第9話 王子様




あお。キミには信仰心はあるか?」


 不意に圭一郎が蒼に問うた。感動のあまり呆然としていたおかげで、彼の質問の意味がわからない。声をあげようとしても唇が固まってしまったように、思うようには動いてくれなかった。

 圭一郎はその反応をどう受けとったのか、ステージの上に立つ我が子から視線を外すことなく言葉を紡いだ。


「日本人は信仰心がないと言うが、それは嘘だ。僕はね。人間が誰かを思ったり、心配したり……その人への想いを馳せることこそ信仰心に通ずるものがあると確信している」


 彼が何を言わんとしているのか。蒼にはよくわからない。しかし、彼はこの上なく嬉しそうに笑みを浮かべていた。


「Ihr stürzt nieder, Millionen? 

 Ahnest du den Schöpfer, Welt? 

 Such' ihn über'm Sternenzelt. 

 Über Sternen muß er wohnen.

 あお。どうもありがとう」


 感動のあまり声も上げられない蒼の横顔に、圭一郎は声をかけた。


「あ、あの」


けいの演奏。ずいぶん変貌を遂げたようだ。私は感動した。きっと彼が変われたのはドイツに行ったからではない。


 圭一郎は力強くうなずくと、有田を見た。


「有田。帰る」


「蛍くんに会わないのですか」


「いい。あの子はあの子で進むべき道を見つけたのだとわかった。よし。私も音楽がやりたい。そうだ! 次のコンサートはメンデルスゾーンだ!」


 さすが圭一郎だ。やはり常識とは外れている、飛んでいる男だ。ぽかんとしていると、圭一郎は蒼の肩を掴まえた。


「蒼、キミに息子を託す。頼んだぞ」


「は、はい!」


 迫力に押されてつい返答をしてしまうが、圭一郎はそれに満足したように満面の笑みを浮かべると有田を従えてホールを出ていった。


 取り残された蒼と星野はぽかんとして椅子に座っていた。二人は顔を見合わせてから、ぷっと笑った。


「すごいですね。マエストロっていう人。あの。ドイツ語。なんて言ったかわかりませんでした」


「あれはベートーベンの第九の一説だ。『抱き合おう何百万もの人々よ。このキスを全世界に。兄弟よ、星空の上には愛する父(神)が住んでいるにちがいない』……いやいや。あのね。蒼。関口圭一郎がすごすぎるんだって。マエストロと呼ばれる人間がみんな思うなよ。

 あの人は若い割に、往年の指揮者並みの存在感醸し出すからな」


 星野は苦笑した。そして、それから蒼の背中を押す。


「おいおい。ファン第一号。ちゃんと感想を伝えてこいよ」


「え、あの。でも」


「いいの。あのねえ。ファンは控室に行ってもいんだぞ」


 星野はそういうと、蒼の腕を引っ張ってホールを後にする。正面玄関に向かう人込みとに逆らうように歩き、それからいつもの中庭に面した廊下に出る。ここから先は関係者以外立ち入り禁止になっている場所だ。中庭を横目にその廊下を進み、それから第三練習室に連れていかれた。


「ほらよ。しっかりな」


「あ、あの。星野さんは」


「おれはいいって。そのうち感想言っとくから。お前はちゃんとしておけ」


「は、はい……え? どういうこと」


 蒼の疑問には耳を貸さない星野は手を振ってさっさと戻って行った。一人取り残されるとどうしたらいいのかわからない。おろおろと第三練習室の前で右往左往していると、ふと扉が開いた。


「蒼? なにしている」


 真っ白い蝶ネクタイを緩め、いつもよりも上気した顔の関口は蒼に笑顔を見せた。彼にとってもよい演奏会になったことは一目瞭然だった。


「あ、あの。お疲れ様」


「ありがとう。どうだった? 大丈夫だったかな? みんなどんな反応だった?」


 いつもは、そう人のことに興味を示すような男ではないのに、関口は矢継ぎ早に蒼に問いかけた。


「あのね。ともかくね! すごいってこと! 客席のみんなが関口のことを見ていた。関口の世界に引っ張り込まれて夢を見ていたみたいだ」


「また。蒼は上手いね」


「ち、違うよ。本当だよ。ねえ、関口」


「なに?」


「お」


「え?」


「お父さんと仲直りしてください……」


 彼はそう小さく呟くと、ぺこっと頭を下げた。


 ——怒られるだろうか。関口にとったら父親というキーワードは嫌いなはずだ。ごめん……。でも。


 頭上から怒りの声が響くことを想定していたが、振ってきたのは関口の大きな手。ぽんと蒼の後頭部に大きな彼の手のぬくもりがあった。


「蒼に気を遣わせてごめん」


 彼の手があるおかげで蒼はそのままの姿勢でそれを聞いた。


「あの人のこと——父さんのこと。嫌いじゃないんだ。わかっているよ。ただの駄々っ子だって。でもそのくらいしないと、あの人の存在は大きすぎるんだ。もう心でも頭でも十分わかってる。あの人にはいくら走っても追いつけないって。あの人の音楽は大きすぎて、僕には受け止めきれないって」


 ——関口はわかっていたんだ……。


「父さんが僕のことをどんなに心配してくれているのかも知ってる。いつまでもくすぶっている僕のことを。でも素直になれないんだから仕方がない。僕は捻くれ者だからな。蒼ならわかるでしょう?」


 蒼はじっとしていた。


「父にあいだを取り持ってくれって言われたんだと思うけど——」


 ——図星。


「でも大丈夫だから。これは僕の問題だし。蒼には心配かけたくないよ。いつかちゃんとするし。ただ、まだちゃんとできる土俵に上がれていないんだ。ね」


「うん」


「よし。じゃあ、そういうことで」


 ぱっと手が離れたので蒼は顔を上げる。関口はいつも通りの意地悪そうな笑みを浮かべていた。


「わかった」


「そう? それよりどうだった? 僕の演奏。カッコイイでしょう?」


「ねえ、自分で言っているのはカッコつかないよ」


「そうかな? いいじゃん。自分のこと一番好きになれるのって自分じゃない」


 関口の言い分はわかるが、なんだか堂々と言いのけられると笑うしかない。


「はいはい。そうだね」


「なに? その適当な返事は」


「別に。なんか感動したの損した。もう、早く着替えなよ。荷物持ってあげるし」


 蒼は控室に山のように届いているプレゼントや花束を眺める。


「こんなに知り合い、いるの?」


「さあ? 送り主見たけど、知らない人ばっかりだな~……」


 ——それって純粋なファンからなんじゃ……。


 友達もいないし、自分と似通っている男だと理解していたのに、関口は女性にモテるようだ。それはそうだ。燕尾服であんな姿見せられたら。


 ——王子様みたいだもんな。


 蒼は捻くれた気持ちを押し込めて、引き釣った笑みを浮かべた。





— 第八曲 了 —

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