第4話 お前、終わってんな――。



「星野の目の前の席、氏家さんの隣が尾形おがた。——まあ、見ればわかる。食いしん坊だ。以上」


「え~、課長。もっとおれのこと褒めてくれないんですか?」


「褒めるところがあるか? ああ、昼飯の時間。時計を見なくてもわかるってくらいだろうな」


「ひどいですよ~」


「ちなみに、さっきのぞき見していた奴な」


「課長!」


 他の職員たちはどっと笑うが、あおはそんな余裕はない。お腹が出ていてズボンがはち切れそうな尾形にも丁寧に頭を下げた。


「そして最後。尾形の隣に座っていてお前の目の前にいるのが吉田。お前と一番年の近い先輩だ。お前の教育係をする。わからないことは、ともかく吉田に尋ねるように。いいね?」


「は、はい」


 蒼は必死にうなずいてから吉田を見た。鳶色とびいろの瞳が優しそうだ。身長も蒼とさほど変わらないし、先ほども星野との間に入ってくれた。

 いい人そうだと思って、内心ほっとした。


「よろしくお願いします」


ぺこっと頭を下げると、吉田は柔らかい笑みを浮かべた。


「よろしく。えっと……蒼」


「じゃあ、蒼は星野の隣に座って。吉田、頼んだぞ。僕は年度初めの挨拶回りで本庁に戻るからね」


「わかりました」


「じゃあ、蒼。しっかりね」


 水野谷に背中を押されて、そして吉田の目の前に送り出された。吉田はにこっと笑みを浮かべてから蒼を見ていた。



***



星音堂せいおんどうの概要は聞いた?」


 蒼は会議室に吉田と並んで座った。灰色の事務机にパイプ椅子。いかにも役所という感じの備品だった。一方の壁面には書類棚。出入口とは違い、もう一つの扉が付いている。


「は、え? ええ。課長からここに来る時にさわりだけ……」


 あおの回答に吉田は「そう」と答えてから、手元にあった紙の束を出して説明を始める。どうやらオリエンテーションとして準備してくれていたようだった。しかし蒼は、会議室の中にあるその扉がどこに通じているのか気になって仕方がなかった。


「地方自治法と劇場法——劇場、音楽堂等の活性化に関する法律っていうんだけど、それはちゃんと読んでおくように。あと、これ。市の条例でしょう。それから運営の規定と……なに見てんだよ?」


「えっと。すみません。だって、あの扉が気になっちゃって……」


 正直に感想を述べると、吉田は「ああ、あれは仮眠室」と説明をしてくれた。


「星音堂は遅番があるだろう? 夜勤までとはいかないけど、なにかあった時のために簡易ベッドがあるんだよ」


「そうなんですね。すみません。話の途中なのに」


「別にいいよ。好奇心は大切って課長がいつも言ってるもん」


 吉田はそのまま説明を続けた。


「星音堂には日勤と遅番っていう勤務体系があるんだ。日勤は八時半から五時十五分までね。遅番は、十二時四十五分から夜の九時三十分まで。遅番は三日に一回くらい回ってくるから。本庁と一緒で週休二日制だけど、施設自体のお休みは月曜日。なので、土日で二つに分かれてもう一日の休みを取る感じかだけど、なにせ週末はイベントが多くて忙しいよ」


 吉田の説明に蒼はメモを取る。そんな様子を見ていた彼は微笑ましいとばかりに笑みを浮かべた。


「初日から必死になることはないよ。少しずつ覚えればいいよ。なにせ、ここの部署は続くんだからね」


「え?」


「えっと、いや。なんでもない。まあ、追々ってことでね」


 吉田の言葉の意味がわからない。蒼は首を傾げながら吉田の話に耳を傾ける。と、星野が顔を出した。


「おおい。まだ終わんねーのかよ」


「そんなすぐに終わりませんけど」


「なんかよー。関口の野郎が日本に帰ってきたってメールきたぞ」


「星野さん、関口が帰ってきたのを喜んでいるのはわかりますけど、新人オリエンテーションの邪魔をしないでくださいよ」


 吉田は顔をしかめつつも、星野のはしゃぎように苦笑いを見せた。


「ちぇ〜。せっかくみんなに教えてやってんのによお。誰も食い付かねーの」


 悪態をつきながら星野が出て行くのを見送り、蒼が不思議そうにしているのに気が付いたのか、吉田は適当な説明をしてくれた。


「関口ってね。星野さんがすごく可愛がっている子だよ。しばらくドイツにいたんだけど日本に帰ってきたってさ。まあ、蒼には関係のない話だよ。気にしなくていいよ」


「はあ……」


 ドイツに留学? 仕事? まあ、自分には関係がない。そう判断をして、蒼は吉田の説明に意識を向けた。




***



 市役所職員として新採用された者たちは、四月に初任者研修が割り当てられる。市役所の概要、業務関連などの基本的な講義。更に書類作成、プレゼンテーションのスキル習得、そして接遇マナーなどを学ぶのだ。


 研修は二週間にも及び、その間は部署を離れて県の研修センターに通った。本当なら早く部署に慣れたいところだが、仕方のないことだ。


 書類の作成は、大学時代のレポートや論文などとは到底かけ離れた特殊なものだ。特に『公文書』に関しての講義は難しく、到底自分で書けるとは思わなかった。


 公務員については学んでいたつもりだったが、実務になると未知なる世界に他ならなかった。


 研修中、同期の仲間とは同じ課題をこなしたり、食事を共にしたりするおかげで、なんとなく連帯感が生まれる。しかし蒼はどうしても馴染むことができなかった。


 『どこの部署にいるの?』と尋ねられて『星音堂せいおんどう』と答えると皆が一様に気の毒そうな顔をするからだ。


『最初から財務部とか、お前ツイてるなぁ』


『まあ、最初は市民部からが相場だろう?』


『それにしても、地域福祉課って——生活保護キツいな』


 そんな会話の中、なんとなく蒼だけが取り残されたような気持ちになった。


「星音堂なんて——お前。終わってんな」


 最後に言われた言葉の意味がよくわからなくて、なんだか嫌な気持ちにしかならなかった。


「星野さん……なんかおれ、って言われました」


 初任者研修から帰って星野にそう言うと、彼は「言いたいやつには言わせておけよ」と言われて終わった。


 まあ、あの同期たちとはそう顔を合わせることはそうないのだ。蒼はあまり気にしないことにして、とりあえずは目の前の仕事に専念しようと思った。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る