第35話 とりあえず、ドロップキックの一つでも

 ――――何でかな……。


 寂しい、なんて言葉とは無縁そうなヒトなのに。

 甘く香って、忘れがたいのに、はかない。

 そんな香りがしっくりくる。

 そう、思った。

「ってわけで、コレやるよ」

「ふえ?」

 ポンとてのひらせられたのは、小さく金色のリボンが掛けられ簡単に包装された箱。

 軽く振ると少し水っぽい音がした。

 開けてみ? とシェルディナードから言われてリボンを解いて包装を剥がす。箱を開けると、衝撃緩和材の詰められた中、掌に収まる可愛らしいデザインの小瓶があった。

「わ。可愛いです」

 箱から取り出すと街灯の光を受けて瓶が薄紅から水色に淡く変化する。金晶雪華ルチルフィオナの花が浮き彫りになっている以外には装飾はない。

「これ、香水ですか?」

「そ。あんま強い匂いじゃないから、ミウでもつけられるんじゃね?」

 とは言え、と。

「ミウ、つけ方知ってる?」

「知らないです。でも、確かあんまりつけちゃダメなんですよね!」

 ミウの答えに、シェルディナードが小さく笑ってそっと香水瓶に手を伸ばす。そのまま受け取り、蓋を開けると一瞬だけ強く香った。

「片方、手首出して」

 ミウが差し出した手首に軽く香水瓶の口を添え、一滴つくかどうかで離す。

「その手首を首の後ろとかに擦り付けんの」

「こう、ですか? ……あ、香りがします!」

「つけるのは手首、足首、あと首の後ろが無難だな。体温で香り立つから、体温が伝わりやすい所につけんだよ」

 ほい、と。蓋をしめた香水瓶をミウに返す。

「ありがとうございます」

 良い匂い。そう喜ぶミウに、シェルディナードが軽く息をつく。

「ミウ」

「はい?」

 パッと顔を上げたミウのすぐ目の前に、少しかがんだシェルディナードの顔があって、ミウはピタリと動きを止める。

 赤い赤い、深い瞳。ミウの顔の横を通り過ぎて、声が耳許に。

「香水を贈る意味、知ってるか?」




     ◆ ◆ ◆ ◇ ◆ ◆ ◆




 ――――良い匂い!


 ほわっと香った花の匂いは、一瞬の鮮やかさを残して余韻よいんと共に雪が溶けゆくように馴染なじんでいく。

 甘く、柔らかく、控えめに。けれど印象は鮮やかに。

 その香りに嬉しくなって思わず笑顔になった所での呼び掛け。

「ミウ」

「はい?」

 なんの警戒もしていなかった。普通しない。


 ――――っ!!!!


 目の前にある整った顔と、甘く深く絡めるように惹きつける鳩血色ピジョンブラッドの瞳。

 サラの時とは違う意味で動けなくなったミウの耳許に、花よりも甘く香る声が落ちる。

「香水を贈る意味、知ってるか?」

 香水のつけ方すら知らないのに、知るわけ無い。そもそも贈られたの何か初めてだし、何なら贈られる事なんて最初で最後かも知れないのだ。


 ――――ふっぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!? 心臓! 心臓痛い!? 声っ、耳っ! なんっでっ! いちいち近いんですかーっ!!!!


 心臓が止まる。

 本気で止まる。やめて欲しい。何でこの先輩はいちいち近いんだそうかセクハラ先輩だからか。

 そんな言葉がぐるぐると頭の中で繰り返す。

 バクバクと全力疾走したみたいな動悸どうきがして、顔が赤くなっていくのを感じ、ミウは息の根が止まりそうになった。

 本格的にくらくらしそうになる直前、シェルディナードが何事も無かったかのように身を離す。

 ついでのようにミウの鼻先を指で軽くつついて。

「俺以外の奴に贈られたら、気をつけろよ?」

 クスクスと笑ってシェルディナードはきびすを返す。

 少し歩いた先で、うーん、なんて伸びをしているその背中を、無性に蹴りつけたい衝動に駆られた。


 ――――ダメかな? 良くない? とりあえず、ドロップキックの一つでも…………と、いうか。


 シェルディナードが振り返る。

「どうした? ミウ」

 屈託くったくなく笑うその顔が、子供みたいに無邪気で無防備で。


 ――――一番気をつけなきゃいけない相手、シェルディナード先輩ですよね!?


