第2話 変人現る。
金曜日。市民オーケストラの定期演奏会が明日に迫っていた。明日は幸いなことに日勤だった。定時で終われば余裕で演奏会を聴くことができる。
遅番担当の吉田と残業組の星野と三人で事務所で過ごす。喘息発作は朝方がひどい。関口と部屋が離れていた良かったと思った。
一緒に住み始めてから数日が経過したが、特に問題はなさそうだった。お互いにプライベート空間は確保されているし、関口は一日中、下手すると夜中まで防音室に籠っていることが多い。結局は一人暮らしをしていような感覚だ。
蒼が日勤の日は、朝食と夕食は関口が作ってくれる。蒼が遅番の時は朝食と昼食を蒼が作る。洗濯は蒼の仕事。掃除は関口の仕事。買い物はお互いが。そんな雰囲気的に役割分担ができてきたところだった。
先ほどから大ホールでは市民オーケストラのゲネプロ(通し稽古)が始まっている。様子を見に行きたいのはやまやまだが、楽しみは明日の本番に取っておこうと我慢する。
今日はなんだか妙に静かな堂内の雰囲気。パソコンと向かい合っているとなんだか眠くなってくる時間帯だった。
朝方の喘息発作のおかげで眠れていないのだ。しかし、時計を見るとラウンドの時間だ。蒼は席を立つ。
「吉田さん、いってきます」
「ああ、大丈夫? 蒼」
「平気ですよ」
ここのところ顔色も悪い。星野ばかりではなく他の職員たちにも気を遣わせているようで気持ちが少しへこんでいた。
懐中電灯を持ち上げて事務室を出る。と——。長身の針金のような男が自動ドアを潜り抜けて姿を現した。
あまり見たことがない人だった。梅沢のような地方都市では少し浮いてしまうようなお洒落な風貌だ。
焦げ茶色の秋物のコートが妙に長く見えるのは彼が長身だからだろう。そんなことをぼんやりと考えて立ちつくしていると、男は蒼を見つけたのか、視線を寄越してから蒼の元にやってきた。
間合いを詰められるとでも言うのだろうか。長い脚は、蒼との距離を一気に詰めてくる。
「君——」
ぽかんとしていると、男は蒼の目の前に立ちふさがり、そして言った。
「アオはどこにいるのかね?」
「あ、あの……」
「どうした? アオだ。アオはどこにいる?」
「あ、ああ、あの……」
——アオって蒼? おれのこと? こんな人知らない……。
まごまごと唇が震えて声にならない。男の持つ迫力、雰囲気、声の大きさ。すべてに気圧されてしまったらしい。膝がガクガクとして、どうしたらいいのかわからない。
「おや? おかしいな。しばらく日本に帰ってこなかったせいで、日本語がおかしいのだろうか? キミ。僕の言葉がわかるかな?」
返答に窮していると、騒ぎを聞きつけた星野と吉田が顔を出した。
「マエストロ!」
星野の声に、男は今度は彼を見る。
「おおお、星野くん。星野くんではないか。久しい、久しいな!」
男はそう叫ぶと、今度は星野ところに行き、腕を取ってブンブンと強引に振った。
「どうされたのですか。いつ日本へ?」
「今日だ。ついさっきだ」
「正確に言うと今朝ですが——」
自動ドアが開き、男と同じくらい長身のスーツ姿の男性が眼鏡をずり上げてため息を吐いた。
「少し目を離すとこれです。あれほど、
威圧的な男の言葉に、針金男はしゅんとしっぽを丸めた犬みたいに元気をなくした。
「有田さんまで。お仕事ですか」
星野はそう声をかけた。後から入ってきた男は有田というらしい。そして、この針金男。銀縁の楕円形の眼鏡。誰かに似ていた。
——あれ? この人……。
「僕はアオに会いたかっただけだ。星野くん! アオという子はどこにいるのだ?」
「アオ? ああ、アオなら目の前に」
星野の言葉に目を見張ったのは男だけではない。蒼もだ。
「お、おれですか」
「お、おおお! キミがアオ? え? ええ?」
彼は驚愕の表情を浮かべてから、蒼の元にやってきて、それから蒼の体を上から下まで触る。
「あ、あの!」
「な、なんと? 男か? キミは男性なのか?」
「そ、そうです。熊谷蒼です」
こんな堂々たる痴漢行為は生まれて初めてだ。もともと小柄で華奢なおかげで、電車で女性と間違われてお触りされた経験はあるが、公衆の面前でなんて!
蒼は顔を真っ赤にした。
「なんたることだ! アオ。
蒼が目を白黒とさせていると、有田は鋭い声でたしなめた。
「いい加減になさい。マエストロ」
「有田は厳しい! ひどいものだ。アオ、キミはどうだ? 我が息子はお気に召さないか?」
——我が息子?
そこではったとした。蒼が星野を見ると、彼は肩をすくめて苦笑いしていた。
「蒼、世界に名だたるマエストロ、関口圭一郎先生だ」
——この人が、関口のお父さん?
蒼は開いた口が塞がらなかった。
世界を飛び回る
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