第1章 変わる日常

じんわりと湿り気を帯びた額に汗が滴る。

エアコンの効いた部屋であっても涼しいとまでは感じられない、かなり暑さの残る九月一日。


「あ~もうっ! 間に合わない~~~!」


高校三年生の夏休み最後の日に、テーブルの向かいに座る彼女の焦ったような悲鳴が響き渡り、更に暑苦しく感じられる。

夏の名残を惜しむような蝉の声とも相まって中々にうるさい。

九月なのに何故まだ夏休みなのか。

答えは至って単純だ。今日は日曜日なのだ。

よって二学期は明日から。

夏休みが一日多くなって得なような気もするが、体がすっかり朝寝坊に慣れきってしまった。明日から五日間連続で学校、というのは少々気が滅入る。

しかし不思議なものだ。

高校生の夏休み最後の日、という響きだけで何故だか焦ったような気持ちになってしまうのだから。

明日になれば新学期が始まる。

二学期は体育祭、文化祭とイベント事は多く、本当に盛りだくさんの日々だろう。

更にその先には受験という人生の大きなターニングポイントが待ち構えている。

私は文系の国公立大が第一志望なのだが、果たして上手く乗り切る事が出来るだろうか。

そんな他愛もないことを考えつつ、勉強する手を止め、先程の声の主である目の前の彼女へと視線を向ける。

彼女はテーブルへと突っ伏し両手を大きく広げたまま、全く動く気配を見せない。


「椎名、だらけすぎだ。去年同様、今日まで宿題を放っぽらかしたお前が悪いのだろう」


呆れつつも、苦笑混じりに突っ込みを入れる。

そんな彼女の名は椎名めぐみ。

目鼻立ちのスッキリとした美人タイプの女の子。

私の友人だ。

夏休みの宿題は七月中に終わらせるのが当たり前という価値観の私とは違い、去年同様全く以て進歩が無い。

こんな事で大丈夫かとも思うが、結局何だかんだで大丈夫なんだろうとも思う。

彼女はいつもふざけてはいるが地頭が良く、何をやらせても恙無くこなす。

天才肌というか、切れ者というか。とにかく要領がいいのだ。

その上器量もよく明るい。誰からも好かれる性格だと思う。

もちろんこんな事は本人の前で絶対に言うことはないが。

お調子者の彼女のことだ。絶対にからかわれるに決まっているからな。


「椎名安心しろって! 怒られる時は一緒だぜっ!」


同調するツンツン頭の彼の名は、同じく私の友人である工藤淳也。

何だかんだで色々出来てしまう椎名に比べ、本当に先行き不安なのはこの男の方である。

ついこの間まで彼は、毎日バスケ三昧の日々を過ごしてきた。

今夏はキャプテンとしてチームを引っ張り、インターハイ出場まで果たしたその身体能力は認める。

だがその分学生の本分である勉強をおざなりにしてきたのだ。

当然その学力には、周りとの大きな隔たりが生じてしまい――。

友人として何とかしてやりたいが、如何せん本人が呆気らかんとした感じなのだ。

ここから公正させるのは中々に厳しいものがある。

これを不可能だと言いきらない辺りは、私の友人としての優しさだと思ってほしい。


「工藤くん、あなたと一緒に怒られるとか。そんな生き恥さらすくらいなら3日程仮病を使うわよ!」


「――おっ? 仮病ねえ……その手があったかっ!」


大袈裟に顔をしかめながら堂々と皮肉混じりの不正を宣言する椎名に、工藤は全く動じることもなく良いことを聞いたとばかり、ポンと軽く握った拳を掌に当て朗らかに笑う。

そんな工藤に椎名は心底嫌そうに顔をしかめた。


「……工藤くんてそういうブレないポジティブさ持ってるわよね。気持ち悪いけど」


「ちょっ……おまっ……気持ち悪いはやめろ! 傷つくからあっ」


「気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い」


「おい……真顔やめろよいやマジで……」


「さっさと手を動かせというに……」


二人のやり取りに呆れつつ、お決まりの雰囲気を心のどこかで楽しんでいたりもする。

とはいえこの二人も来年は受験なのだ。流石にもう少し焦りを感じた方がいいとは思う。

本当に、お気楽というか何というか――。

ふうと短いため息を吐きつつ、それでも口元は自然と綻び、柔らかな曲線を描いていた。


「みんな、おやつ持ってきたよ? 休憩しよ?」


そんな中、部屋にもう一人、ここの家主が入ってきた。


「おっ、美奈! 待ってました!」


「ふふふ……」


「高野っ、それおやつじゃねっ!?」


「うん、そうだよ?」


「工藤くん、今美奈、そう言ったよね? 人の話、聞いてないよね? 気持ち悪い」


「気持ち悪い関係なくねっ!?」


「ふふっ、まあまあめぐみちゃん」


彼女が部屋に入ってくるだけで場の空気が途端に和やかになる。

手に持ったお盆には紅茶と皿に盛り付けられたクッキーが乗っていた。

柔らかな紅茶の匂いが彼女の雰囲気とも相まって、気分を穏やかにしてくれる。

そんな彼女の名前は高野美奈。

艶やかな黒髪は後ろで二つに分けられさらりと背中まで伸びている。

眼鏡で気づかれにくいのだが、クリッとした大きな愛らしい瞳。身長は低く、150センチ程度。

その辺りが高校三年生と言えど、少女の面影を思わせる。

そんなではあるが、実はしっかり出るべきところは出ていて、女性らしくおしとやかで実に魅力的だ。

そんな彼女は去年から付き合うようになった私の大切な恋人だったりするのだ。

そんな折、美奈を見つめていた私の方へとちらと彼女の視線が向けられる。

すると彼女はふわりと花が咲いたのように微笑んで、私の胸はきゅんとしめつけられた。

相変わらず可愛い……。


「え……なんか今度は隼人くんが気持ち悪いんデスケド……」


「なっ! 何を言うっ! 私は別にっ……何もっ……」


「そ、そうだよめぐみちゃんっ! 私たちはちょっと見つめあってただけだよ!?」


「いや美奈、友達のいるところでイチャつくの禁止だから……前も言ったよね!?」


「う……無理……かも?」


「もういいわよバカップル!」


美奈の天然とも言える返しに椎名は呆れたように私達を罵った。

そのままテーブルに置かれたクッキーへと手を伸ばす椎名。つられたように工藤もペンを投げ出しクッキーを食べ始めた。

流れでそのまましばし休憩となるようだ。

勉強は正直あまり捗ってはいないが、それを今言っても無駄だろう。

私も諦め一旦休憩とすることにした。

横を見ると美奈がにこやかな笑みを浮かべこちらを嬉しそうに眺めて座っていた。

その和やかな微笑みに私の心は穏やかな気持ちへと変化する。

近くで誰かさんの大袈裟なため息が聞こえたが、今はそれを軽くスルーしておいた。

私もクッキーを一口囓り、クッキーの甘さと世界一可愛い彼女との甘い時間を噛みしめた。

さて、そんな私は君島隼人。

なんの変哲もない。見た目も普通。

極々平凡な高校三年生だ。

敢えて特色を挙げるとするならば、父親譲りのほんの少し古風な話し方。

学年で三位の学力。

隣にはいつも天使のような恋人がいてくれる、という事ぐらいだろうか。

平凡過ぎる、とまでは言わないが、私自身決して非凡でもないと客観的に考えても思うのだ。

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