第十六話 夫の追跡。

 二カ月が過ぎると鏡に映る私が健康的になってきた。常に青ざめていた顔色は血色も良く、普通にはまだ遠いものの、骨と皮という状態ではなくなった。頬に手を当てると温かい。睡眠と食事、そして毎日の労働の大切さを感じる。


 あれから王子は、私の肩ではなく手を握るようになった。適切なというよりも、少し物足りない距離がもどかしくて恥ずかしい。


 好きになりつつあっても、王子の愛人になる覚悟はできていない。もしも王子が妃を娶ったらと考えると、私はきっと王子妃にとって憎悪の対象になってしまう。


 私はダグラスに愛情を感じていなかったのに、ルイーズに嫉妬に似た感情を抱いていたのだから同じように誰かを苦しませたくないと思う。


 フリーレル王国の王城へ行っていた王子が、四角くて平たい箱を持って帰って来た。

「イヴェット。お土産だ」

「それは……」

 見覚えのある箱に、受け取ろうとした手が止まる。


「チョコレートは嫌いか?」

 やっぱり。

「いえ。嫌いではありません。……ただ……苦手な思い出が」

 ダグラスの愛人のお下がり。そうではなかったかもしれないけれど、一度ついてしまった印象がどうしても拭えない。


「これは新作だそうだ」

「新作?」

「チョコレートのクリームを、チョコレートで包んであるらしい。美味いという評判だ」


 長椅子に並んで座ってお茶を淹れると、王子がチョコレートの箱を開けた。確かに以前見たチョコレートとは形状が異なっている。薄い茶から濃い茶まで、丸い粒が仕切られた箱の中に納まっていた。


 王子が粒をつまんで空に放り投げた。

「あ!」

 私が驚きながらチョコレートを目で追うと、王子の口の中に落ちた。王子は笑いながら、チョコレートを咀嚼する。


「なかなか上手いだろ? これも剣の師匠に習った。王城では絶対出来ない」

 それはできないと思う。驚きでどきどきが止まらない。

「剣の師匠は、いろんなことをアルテュールに教えて下さったのですね」

 あまり行儀の良いことではない気がしても、王子が楽し気に笑っているからいいのかもしれない。


「やってみるか?」

「い、いえ。絶対に無理です」


「口を開けて」

「ええっ? ま、まさか?」

 私にも先程の行為を求めているのだろうか。王子がチョコレートをつまむので、仕方なく口を開く。


「はい」

 開いた口にチョコレートが入れられた。口を閉じて粒を噛むと、外側が硬くて中は柔らかな食感。果実酒の香りがふわりと広がって鼻に抜けていく。


「美味しい!」

 以前食べたチョコレートとは違っている。

「……好きなものに苦手な印象がついてしまったなら、他の楽しい印象で置き換えてしまえばいい。一度で駄目なら、二度、三度と繰り返す。そうすれば、どんどん苦手な印象が小さくなっていく。完全に消すのは難しいが、見ただけで不快になることは少なくなる」

 そう言って、王子はまたチョコレートを空に放り投げた。


      ◆


 レガレルア王国に滞在している夫に会いに行っていたマリーが帰ってきた。

「アルト、古物商から伝言があったそうです」

 マリーから手渡された小さな紙を広げると王子が喜びの笑顔を浮かべた。


「白い織機の件が何かわかるかもしれない。この館を作った人物の日記が見つかった」

「日記ですか?」


「この館が出来た三百年前、個人の日記を出版することが流行したらしい。当時の持ち主を調べて日記が出版されていないか、あちこちで探してもらっていた。明日、早速出掛けよう」

 王子の笑顔に期待を寄せて、私は頷いた。


      ◆


 翌朝、私はマリーに手伝ってもらって茶色のかつらをつけた。王子は金髪を靴用の茶色のクリームで汚し、茶色の布で出来た仮面を着けている。上質ではあっても、平民のような服はとても動きやすい。


