第6話 迷い猫



「二千万円もするピアノを弾くなんて、滅多にない機会だ。まあ、弾く人間一人だけ。子供の場合は保護者一人まで同伴可。あくまでコンサートとかで利用してもらっちゃ困るって制約はついてんだけどな」


「そうなんですね」


「夕方、調律来るから。それまでこのままにしておけよ」


「あ、はい」


 ——こんな企画、人気出るの? ただここで一人で弾くだけじゃない。なにが面白いんだろう?


 そんなことを考えながら、消灯して真っ暗になった大ホールの扉を閉めようとしたとき。足元を黒い影が横切った。


「へ!?」


あお!」


「へ? え?」


 ばっと振り返ると、黒い物体は大ホールに消えた。


「な、なんです?」


「わかんねー。捕まえろ!」


「は、はい!」


 星野に言われるがまま蒼は走り出す。と、騒ぎを聞きつけた尾形と吉田の声が後ろから聞こえた。


「お前らも行け!」


「なんですか!?」


「黒い物体って!」


 尾形は太っている割に機敏に動く。座席の間を縫って、黒い物体を探した。吉田と蒼も必死だ。四人であちこち覗き込んでいると、吉田が「いた!」と声を上げた。


 他の三人は慌てて視線を吉田に向けるが、物体は移動しているらしい。


「尾形! お前の方に行ったぞ」


「任せてください!」


 太っているのに大丈夫なのかと心配になったが、彼は見事にを捕まえたようだった。


「捕まえた!」


 彼が両手で抱え上げたそれは、真っ黒なふわふわな猫だった。


「猫!?」


『ニャン』


 一同の驚きをよそに猫は小さく鳴いた。首元の空色のリボンが揺れていた。



***



 猫は飼ったことがない。しかしこうして、初めて触れてみると温かくて心地よかった。


「迷い猫だろ? 首輪している」


 高田のコメントに一同は頷いた。


「どこの猫だよ? どうするよ」


「どうもできませんよ」


 吉田が腕組みをして高田の言葉に答えた。蒼は猫を膝に乗せて頭を撫でる。『ニャン』と小さく鳴くのは嫌ではないということだろうか? そんなことを考えていると、なにやら作業をしていた星野が「できた!」と声を上げた。


 星野が見せたのはA3判の紙。先程、カメラで撮影した猫の写真を上に貼り、下には『迷い猫、飼い主求む』と書いてある。お問い合わせ先は星音堂せいおんどう事務所になっていた。


「お前はよー。本当、仕事早いよな」


 氏家の感想に蒼も同感だ。星野は口が悪いがなにかと面倒見がよく、吉田よりも気を回して色々なことを教えてくれたし、こうして仕事も早い男だった。


「吉田、蒼。これ貼ってこいや」


「はい」


 蒼は猫を下ろして立ち上がろうとするが、彼(?)はその場所が気に入ったのか、蒼の手に爪を立てて抗議した。


「痛っ!」


「おー、おー。蒼にすっかり懐いてんじゃねーか。じゃあ尾形な」


「えー」


「痩せるから。行ってこいよ」


「えー」


 星野に不満の声を漏らし尾形は渋々吉田とともに事務所から出て行った。


「しかし飼い主が見つからなかったらどうすんだよ? 今晩、事務所に置いとけないだろ?」


 高田の意見は最もだ。蒼は星野を見た。


「うちは預かれませんよ。アパートだし」


 星野は氏家を見る。


「いやいや。我が家もダメだって。孫が飼いたくなるからな。高田はどうなの?」


「え! うちもダメですよ。怖いんだから。うちの


 三人は蒼を見る。


「お前に懐いてんだ。お前、面倒みろよ」


「でも。うちもアパートで……」


「じゃあ、どうすんだよ?」


 そのうち高田は「保健所にやろう」と言い出した。


 ——保健所って……。


「保護猫で探してもらおうぜ」


「しかし。もし飼い主が見つからなかったら——」


 蒼の不安を星野が言葉にした。


「殺処分だろ」


 残酷な言葉に思わず猫に視線を落とす。猫はゴロゴロと喉を鳴らして膝の上で丸まっていた。


「仕方ないだろ。誰も飼えねーんだ」


 ——誰も飼えないから殺すの?


 心臓がどくどくと速くなるのがわかった。目の前に真っ赤な液体が幻覚のように現れては消えていく。


『アオ——。ワタシ ト イッショ ニ……』


 真っ赤に血塗られた細い指先が、自分を求めてくる映像がフラッシュバックのように目の前をちらつく。

 意識がどこかに持っていかれそうになって眩暈がした。


「だ——」


 蒼の呟きに星野たちは目を瞬かせた。


「おい、なんか言ったか——」


「い、いらなくなったら、殺すんですか?」


 ——世の中にいらない命なんてあるのだろうか? ある——。あるのだ。それは、きっと。


「蒼?」


「人間はいらなくなったら捨てるんです。用済みだから。面倒だからだ」


「お前、なに言ってんだよ?」


 困惑したような顔をさせたいわけではないのだ。だけど心がざわざわとしていた。息が苦しくて必死に酸素を求めようと肩で息をつくのに、息苦しいのはよくならない。


 ——これ以上言うな。止めろ。


 心のどこかでそう声が響いているのに、ざわざわとした気持ちを抑えきれない。思わず手に力が入ったのか、猫は驚いて床に飛び降りた、その時。


「星野さん! 飼い主さんいましたよ!」


 吉田の明るい声に引き戻された。ざわざわとした気持ちが霧が晴れるように薄れた。


 吉田と尾形の後ろには初老の女性が立っていた。


「ミー子ちゃん! ミー子ちゃん」


『ニャン』


 ミー子と呼ばれた猫は飼い主を見つけると、鈴を鳴らしながら走っていった。


「すみませんでした。裏に住んでいる鈴木です。いつも外に出ない子なんですけど、今日はたまたま出てしまって。まさか、星音堂に来ていただなんて」


 飼い主に抱かれた白猫は目を閉じて幸せそうにしている。星野たちは「殺処分」の話をしていたことにバツが悪かった。


 何度も頭を下げて出て行く鈴木を見送ってから、星野は珍しく蒼に謝罪した。


「悪かったな。蒼。なんか嫌な思いさせたか? 顔色悪いぞ」


 蒼は首を横に振った。


「いえ。おれも大人気がなかったです。すみません。なんか可哀想で」


「言い過ぎたな」


 氏家は高田を見るが、彼は素直ではない。「別に大したこと言ってないけど」と言葉を濁した。


 



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