第67話
ふんふんと鼻歌を歌いながらパソコンをいじる聖の肩越しに、その画面を覗き込む。
画面にずらりと並ぶのは、聖が今日撮った写真だ。
あのオレンジのアルバム以外にも、メモリーカードやUSBには膨大な量の写真が保存されている。
ここ最近のものから、古いものであれば聖の中学時代まで。ある意味、この人の半生の記録とも言える。
記憶媒体の一画は、私の姿で埋められていた。
「これ、好き」
「だよねぇ、良い表情してるんだけどなぁ」
「ダメなの?」
杉の木を見上げながら楽しそうに笑う小学生の女の子たち。額には汗が浮かび、いかにも夏の一ページという雰囲気がある。
「ピントが甘いんだよぅ」
ふたりそろって素っ裸、下着もつけずにだらだら過ごしている。
クーラーが効いた部屋は寒いくらいで、このままでいたら風邪でも引きそうだった。
めちゃくちゃになったベッドからタオルケットを引っ張り上げて、自分と聖の体を包み込む。服を着れば良いだけの話なんだけど、下着の捜索が面倒くさい。
後ろから抱きついた体が暖かい。
「またアルバムにいれるの?」
「んー、うん。それもあるんだけどね、これ」
よいしょ、と手を伸ばして便箋を掴む。床屋の看板みたいに赤と青のラインが引かれたエアメール。
はい、と渡され、中の手紙を引っ張り出す。
「どれどれ、って読めんわ!」
「あ、そうだった。失敬」
中の手紙はどの角度から眺めても日本語ではなかった。何語?あ、イタリア語か?
「おじいちゃんがね、向こうの写真コンクールに出してみないかって。あんまり大きいやつじゃないんだけどね。せっかくだから出してみようかなぁ、なんて」
「ふぅん。それで写真選んでるの?」
ちらりと視線をあげて、壁にかけられた三枚のそれを見る。聖の誇り、聖の夢。
「良いと思う、けど……その子たちの写真使うのは肖像権諸々に引っかかりそうだから却下」
「だよねぇ。撮りに行ってもいいんだけど、締切まで時間もないし」
「……………私のやつならいいよ」
肩越しに振り返った聖が驚いたような、変な顔をしていた。
口をぱくぱくと開閉して、瞳が左右にふらふら。いや、それ何の表情なの。
親御さんの許可が必要なキッズの写真より、本人の許可がとれている私の写真の方がマシでしょう?
「とても嬉しい申し出なんだけど、そのぉ……」
「嫌ならいいけど」
「嫌じゃない!んだけど………その、私の撮った瑞ちゃんの写真は私のもの、というか、えと、誰にも見せたくないような、そんなかんじ」
あぁ、この感じ、久々。
聖の背中に体重をかけながら、顎を肩にぐりぐりと押し付けた。
「審査員に自慢してよ、私のこと」
だって、最近は『ぅゔん!』って言ってくれなくなった。フリーズもしないし、奇声もあげない。
挙動不審で、わたわたしている聖が好きだったのだけど。
聖は私に慣れちゃった。
「いいの、でしょうか」
「よいと言っておる」
「使用料はいくらお支払いすれば……?」
いらん!と返したが、入賞してくれたらそれが一番だ。自惚れているみたいだから言わないけれど。
「あ、ちゃんと服着てるやつにしてね」
「しょっちゅうパンツ出してるからね、瑞ちゃん」
好きで見せているわけではない。オーバーTシャツが楽なだけだ。
聖はいったいどの写真を選ぶのだろう。聖の撮った私の写真は、私が見ていないものもたくさんある。
否、見ていないもののほうが多いのだろう。
見せてくれと言っても、たいていの写真は見せてくれないから。
「顔が写ってるやつでもいい?」
「顔が写ってないのもあるの?」
「あるよ。これとか」
サムネイルをクリックして、一枚の写真が表示された。
夕暮れの堤防で、コートに手を突っ込んだまま背中を向けている。はためくベージュのコートが、映画のワンシーンみたいだ。
今にも飛び降りそう。
「あと、これも」
樹齢何百年のものか分からない。大人が手を回しても足りない巨木に抱きついている写真。
背中しか写っていないのに、笑っているだろうことが分かる。
そのまま霊木に取り込まれそう。
「これもそうだね」
これも、これも、と見せてくれる写真はどれも後ろ姿で、私の記憶にあるものから、撮られていることに気づいていないものまで、数えきれないくらいある。
「これ、好き」
「猫だね」
「うん。可愛いの権化」
しゃがみこんだ私が野良猫をスマートフォンで撮っている。ピントはスマートフォンの中の猫に合っていて、猫自体はボカして背景になっていた。
私の影と、カメラを構えた聖の影が、同じ方向に長く伸びる。
「瑞ちゃんもネコだから」
「聖がタチなだけ」
「言い得て妙」
以前マスターにからかわれたネコやらタチといった用語も、ようやく理解できるようになった。知識のない私をあれだけ指差してケラケラ笑うのは、今思っても軽く腹立つ。
ほとんど下ネタだったし!
私の体には触れるくせに、聖はなかなか触れさせてくれない。いいの?と聞いたところ、「知ってる?人間って脳でイけるんだよ」と真顔で言われたのは衝撃的だった。
人体、すごい。
脳でイくって何事なの。体験しなければ、その感覚は分からないものなのだろう。
聖が触れさせてくれない限り、私には知り得ない感覚である。
あれもこれもと、聖は迷いなく写真を見せてくれた。すでに枚数を数えられていないのだが、もしかしてこの量をすべて把握しているのだろうか。
背中、横顔、影。私が見ているのは聖の正面ばかりで、こうして背中を眺めるなんてこと、ほとんどしたことがなかった。
聖の視線を通した私の背中は、どこか切なさすらある。
心臓がキリキリ痛むのは、写真に乗った聖の感情。
「瑞氏、瑞氏!あまりお胸を押し付けないでくださいまし!」
「煩悩の新本」
「否定できないからやめてください!」
タオルケットの中でクスクス笑う。
肩に唇を押し付けたら、腕の中の体がびくりと震えた。
ここはぬるま湯。このままでいたい。
このままでいたいよ、聖。
それから間も無くして、聖の撮った写真はイタリアに飛んでいった。
どの写真を選んだのかは知らない。瑞ちゃんの写真だよ、としか聞いていないから。
隠し撮りされたものなのか、切なさの乗った背中なのか、挑発するように睨み返したものなのか。
出会った頃と、関係の名が変わった頃と、今。
私たちはたしかに変わった。変わっている。これからも変わっていくのだ。
謙太郎や晃太郎に抱いた、友人でいたいというたしかな感情。私と聖のあいだにも、私が聖に抱く感情にも、変わらないたしかなものがあるのだろうか。
ぬるま湯に浸かっていたいなんて、思っていてはいけなかったのだ。
あの日、聖はきっとありったけの勇気を振り絞った。
私のことが好きだと、私に恋をしているのだと、私と恋人になりたいのだと、そう声に乗せた聖の表情を、私はまだ覚えている。
受け止めたのは私だ。
聖を清水の舞台から突き飛ばしたのは私だ。
あの日の選択を、間違えたものだなんて思いたくはない。
考えなければいけなかったのだ。
噴水横のベンチから始まった聖の恋。
賞味期限は、もう切れている。
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