「あ、あの……」

 二人で鏡の前に立つと違和感があった。髪色が変わっただけなのに、どちらも本人とは思えない。

「王子とバレると面倒だ」


 転移先はレガレルア王国。マリーの夫が持つ家の一つだった。小さく可愛らしい家は周囲が高い壁と木々で囲まれ、外からは覗き見ることができない。


 再度夫に会いに行くマリーと別れ、私は王子と一緒に古物商へと向かう。

「イヴェット、気を付けて」

「ありがとう。マリーも気を付けて」

 マリーは数日間、夫と休日を過ごす予定と聞いている。頬を赤くしたマリーはとても可愛らしい。


 門の外で別れた後、王子は左手の手袋を外して、手を差し出した。

「イヴェット、手を繋いでもいいかな。はぐれると困る」

「はい」

 私も右手の手袋を外して、手を繋ぐ。大きな手だと改めて感じて頬が熱くなっていく。


「い、いこうか」

 茶色の仮面で目は見えなくても、王子の耳が赤い。


 貴族の店ではない平民用の店が立ち並ぶ街並みは、色とりどりで賑やか。明るく笑う人々の声、道を歩く人を店に呼び込む声を聞くだけで心が弾む。


「あの店だ」

 三段しかない階段を登り、店の扉を開けるとがらんがらんと大きな鈴の音が鳴る。

「この鈴の音は何ですか?」

「客が来たという合図だ」


「いらっしゃいませ。今日は何をお求めですか?」

 灰色の髪の老人が、あまり品が良いとは言えない笑顔を浮かべながら、こちらの頭から足先までに視線を向ける。品定めされているようで居心地が悪い。


「取り寄せを頼んでいた品を受け取りに来た」

 品名を言うと、店主が奥の部屋から一冊の分厚い本を持ってきた。代金を支払い、王子が肩掛け鞄に入れる。


「何か見たいものがあるか?」

 私が店内を見回していたからなのか、王子が笑って手を引く。


 古物商の店内は、ありとあらゆる物が無秩序に棚に詰められ、天井からも物がぶら下がっている。私の背よりも高い棚が店内を迷路のように区切っていた。


「これは何でしょうか」

 硬い不思議な感触の残る布を見つけた。

「麻で出来た布だ。意外と丈夫で船や馬車で荷物を運ぶ時に使う袋にもなる」


 面白いと思う。私の興味は布や布製品に向かい、疑問は博識の王子がすべて答えてくれた。

「機会があれば麻の布を織ってみたいと思います」

 綿や毛、絹とは違う手触りが興味深い。

「早くあの白い織機の正体を確かめないとな」


 話しながら棚の間を歩き、長い時間滞在していても一人の客も訪れない。これで商売は成り立っているのだろうかと小声で言葉を交わす。手間をかけて取り寄せたという日記も、大した金額ではなかった。


 がらんがらんと鈴の音が店内に鳴り響く。やっとお客が来たらしいと王子と顔を見合わせて笑った時、空気は一変した。


「お前が店主か! この腕輪を誰から買った!」

 怒鳴り声が店内に響き渡り、背筋が凍る。……ダグラスの声に似ている気がする。

「仕入れ先はどなたに聞かれてもお教えできませんよ。うちは信用商売だ。秘密を洩らせば商売できなくなっちまう」

 店主のきっぱりとした声が聞こえた。


「この水宝石アクアマリンの腕輪は行方知れずになった私の妻の婚姻の腕輪だ! お前が宝石商に売ったことはわかっている! 誰から買ったか言え!」

 行方知れず? 自分が売ったのに? 怒鳴り声が恐ろしくて体が震える。あの苦しかった日々の記憶が次々と浮かんでは消える。王子は耳を手で塞ぐ私を抱きしめ、温かな腕の温度と心臓の音が私を包む。


「言えと言っているだろう! 命が惜しくないのか!」

 怒鳴り声は続き、ついには何かが破壊される音がした。


「そ、その市場の奥にある、ヒ、ヒューロの酒場の常連だ。か、顔は知っているが、な、名前は知らん。朝、道に落ちていたと言っていた」

「その酒場に案内しろ!」


「み、店が……」

「命と店とどちらが大事だ! 来い!」

 何かを引きずるような音、乱暴な足音と玄関の鈴が鳴り響き、店内は静かになった。


「……彼が戻って来る前に出よう」

「は、はい」

 体の震えが止まらない。怖い。連れ戻されたら、きっとまた売られてしまう。


「大丈夫。私が必ず護る」

 私は王子の胸にしがみ付き、震えることしかできなかった。 

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