 楽しそうに、嬉しそうに、名前を呼ぶの、やめて欲しい。

「ミーウ?」

 さっさと先に行って、置いてきぼりにした事にも気づかなければ良いのに。

「~~っ」

 香水瓶をぎゅっと握って、ミウはシェルディナードを睨み付ける。


 ――――シェルディナード先輩の、ばぁぁぁぁぁぁか!!


 語彙力ごいりょくという単語をものの見事に忘れつつ、ミウは香水瓶を箱に収めて鞄に仕舞う。

 わざと歩調を合わせたり、危なくないかと気を配ったり、

「ミウ、来いよ」

 優しく笑ったり、しないで欲しい。

 差し出された褐色の大きな手。夕焼けみたいに笑うヒト。

「…………」

 人をからかって、遊び倒して、誠実さの欠片もなさそうなのに。

「ミウ?」

 いつだって、真っ直ぐにこちらを見てくるヒト。

「そんなに、呼ばなくても、聴こえてます」

「そっかー?」


 ――――ドロップキックしたら、香水割れちゃうし。


 止まっていた足を、一歩踏み出す。

 ほんの数歩でシェルディナードの隣に並ぶ。

 夕闇迫る路の上、不釣り合いな影二つ。


 ――――影くらい、釣り合っても良いのに……。


 身長が違うから、あり得ない。

 そんなのは、わかっているけど。

 じくじくと心臓に毒が回る。隣に並ぶだけなのに、苦しくて逃げ出したい。でも、逃げられない。

「シェルディナード先輩はズルいです……」

「ん?」

 ポツリとこぼしたミウの言葉に、シェルディナードが表情はそのままに首を傾げる。

「何でなんでも出来るんですか」

「えー? 何でも出来るわけじゃねーよ?」

「嫌味ですか」

「違うって」

 ぶすっと膨れるミウの頭を、シェルディナードがわしゃわしゃ撫でる。

「ちょっと、シェルディナード先輩!」

「秘密、教えてやろっか?」

「はい?」

 キョトンとミウは緑の瞳を丸くして、シェルディナードを見上げた。

「俺とサラ、幼なじみってのは前に話したじゃん?」

「あ、はい」

「で。高位の貴族って大抵たいていは家庭教師で高等部くらいまでの範囲、中等部くらいの年齢までにやっちまうんだよな」

「はあ……」

「俺の家って十貴族って言っても末席だから本来そんなの関係ねーんだけど、サラの幼なじみだったから、サラのついでに俺も一緒に授業受けてんだよ」

 だから、と。

「成績良いのは、もう一回やってるからって事。一回やった内容なら、出来て当然だろ?」

「…………」


 ――――一回やっても、そんな風に出来ないと思いますけど。


 それを言ったらミウだって講義を聴いたら試験が楽勝になる。けど、現実問題そんなうまい話は無いわけで。

「料理も、別に最初は俺だって失敗したし」

 オムレツ焼くとき目を離して焦がしたり、肉の解体に失敗して部位ダメにしたり、と。シェルディナードは笑う。

「俺に出来る事なんて、少ねーよ。今だって彼女一人、笑顔に出来てないし?」

「そ……っ!?」

 むぎゅ、っと唇に押しつけられた甘い匂いがするもの。思わず口に含むと、体温によって瞬く間に溶けていく。

 綺麗なチョコレートの包み紙をカサカサと折り畳んで、シェルディナードがニヤリとした。

「俺よりチョコの方がミウを笑顔に出来るだろ?」

「ひ、人を食いしん坊みたいに言わないで下さい!」

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