顔でそんなことを言って、深い意味はないとわかっていても、慰めの言葉だとわかっていても、なんだかこの人はずるいよなあとくすぐったい思いがする。
ふんふんとわざとらしく鼻歌を歌いながら掃除を再開する彼に、私は反応を返すこともせず、ただただ、どこか照れてしまっている心を何とか平常に戻すのだ。
そして眦に浮かんだ小さな涙を人差し指で軽く拭って、「ありがとう」と小さく囁くような声で告げた。それが彼の耳に入っているかどうかは、私と同じように微かに赤くなっている彼の耳を見れば明らかだった。
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